死ぬ、ということがどれだけ恐ろしいのかわからない。わたしは衝動的に銃を握ったのだし、エースに突きつけたときはただ怖かった。こんな鉄の塊に縋らなければいけない自分が滑稽でもあり悲しかったのは覚えているけれど、彼を撃つ気は毛頭なかった。どうやれば終わらせることができるのか、そしてやっと思い出したユリウスとの約束をどうすれば叶えられるのか、わたしが自分に銃を向けたのは人一倍頼りにならない頭で考えてだしたとてつもなく愚かな結論だったのだと思う。 ユリウスは、わたしの告白に一度びくりと体を震わした。そのあとで、勢いよく両肩を捕まれ引き剥がされる。彼の群青色の目が驚いていた。 「銃で頭を撃ちぬいたの。だから、どうしたって死ぬしかないと思う」 「銃で…………?」 そんなことになぜなるんだ、とユリウスは顔を歪める。はその顔を見てやっと、心の底からくる笑いに身をゆだねることができる。 「だって大変だったんだよ。わたしは馬鹿だからブラッドを怒らせてしまうし、エースはずっと調子が悪くておっかないし、双子は成長して立派になっちゃうし。時計塔から弾かれたせいでわたしはどこにも居場所がなくなって、でもアリスは幸せそうになっていくから頼り切ることもできないんだもん」 思い切り、我侭で非難めいた口調で言えばずっと楽だった。実際はひとりで決めて滞在先を渡り歩き、采配ミスでブラッドの逆鱗に触れてしまったためにトラブルを大きくしてしまったのだ。アリスが幸せになることを誰よりも願っていたのは自分だと思うし、そうなれたのは彼女の努力あってこそだとも、思う。 ユリウスはもう驚いたような顔はしていなかった。切れ長のひらべったい瞳がわたしを写している。 「それで、自分で自分を撃ったのか?」 「うん。そう」 「…………馬鹿だな」 「馬鹿だよ。今更知ったの?」 「知っていた。どれだけお前の面倒を見させられたと思ってるんだ。それに加えさせてもればお前は愚かで無鉄砲、八方美人のくせに我慢強くないし飽きやすい。なにより、思い込みが激しい」 饒舌なユリウスは珍しいことにふわりと優しく微笑んで、あまつさえ手つきさえも柔らかにわたしの右のこめかみあたりを撫で付ける。ちょうど、自分で銃口をあてがった場所だ。 「驚かせるな、お前は死んでない。こうして会えているのがいい証拠だ」 「…………へ?」 「死んだらここに来られるとでも思ったのか?だとしたらお前は本当に馬鹿だな。死んだらその先なんて何もないに決まっているだろう。それとも何か、私を死神だとでも思っているのかお前は」 「え、いや、そうじゃ」 「どういういきさつだが知らんが、お前は死んでなどいない。大体死人が何かを為せるなどと夢を見るにもほどがある。…………まったく人騒がせな」 死んでない。ユリウスは何度もそうわたしに言い聞かせる。 今度はわたしが驚く番だった。たしかに自分に銃を向けたはずで、そのトリガーを引いたのも覚えているし発砲音だって聞いているはずなのに、どうしたことかユリウスが『死んでいない』と言うのなら正しいのはそちらだと思えてしまう。わたしは、死んでなどいないのだ。 呆けながら頭のどこかで忘れようとしていた恐ろしさが一瞬にして全身を包んだ。恐ろしくないわけがなかった。恐怖を感じていないわけでもなかった。でも、そうするしか方法が思いつかなくて。 「…………っ!」 「な、泣くのか!」 気付いたらぼろぼろと盛大に泣き出していた。ひとりで考えるなんて無茶なことを長いこと続けてきたせいで、わたしの脳はオーバーヒートしてしまったのだろう。自分を責めて他人に甘えて、わたしは決して要領がよかったわけじゃない。でも傷つけられるのも傷つけるのも、同じくらい嫌だったから選んだ方法だった。 ユリウスはひどく狼狽して長い指先で一生懸命に涙を拭ってくれる。けれど、わたしの涙は止まらなかった。あとからあとから、壊れた蛇口のように涙が流れ出してくる。 ユリウスはでくの棒よろしく突っ立ったわたしを、やけくそのような乱暴さでまた抱きしめる。 「ブラッドに何を言われたのかなど知らんが、気にするな。エースも同じだ。あいつの調子が悪かろうがどこかで野垂れ死のうが放っておけ」 「…………」 「アリスだってそうだ。あの白兎といて普通の幸せなどありえるはずがない。だとしたら、お前が一緒にいてやった方がはるかにマシだろう」 「…………」 「とにかく、お前は死んでなんかいないんだ。