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自室に戻り、部屋の中をぐるりと見渡して自分の部屋にはソファすらもなかったのかと肩を落とした。仕方ないのでいつものように作業台に向かう椅子に腰掛ける。サヤは相変わらず静かに涙を流していた。運動不足のユリウスにとって彼女を抱えながら階段を降りることは容易ではない。けれど、どうしても手放してはいけない気がしたし、邪魔だとも思えなかった。
時折嗚咽が漏れるだけで、サヤは本当に静かだった。自分がそう願ったはずであるというのに、ユリウスは少しだけ心配になる。少なくとも自室に着いたというのに彼女を腕から離さないくらいには、気になっていた。


「大丈夫…………なわけはないな」
「…………」
「答えなくていいから、聞いていろ。お前に必要な話だ」


帰ることが出来ないのなら、この世界の知識は必要だと思った。こんな脆弱な女が何一つ知らずに外に出れば間違いなく蜂の巣だ。ユリウスは簡単なこの世界の勢力の説明と、その主要人物たち、治安や経済のあれこれを聞かせる――というよりは独白のように――言い続けた。彼女は聞いているのか、ときどき頷く。


「それから…………これが一番大事なんだがな。その小瓶、絶対に無くすなよ」


小瓶、と言われてサヤは今までずっと握りしめていたものを再度確認する。
ガラスで出来たそれには液体が八分目くらい入っている。


「それは…………言ってみればお前の心そのものだ。帰るためには絶対に必要になる」


ユリウス自身曖昧に言ったそれが、本当に彼女の心を写しているのだとすればなんと小さなものだろう。落としてしまえばどんなに低い場所からでも割れてしまいそうだし、子どもでも握りつぶせてしまえそうだった。
サヤはわずかに間を開けたあと、少しだけ強く頷いた。そうしたあとでおずおずと顔をあげた彼女は先程より瞳を赤くして、叱られた子どものように頼りなさげにユリウスを見ている。膝に乗せているので彼女と視線を同じくしながら、ユリウスは自分でも驚くほど柔らかく微笑んだ。


「落ち着くまでここにいればいい。お前が、帰れるようになるまで」


サヤは鼻を啜って頷き、体と似合わず子どものような声を出して礼を述べた。大人と子どもの間のような彼女は、それでも伸びやかな肢体や整った造作の持ち主であることを、ユリウスはやっと気付く。おもわず抱きしめていることについて赤面しそうになるくらいには、綺麗だった。
それからサヤがこの世界を理解するのに時間はそれほど必要ではなかった。なにしろ彼女は窓から見る風景で世界のすべてに満足しているようで、ユリウスの部屋から出たがらなかったからだ。ユリウスはそんな彼女に知識を与え続け、サヤはそれを吸収していった。あまりにも従順に自分に従うサヤはひな鳥のようで、けれど自分の意見を言い出すようになった彼女は新鮮で嬉しかった。落とされたときは本当に混乱していただけだったのだ。彼女は自分がどんな立場にあり、何をしなければいけなくて、必要な種類の情報を集めれば、とても冷静になれる女だった。


「帰りたい、ユリウス」


初めは敬意を表していたらしい「さん」付けは、面倒なのでやめさせた。サヤはぼんやりと窓の外を見ながら、帰りたい、といつものように連呼する。何度となく言われ続けた言葉で、正直彼女のこの呟きだけは辟易していた。


「願っていろ。願わなければ帰れなくなるぞ」
「うん。…………大丈夫、願わなくなるなんてそんなこと絶対ないから」


言われるたびに鈍痛が体を刺し貫く。どこにも行かず、自分の手に収まっているはずの彼女はそれでも手に入れられやしないのだ。少なくとも視線の先の雲ほども、自分は留め置けていないのだろう。けれど時折思い出したように涙を流す彼女に、この苛々をぶつけることなどできなかった。
アリスに会わせようと思った。少なくとも同じ女同士ならサヤも自分のゲームをすすめることが出来る。それで自分のどこからくるともない痛みも消えるかもしれない。そう思ったのでエースにアリスを呼びに行かせた。自分が塔から出て行くなんてまっぴら御免だし、サヤはエースを怖がっている節がある。それとエースの人的にはありえない方向音痴も考え、早めに呼びに行かせたのだが結局塔についたのは予想よりも遅かった。
随分疲れたようなアリスはあきらかに不機嫌な顔をして、ユリウスを睨んだ。御用ってなんなのかしら、と強気な発言を聞くと彼女が変わっていないことが知れた。


