お前が堕ちてきた
はっきりと思い出せるのはその事態をユリウスが目にしたとき、ひどく迷惑だと感じたことだった。狂った世界に辟易していたし、自分のもとにそんな面倒ごとが毎回降ってくることも納得できなかった。受け入れるのも巻き込まれるのも嫌だったので、目の前のやっかいごとである彼女に随分冷たく接したのを覚えている。彼女はまるで事態を飲み込めていなかったし、困惑しているようだった。傍には元凶だと思われるような役持ちは――――アリスの件があってからこちら、ユリウスの彼らに対する不信感は以前とは比べ物にならない―――いなかった。彼女は膝をついたままこちらを見つめ、口を少しあけて実にまぬけな顔をしていた。 「お前は誰だ。なぜここにいる」 答えるわけなどないだろう。彼女はまったく要領を得ない顔をして、へたり込んでいる。どこから落ちてきたのかなど考えたくもないが、彼女はまさに迷い込んだのだ。 「ここはお前の場所ではない。さっさと帰れ」 あまりにも不機嫌だったものだから、名乗りもせずにそう告げた。彼女にしてみれば突然現れた男がいきなり不機嫌になり、八つ当たりされたようなものだろう。だがユリウスはそんなものすら考える余裕がなかった。彼女はなおもこちらを見つめ、何度か唇を動かすけれど、その呟きは声にも音にもならなかった。 仁王立ちになり彼女を見下ろし、忌々しげに瞳を細める自分はさぞ恐ろしく彼女に目に映っているに違いない。 「お前はひとりでここに来たんだろう? では戻るのも容易ではない。まったく何が楽しくてこんな場所に来たいなどと願ったんだ」 「…………」 「帰りたくないものが残るようにできてる。それに、戻るにしても一人では無理だ。…………まったく、招かれざる客がまたしても…………」 「…………あ」 かすかだが、声が聞こえた。それが目の前の女からだとわかったのは未だに開け閉めする口のおかげだった。そうでなければそんな小さな声など無視していた。 ひ弱そうな女だった。アリスのように反論するでもなく自分の意見を主張しない。自分に言われるままになっている女に、ユリウスは初めて同情にも似た感情を覚えた。 彼女は本当に戸惑っているのだ。自分がどんな状況に陥っているのかもわかっていない。アリスのように口論になるのも面倒だが、一応彼女の反応も窺うべきだろう。ユリウスは目だけで「なんだ」と言葉を促す。 「あ、の…………ここは、どこですか。わたし、部屋にいたはずで」 「時計塔だ。私はユリウス・モンレー。この塔の番人で、お前は不法侵入者だ」 「す、すみませ」 「ちなみにお前がいた世界とここはまったくの別次元である上に帰るのも容易ではない。お前はとんでもないことをしでかしてくれたんだ」 「…………わたし?」 「そう、お前だ。…………頭が痛い。なんでこう次々と…………。いいか。混乱するのは自由だが騒いだり泣いたりするなよ。私は女の涙みたいなうざったいもの、大嫌いなんだ」 泣くなよ。泣いてもいいが、泣くなら他所で泣け。そう言い捨てると彼女はわかったのかそうでないのか、うっすらと瞳を揺らした。 「お前の鍵はどこだ?」 早々に話を切り上げようと彼女に近づき、膝をついた。わけがわからないような顔をする彼女にポケットや服をチェックさせる。アリスはユリウスが見つけたときすでに帰るための鍵を巧妙に隠されてしまったあとだったが、彼女は違う。そうでなければどうしたって、それはあるのだ。 右のポケットを裏返しにさせたとき、やはり目当てのものは出てきた。アリスのものよりは随分小さな、涙型をした小瓶で、ハートにカットされたガラスが蓋をしている。彼女はこんなもの初めてみたというような顔をして、ユリウスを仰ぎ見る。 「それが鍵だ。あとはお前が強く願えば帰ることが出来る。せいぜい、強く願うんだな」 役目は終わったとばかりに立ち上がり、さっさと作業場に戻ろうときびすを返した。あんなに弱々しそうな上に震えているような女なら、すぐにでも帰るだろう。泣き顔を見せなかったことだけが褒められる点だった。 「あの」 予想外だが、ユリウスが塔に入るための扉の前まで来た時、彼女は自分を呼んだ。はっきりと、アリスよりもたどたどしく幼い声だった。彼女の方へ向き直ると、うっすらと表情らしいものを浮かべながらこちらを見やっている。 「なんだ」 「あの…………ありがとうございます」 それと、すみませんでした。わけもわからず謝っているのに、彼女の台詞は自然と耳に響いた。まるで謝り慣れているような、あいさつの一種ですらあるのかもしれないと疑いたくなる自然さだった。ユリウスは短く相槌を打って、その場をあとにする。ようやく仕事に戻れるのだと、深いため息をついた。 * * * * * * * * * あれからどのくらいの時間がたったのだろう。