…………わかったらとりあえず涙を止めろ。落ち着いて話もできない」 命令口調なのに焦っているユリウスの早口は、とてつもなく優しい。わたしは彼の腕の中でいつのまにか笑っていた。涙の跡が残る頬を自分で拭って、わたしはゆっくりとまた彼と目をあわせる。ユリウスはあからさまにほっとした顔をした。 「…………泣いていたのにもう笑ってるのか? まったく、気まぐれなやつだ」 「だって本当に怖かったの。…………でも、生きていてよかった」 「ん?」 「生きていて良かったって思ったの。生きて、あなたの前にいられることが嬉しい」 素直に言えば、わたしの内側にすとんと答えが落ちてきた。わたしを動かしていた動力源は一体なんなのか、なんて、本当はとっくに自分で答えを出していたのだ。 わたしは思い切り笑いたくなった。清々とした顔をして誰にもはばからずに大きな声で空に向かって笑ったなら、さぞ気分が晴れるに違いない。 「ユリウス。小瓶を返して」 わたしの豹変振りに目を丸くするユリウスの手から小瓶を奪うと、その小さな入れ物はほんのりと温かかった。ユリウスの手のあたたかさだ。こんなにちっぽけで脆弱な、いつ壊れても誰のせいにもできないガラスがいつだってわたしを左右してきたのだと思うと呆れてしまう。 大嫌いだった。周りに流されるしかない自分も、他人から見れば無価値に等しい自分も、それに甘んじているしかない自分も。どれもこれも現実で、立ち向かう勇気も気力も根性もなかったわたしは諾々と生きていた。心はずっとどこか隅に追いやられてしまい、自分でもどこに隠したのかわからなくなってしまっていた。自己を持たなくなり、主張など考えるだけ無駄だと決め付けていた自分はすでに半分死んでいたのだ。 ガラスに入れられた液体はうすくきらめいて、ゆらゆらとわたしを写している。 「…………?」 心配そうに声をかけるユリウスは、今すぐにでも小瓶を奪い取りそうだったのでわたしはさっさとそれをポケットにしまった。 「わたし、戻るね」 「…………は?」 「だから、戻るの。ユリウスが言ったんでしょう。わたしは死んでいないって」 快活に言い返すと尚もわからないと言った様子で首を傾げるから、わたしは彼にきちんと説明しなければならない。わたしよりもずっと賢くて手先の器用な彼は、人の心となるとてんで使い物にならない。わたしの小瓶は、彼に心のなんたるかを学ばせなかったようだ。 「アリスが心配してるし、グレイにもピアスにもビバルディにだって迷惑をかけたし」 「…………」 「ディーもダムもエリオットも、面白くない思いをさせてしまったと思うの」 「…………」 「ボリスは一番助けてくれたから、どうしたってお礼を言わなくちゃ…………」 「…………」 「ん?」 「お前、帰らないのか?」 心底不思議そうな顔をするユリウスは、たぶん、正常だ。わたしの方が異常なのだと思うと安心できる。 「だってユリウス、可笑しいと思わない? 帰りたくて仕方なかったわたしが、どうして死ぬような思いをしてこの世界を守ろうとしたのか」 何もかもを捨てて行けたのに、選んだ道はまったく違ってしまったというのならそれが心の底からの願いでなくてなんだというのだろう。わたしは自分を大切に思ってくれる世界を、同じように大切だと思っていたのだ。 「辛くて仕方のない取捨選択だとしても、選ぶのはわたし自身だってようやくわかったの。誰かのせいにしてもいいけど、その後悔も幸福もわたしのものになっていくって。こんなに自由だったのに、いつだってわたしは自分でブレーキをかけてたんだね」 元の世界でだって選び取れるものは数限りなく存在していたはずだけれど、無難な道しか選択肢に加えていなかった。同じような道を同じような人たちと共に歩くのはえらく単純で頭を使わない作業だ。 ユリウスはますますぽかんと呆気にとられた顔をしている。けれどすぐに彼らしく真面目で憂鬱そうな顔になった。 「…………後悔するぞ」 「うん。絶対する。泣いたり喚いたりだってするかもしれない。でも後悔して悩んで苦しんで、いちいち理由を考えていくから強くなれるんでしょう。自分の決定を裏付けるのが、結果を出した自分の責任だもの。それができないなら、わたしはそんなもの選ばないし選ぶべきじゃないんだよ」 ユリウスの目をきちんと見て言うと、彼の顔が奇妙に歪んだ。