「はじめまして、サヤって言います」


自分の後ろから現れたサヤに対してアリスはひどく狼狽しているようだった。後にあんなに落ち着いているなんて思わなかったもの、と感想を漏らしたアリスはサヤがどれだけ慌てていたか―――服に変なところはないか、挨拶に問題はないか、嫌われたりしないか――知らない。
アリスには、この世界を案内してやるように頼んだ。自分は仕事があるし極端な面倒くさがりだ。それにサヤは買い物のとき塔周辺を歩くくらいで、遠出などしなかった。アリスがまさに適任だった。エースに頼めばアクシデントに慣れていないサヤの身が危ない。
アリスは少しだけ考えて、ゆっくりと頷いてくれる。わかったわ、と意思的に言う瞳は相変わらず強気だ。サヤはここでもきちんと礼を述べて、では最初はどこに行くかという相談に移った。アリスがまずは自分がお世話になっているビバルディにと主張し、エースも同調する形になったのでユリウスも興味がなさそうに同意した。サヤが窺うように自分を見るものだから、ユリウスは頷くしかなかったのだ。


「じゃあ、一度私は戻るわね。ビバルディに了解を得てからまた迎えにくるわ」


今度はエース抜きでね、と皮肉的にアリスは付け加える。よほど散々な目にあったのだろう。サヤは笑顔で手を振って、アリスとエースを見送ったあと少しだけほっとしたような顔を見せた。まるで大役を終えたような顔をするので、笑ってしまう。


「…………進められたの、かな」


小さく呟いた彼女の言葉が、それまでとは比べ物にならないくらいの痛みを伴ってユリウスに染み込む。ゲームを進めろと言ったのは自分で、そう促したのも自分であったというのに、あろうことかそれら全てを後悔しそうになっていた。
気分が、悪い。
サヤは外にでる手段を手に入れてしまった。元々適応能力のある彼女が遊園地や城やマフィアに馴染むのも時間の問題だろう。サヤには重々言い置いてあるが―――決して深入りすることなどないよう、心に入り込まれることなどあってはならない―――間違いなど、どこでだって起こりうる。
思わず行くなと言いそうになった。けれど言いそうではなく、言いかけたユリウスはサヤが突然自分を振り仰いだので何も言えなかった。


「あのね、ユリウス。頼みがあるんだけれど」


こちらの返事など聞かずにサヤはポケットから例の小瓶を取り出し、少しだけ見つめた後でユリウスに差し出した。わけがわからず、ユリウスは眉根を寄せる。


「持っていてほしいの」
「…………私が?」
「そう。だって、大切なものだから壊したら大変だし。どうせわたしの元に戻ってくるように出来ているんでしょう?」


アリスの小瓶は彼女が移動すればどうにかして付いてくるようだったし、なにしろこれは彼女の心なのだ。誰かに留め置けるものでもない。


「だから、ユリウスが持っていて。わたし、それを持っていると上手く笑えないし、気持ちが悪くなるの」


だって、わたしの心なんでしょう。まるで不気味な物体でも見るかのようにサヤは小瓶を見つめる。自分が好きではないのだろうと思ってはいたが、まさかここまでとは思わなかった。ユリウスは半ば無理やり押し付けられたその小瓶を見つめる。彼女にとっては不安材料なのかもしれないが、自分にとっては持っているだけでひどく安心するもののようだった。なにしろそれは彼女の心そのものなのだ。


「…………しばらくの間、だぞ」
「うん、ありがとう。ユリウス」


微笑んだサヤはまったく無防備だった。まるでもう大丈夫、と言うような笑顔には見覚えがある。
忘れる、と思った。彼女は上手くすれば、この小瓶の存在そのものを忘れてしまう。なにしろ彼女はユリウスに従順なのだ。彼が黒だと言えば誰が言おうと黒だと彼女も言い張るように。


「安心していい。私はお前のように、ドジではないからな」


安心していい。もうこの件に関しては考えることすらしなくてもいい。
簡単な暗示だった。サヤはすんなりとそれを真に受け、それからは一度だって小瓶の話は持ち出さなかった。ただ心が離れれば彼女を支えるのはその意志だけになる。元の世界への渇望はずっと強くなり、突然不安定になって泣き出すこともあった。けれどユリウスに従う彼女はその涙すら、彼の前以外では見せなかった。心に深く入られないように、彼以外には弱い部分など見せてはならないと言い聞かせたからだ。


「…………サヤ」


名前を呼べば、すぐに返ってくる笑顔があった。彼女は予想通りすぐに遊園地にも城にもマフィアにも慣れていき、どんどん表情を増やしていく。必ずユリウスの元に戻って、何があったかを報告する彼女に少なからず不満も覚えはしたが、自分の手元にある小瓶がそれを押さえつける。彼女の核たる部分は、他の誰でもない自分が持っているのだ。
引っ越しが近くくることも知っていた。知っていたが教えなかったのは、万が一にもサヤが小瓶に関して思い出すようなことがあれば、と危惧したからだった。