作業場に戻り机についてからすでに二つ、時計は直し終わっている。時間帯にすればもう二、三回は変わったはずだ。ふと手を止め、さきほどから自分がくだらないことを確認していることに気付いた。どのくらい時間がたったかで、彼女がもういなくなったかもしれない可能性を高めようとしているのだ。 私が時間に縛られるだと。 そんなことはあってはならないことだった。時計塔の番人であり、誰よりもそれらを制御できなければいけない役持ちであるのに、たった一人の女の為に時間を気にするなどしてはならない。 ありがとう、と発した彼女の顔が思い出され、ユリウスはやっと席から立ち上がった。とりあえず先ほどの場所に彼女がいなければ問題はない。確認するのも自分の務めと言い聞かせ、ユリウスはやっと階段に足をかけた。 「…………」 期待は裏切られるものだと知っていながら、ユリウスは自分がどれだけ期待していたか思い知らされるほどうんざりした。 彼女は先ほどと寸分たがわない場所にいた。違っているのは彼女が膝を抱え顔をうずめいていることくらいで、場所も時間帯も―――そういえばさっきも夜だった――――変わらない。その手にしっかりと鍵を握り締め、痛々しいくらいに体を小さくした彼女はかすかに震えているようでもあった。 泣いているのかもしれない、と更にげんなりしながら思った。 「おい」 「!!」 声をかけると面白いほど体が反応する。どうやら寝ているわけではないらしい。 ユリウスは膝を付き、その小動物のような彼女のつむじを見る。 「まだ帰れていなかったのか」 「…………はい」 「ちゃんと願ったのか?強く、はっきりと、自分がいるべき場所に戻りたいと」 問えば、彼女はこすりつけた額をそのまま上下させた。ユリウスはあからさまなため息を吐き、とりあえず彼女が帰られない事実を受け入れることにする。ゲームが始まるのかもしれないし、そうではないかもしれないが、どちらにせよ自分には関係のないことだった。 「とりあえず、立て。風邪でも引かれれば面倒だ」 「…………」 しばらくの沈黙のあと、は頭を振って拒否を示した。 「なんだ? 動けんとでも言うつもりか」 「違い、ます。ただ…………」 消え入るように小さな声が掠れていることに、ようやく気付いた。 「泣いて、るんです。止まらなくて…………」 だから顔をあげることも、一緒についていくこともできないと彼女は言う。 追い詰めたのだと、ユリウスはそこでようやく自覚した。良心が痛むなんて久しく経験していなかったが、それに似た葛藤が胸のうちで生まれてくる。彼女はそれから二度ごめんなさい、と謝った。これならアリスのほうがよほど逞しい。 ユリウスは一度目を瞑り、決意したように上着を脱ぎ始めた。そのまま彼女に上着をかぶせると随分大きかったらしくすっぽりと収まった。また驚いた仕草をする彼女を問答無用で抱き上げると、意外に軽くてこちらが驚く。 「え、え?」 「私の首にでも巻きついて、顔を隠していろ。目が腫れてる」 目の縁を赤く染めた彼女はそれほどひどい顔はしていなかった。瞳が潤んでいるので、艶っぽく見えただけだ。指示通りに彼女は自分の首に巻きつき、急いで顔を逸らした。 「…………あとは五月蝿くしないのなら泣いても構わん」 「へ…………?」 「止まらないんだろう。なら、仕方ないじゃないか」 なかば自分に言い聞かせるようにすると、彼女が小さく返事をした。 回された腕は温かく、体も熱があるかのようだった。どのくらいの時間泣いていたのだろう。帰れると言ったのに帰れない自分を不甲斐なく思ったのだろうか。自分を、責めたのだろうか。 ひっきりなしに浮かび上がる問いに、ユリウスは抱えた腕に力を込めた。面倒だと思ったし、厄介だと思いもしたのに、どうして自分は世話を焼いているのだろう。どこかへ行けと突き放すことも出来たというのに、どうして部屋に連れて行こうとしているのだろう。しかも、こういう場合は珈琲などではなくココアでも飲ませてやるべきなのだろうかなどと、気色の悪いことを考えているのはいったいどこのどいつなのだ。 「おい」 「は、はい」 静かだった彼女に声をかける。耳元で聞く声は女らしく華やいでいる。 「お前、名前はなんと言うんだ」 「あ…………、です。、」 そうか、とユリウスは満足そうに答える。名前を知っただけで何の解決にもなっていないのに、とりあえず聞けてよかったと思った。慎重に階段を下りながら、腕の重さがとても尊いもののように思っている自分がいることに気付いた。彼女はできるなら負担をかけないようにと必死で首にしがみついている。人の温かさに触れたのはいつぶりだろう。それを心地よいと思ったことなど、記憶の限りないに等しい。 やがて静かに涙を流しだしたを抱きしめながら、ユリウスは時計塔の階段を下り続ける。 |
(09.08.22)