たぶん、わたしの愚かな決定に戸惑っているのだ。この人はやっぱり随分やさしい。 「勢いで言っているだろう…………」 「もちろん、そうかもしれない。でも勢いがなきゃ拳銃自殺だってはからないだろうし、こうやってユリウスと会えなかったもの」 八割がた屁理屈だったので、彼がひとつずつ否定しくれるのが嬉しくてたまらない。この世界に落ちてきたときの絶望をありありと思い出せるのに、ユリウスに突き放されて泣き続けたとき見た空ほど自由なものを感じたことがなかったことも事実なのだ。夜の次に夕方が来て、昼が来たと思えばすぐに夜になった。あの、自分をあやすように変化した空に吸い込まれてみたいと本気で願った。 恐いだけの男だと思っていたユリウスが泣きじゃくるわたしを抱えて階段を降りてくれたとき、わたしはすでに自分でも驚くほどこの世界が好きになっていたのだ。だってあんなにもあっさりとわたしを救った空や、不器用に頭を撫でてくれるユリウスはこの世界にしかいないのだ。 わたしは複雑そうに瞳を歪めるユリウスに、満面の笑みを向ける。彼の右手を両手で握りしめると、馴染んだあたたかさが伝わる。 「だからね、待ってる」 クローバーの塔に戻ればユリウスとはまた離れ離れだ。それを淋しいと思う自分がいるのはわかっていたし、同時にみんなに会えて嬉しいとも本気で思うのも知っていた。こんなに自分が我侭で理屈の通らない思考の持ち主だとは、知らなかったけれど。 「エースが言ってた。時はめぐるから、必ずまた会えるって」 「…………あぁ」 「遠くはない気がするの。きっとすぐに会えるよ」 「どんな根拠があるんだ」 「根拠なんてないよ。勘だもの」 軽く笑って、ゆっくりと手を離すとわたしは途端にひとりぼっちになった気がした。目の前にユリウスはまだ立っていたし、わたしだって意識をきちんと持っているはずなのに、どうしたことか急にひとりぼっちになった気がしたのだ。 責任を背負ってたつというのはつまり、ひとり分の荷物をひとりで持たなければいけなくなるということだ。当たり前だけれど誰もが支える手を無意識に求めているのに、望むことすらできなくなる。 「ちゃんとご飯食べてね、ユリウス」 「…………あぁ」 「それにちゃんと寝ること。倒れたって運ぶ人はいないんだから」 「余計な世話だ」 「もう…………」 苦笑して、わたしは入ってきた扉の前にもう一度たつ。この扉はわたしの望む場所に連れて行ってくれるはずだった。もしくは、正しい場所に。 ノブに手をかける前に、もう一度わたしは彼に微笑む。ずっと支えになってくれていた、父であり兄であり友人であった人はとても優しいのでもう何も言わなかった。 「またね、ユリウス」 「…………」 「なに?」 「いいか。この世界に残るといっても他のヤツラと不用意に馴れ合うんじゃない。特に帽子屋はいったい何をするか…………そうだ」 いきなり机にとって返したユリウスは、すぐにの下に戻ってきてずいと目の前に手を出した。その手の中にぶら下がっていたのは綺麗な歯車だ。瀟洒な紐が通してあるそれをマジマジと見つめていると、頭を下げろと上ずった声がする。わたしは心持ち傾けた頭を紐がするりと通り抜け、胸の中心に歯車がかちりと収まるのを確認する。 「持っていけ。虫除けだ」 「虫…って」 そんなことばかり言っているから友人が少ないのだ、とは哀れみの篭った目を向ける。ユリウスは恥ずかしいのと居心地の悪さにそっぽを向いて、さっさと行けとでもいうように腕を組んでしまった。わたしはそんな彼のようすがあまりにも愛おしくなって、この人に拾われて本当に運がよかったと改めて思った。 だからそのとき、わたしが彼に向かって軽く飛んだのはあまりにも自然なことだった。自分の体がふわりと浮いて、そっぽを向いた彼の頬に芸術的なキスをする。地面に降り立ち、彼と目があうまでの数秒は心が浮き立つようにわくわくしたし、驚いた彼が赤面するさまは実に面白かった。 わたしはその勢いにのってノブに手を回す。開いた扉は知らない光を漏らして、まるで招かれているようにあたたかかった。わたしは確かな確信を持って足を踏み出す。最後、ユリウスに大きく手を振ることは忘れなかった。 わたしは自分の意志で戻る。その世界がどんなに狂っていようと、わたしの選んだ道なのだと胸を張って歩いていくのだ。 |
いかにも、ここは始りの天涯
(09.8,22)