ただいまと言ったのは、彼の元がわたしの帰るべき場所であったからという意味ではない。
正しくはわたしをずっと待っていてくれたから、その行為に答えたのだ。忘れてしまった記憶の一部を共有していた彼に、わたしは応えなければいけない。
なんて、変わっていないのだろう。
初めの感想は、ただ単純に唖然とした。彼の部屋はわたしが引っ越しをした頃と比べて何一つ変化がなかった。棚の位置や工具の並べ方、片付いていない机の上にごちゃごちゃと設計図で飾られた壁、そして使っているのか怪しいベッドさえも同じ状態で保存されていた。わたしは、時間間隔がおかしくなりそうになる。クローバーの世界で過ごした時間など物ともしない不変が、目の前に広がっているのだ。それは恐ろしいもののようにさえ感じた。そして何より目の前に佇むこの時計塔の主に、変化が見られない。
まるでわたしの不在などなかったかのような顔だった。


「…………ようやく、か」


深い海の底を思わせる瞳にわたしを映して、ユリウスは言う。おかえりなどと、彼は言わない。
いつもどおりの優しくない声で言われたものだから、わたしはその意味など考えずに笑ってしまった。どんなに変化がなくとも、確かに彼との間には見えない時間差が生まれている。わたしがユリウスを、なんて懐かしいんだろう、と思うくらいには。
彼は、眉根を寄せて皺を作りながら不思議そうな顔をする。


「何を笑っている?」
「…………だって、ユリウス変わらないから」
「私に変わって欲しかったのか」


真面目な顔で続けるユリウスに、いいえと応えた。


「変わってなくて安心したの」
「変わっていなくて?」
「そう。もし変わっていたら、わたしはここには来られなかった」


わたしの思い描いたのは、彼と一緒に過ごした昔どおりのユリウスだった。そうでなければあの扉は目の前に現れなかったに違いない。彼は本当に、何一つとして変わらずにいてくれた。


「…………引っ越しは、どうだった」
「驚いたに決まってるでしょ。起きたら全然別の場所にいて、ユリウスはいなくて」
「だが他のやつらはいただろう。お前の気に入りの三月ウサギも、なぞなぞ好きの狂った猫も」
「うん。それに真面目なトカゲのグレイや可愛らしいネズミのピアスにも出会えた。とても楽しくて、とても自由だと思った。でもね」


他の人たちの名前をあげるたびに、ユリウスの眉間の皺は増えていき部屋の雰囲気は重たくなるようだった。彼はいつも娘の外出を嫌がる父親のように詰問する。
わたしはそんな彼の雰囲気は嫌いではなかったので、そんな表情をされても笑っていられた。


「でもね、ユリウスはいなかったのよ」


確認するように言うと、ユリウスが若干驚いたような顔をした。すぐに消えてしまったその顔は、いったいどんな感情の現われだというのだろう。わたしは彼に伝えたい言葉をもう決めてしまっている。最初は本当に心細かったのだ。起きた場所がまったく知らない場所で、ようやく馴染んだ世界が消えていた。どちらが夢で、何が現実なのか、不安で泣き出さなかったのはユリウスがいないことを頭で理解するよりも先に知っていたからだろう。


「淋しかったよ」


ユリウスの不在が、本当は淋しかった。声には出さず、心で否定して、彼に捕らえられてなどいないと信じた。実際に大変自由だったのが、わたしにそう確信させたのだ。本当はどこにも行かれやしなかったのに、どこにでも行けるように錯覚してしまった。
ユリウスは瞳を細め、ふいに視線を逸らした。


「…………淋しいのは私達のほうだとお前は言っただろう」
「うん。でも、わたしだって淋しかった」


答えると、彼の唇が皮肉的な笑いを浮かべる。


「…………お前が、か?」


ひどく意地の悪い、差別的なまなざしは初めてあったときの彼のようだった。少しだけ恐ろしく、同じくらい懐かしくなったわたしは、けれど怯んだりしなかった。だってもう知っているのだ。もう、理解している。彼がどうしてそんなことを言うのかも。
だからわたしも笑顔を消して、自分の中から精一杯真剣さを出すように瞳に力を溜める。逸らすことなどしない眼光に力があることを教えてくれたのはアリスだった。立ち向かうべきなのも、正すべきなのも今なのだ。ゆっくりと、わたしは彼にむかって手を伸ばす。手のひらを上に向けて、ぴんと肘をのばした。


「…………ちゃんと感じたよ。だってわたしは失くしたわけではないんだもの」


ユリウスの瞳が吸われるようにわたしの手のひらを見つめた。まるでそれが、何を表すかなど知らない顔をしている。もしくは、不当なものだという顔。


「でももう思い出したの。だから、返して」


渡したのは自分で、だからこんなことを言うのは彼に対しての裏切りなのかもしれない。
けれど、わたしは言うのだ。まっすぐにユリウスを見て、彼の目に映る自分を確認しながら。


「返して。わたしの心を」


いつかの日、考えなしのわたしがしでかしたひどく残酷な事実をわたしは認める。
あなたに預けた心を、どうか返してください。























道化の天秤





(09.08.22)