「引っ越しをしたとしても…………私の元にお前が残ることはないんだろうな」


ひとり、作業台に向かいながら考えた。その土地に捕らわれ、役を与えられたものはその場所からは動かないが、チェシャ猫や余所者は話が違う。アリスのように望んで残る決意をしたものでなければ、きっと別れは覚悟しなければならないだろう。事実、サヤが他の滞在先に行っている間に小瓶はずっとユリウスの手元にあり続けた。彼女は心を離して、どこにだって行けた。それならば、引っ越しだとて例外ではない。
それが仮初の安らぎを得た自分への罰だとするのなら、仕方のないことなのだ。そしてそれを知ったとき、サヤが自分をどう思うのかということも。
だから、これらはすべて予期してしかるべき事態だった。


「ユリウス」


忘れかけていた柔らかさを含んだ声が、彼の名前を呼んだ。その瞳が怒りを表しているのか、自分への哀れみなのか、それとも裏切られたことによる失望なのかわからない。
ただわかっているのは、自分はもうカードを持っていないということだった。誰が彼女を覚醒させたのかなど知らないし、わかりたくもないが―――それが誰であれ、程度の差はあっても憎らしいことに変わりはないからだ―――サヤはこの塔にいたときよりもずっと生気に満ちた瞳をしていた。それに、前よりもずっと綺麗になった。
ユリウスは小瓶を取り出して、サヤの目の前に掲げてみせる。不変であるのはこの小瓶のほうだった。ずっとユリウスに寄り添っていた、彼に安らぎを与え続けた小瓶は相変わらず何の変化もない。
サヤは今までに見たどんなものよりも複雑そうに顔を歪める。


「…………やっぱり、気持ちのいいものではないなぁ」


そんな顔をしながらもサヤは伸ばした腕をユリウスに近づける。女らしい指先が、自分のごつごつと固いだけの骨ばったものに触れようとした。その瞬間を見計らったように、彼はその柔らかな腕を絡め取ってサヤを抱きしめた。サヤは驚いたように足をもつれさせながら、勢い余って顔面からユリウスの胸に突っ込む。鈍い衝撃が二人を襲って、どちらともからうめき声を漏らした。


「…………ユ、ユリウス」
「……………………悪い」
「額ならまだしも鼻を打ったよ。それにユリウスも痛かったでしょう」
「上手いやり方なんてわからないんだ。仕方ないだろう」
「…………まぁ、女性の扱いに慣れているユリウスも嫌だけど」


すっぽりと腕の中に収まるサヤは楽しげに笑っている。
腕を回してサヤの頭ごと抱きかかえるようにすると、ようやく彼女を実感できた。けれど実感したのはもっと違う、知りたくなかった現実を伴っている。この小瓶が必要になったということは、サヤが帰るための準備が整ったことに他ならない。自分の言いつけに従順な彼女は、とうとう帰るための鍵がなんなのかを知りゲームを終わらせようとしている。


「…………これを返せば」
「…………」


声は自分でも驚くほど頼りなかった。ユリウスは少しだけ腕の力を強める。サヤは大人しく抱かれているが、寄り添っているというよりは彼女は全身をユリウスに傾けているに過ぎないように思えた。
艶やかな頭に頬をつけながら、ユリウスは不可思議な思いに捕らわれてる。


「お前は、やっと帰れるわけだ」


本当にやっと、だった。サヤはこの世界に落ちた瞬間から帰りたいと願っていたのだし、真実アリスに会って彼女を大切に思っているくせに主張を曲げようとしなかった。その、脆弱な身を奮い立たせても戻ろうという帰巣本能には感服する。
サヤはユリウスの言葉をゆっくり聞きながら、大きく息を吸った。肺にゆっくり入った酸素は、彼女が肩を上下させるのと一緒に吐き出される。


「…………ユリウスは、そうなったら少しでも淋しい?」
「馬鹿を言うな。厄介ごとは御免だと言ってるだろう」
「即答。ひどい」
「…………お前は相変わらず、面倒で邪魔な女だ」


抱きしめる力は弱めずに、二人とも顔を見ずに話すものだから相手がどんな顔をしているのか見ずにすんだ。ユリウスはいつもよりも険しい顔をしていたし、サヤはどこか空虚な面持ちで彼の胸元の時計の針を追っている。
数秒の間が開いて、サヤはことさら緊張した声を出した。何気なさを装うとしているのに、まったくそうできてなどいない声はとても空々しい。


「わたし、多分、帰れないの。ユリウス」


だってね、と冗談でもあるかのような声をサヤは無理やり出す。


「わたし、死んじゃうんだと思う。心を取り戻してしまったら」


そのために会いにきたの、と心中で付け足して、サヤは苦々しく笑った。































緩慢な自滅ほど甘美なはない





(09.08.22)