弱い風が吹いているのを頬に感じたのは、自分が歩き続けているのだと理解するよりも前だった。わたしは規則正しく足を交互に前にだし、傾きもせずに歩いている。平衡感覚などないに等しく、歩いているというよりは『歩くという動作』をしているに過ぎないほど現実味のない歩行は、それでもやめるわけにはいかない。
帰ろう、と思った。クローバーの世界はまったくでたらめだ。優しく受け入れたと思ったら、突然はじきだされる。撫でられた手が突然なくなると、わたし達はその手がとても愛おしく自分に必要なものなのではと勘違いしてしまう。


「優しい、というのは」


嘘ではなくて、罠の一種。騙すのではなく、単純に絡め取るために用いられたのだ。騙すのなら心を折ってしまいかねないし、そんなことを望んでいるわけではない。あの世界は、わたしを受け入れたがっていた。優しく実にゆっくりと、全身を侵食されたわたしはやっと気付いた。
あの扉の囁きだって同じだ。帰ろうと誘ったのはいつだって道は用意されていることを伝えるためであって、無理やり開かない限り扉は五月蝿いだけの無機物だった。わたし達が迷った分だけ、あらゆる可能性を天秤にかけただけ、世界に対する固執が生まれる。生まれてしまえば育つまで待てばいい。迷った子羊が更に奥に迷うなど容易なことだ。


「…………不思議でズルイ世界」


歩きながら、わたしは頬をかすめる空気の匂いを思い切り吸った。外気の匂いだ。新緑眩しい草木を通った風の中に、太陽にさらしたシーツの香りが混じっている。わたしは歩幅を大きくして、たった今離れようとしている場所のことを考えた。
自分が生まれ育った世界が、徐々にではあるが確実に離れていこうとしている。歩いているのはわたしだし、だから離れているのは自分のはずなのだけれど距離を置こうとしているのはあちらの世界のような気がした。
わたしは背中いっぱいに感じる戻りたい衝動を押さえつけて、風の方向に足を速める。早く帰らなければ、きっと振り向いてしまうと思った。
さっさと歩こう、この風の向こうにあるはずの世界はもうわたしを受け入れてはくれないかもしれないけれど、それでも。


「…………」


行こう、とまばたきをした。わたしはまぶたを閉じて開けての動作をしただけであったはずだ。けれど、どうしたことかわたしが次に目を開けると飛び込んできたのはクローバーの塔の市松模様のような文様がちらばる天井だった。
ふわりと風がまた前髪を揺らすから、視線を動かすと窓が開いていた。温められたシーツはからりと乾いていて心地いい。
戻ってきたのだ。派手で思い切りのいい、ルールばかりの狂った世界に帰ってきた。
どうやら寝かされているらしいベッドから上半身を起こすと、わき腹あたりに重たくのしかかるものがあった。見るとベッドにもたれるようにしてアリスが眠っている。


「待っててくれたんだ」


綺麗な栗色の髪がさらさらと風に流されている。アリスは穏やかな寝息をたて、腕の中に顔をうずめていた。大きなリボンがあまりにもちぐはぐで笑ってしまう。彼女は賢く理知的なのに、こんなにも幼く可愛らしくもなれるのだ。
リボンに触れようと腕を伸ばし、結んである片方をひっぱってみるとやっと彼女は目を覚ました。


「…………?」
「おはよう、アリス」


ぱちりと大きな緑の瞳がわたしを映して、次の瞬間には大げさな動作で抱きついた。わたしは彼女の細い腰を抱きしめて勢い余って倒されないように努力する。


「…………っ」


声にならない嗚咽が耳元で聞こえてきたので、彼女が不器用に泣きながらわたしにしがみついてくれているのがわかった。アリスの泣き顔はかわいらしいので見たいのだが、これでは見ることはできない。わたしは何も変わらない部屋をぐるりと見渡して、改めて彼女の背中に回した腕に力を込める。
しっかりとしたぬくもりにただ安心して、それだけでわたしは満足した。だって考えてみたって、わたしの生まれた世界には友人が倒れたからと言って傍にずっとついてくれる人がどれだけいるというのだろう。みんな自分の生活の歯車になってしまっているので突発的な行動も調和を乱すこともできない。誰もいないベッドで起き上がっても、待っているのはまた予定通りの生活なのだ。
けれどここにはアリスがいてくれる。まったく自由で、どの歯車にもあわなくなってしまったわたし達はそれでもこうやって相手を支えあえる。


「ば…………ばか、でしょう。、自分、で、撃つなんて」
「…………うん」
「し、心臓………止まる、かと」


涙で濡れた声が耳に心地いい。母ではなく父でもなく、兄弟ですらないのに、アリスはわたしが生きていることを心底喜んでくれている。例えばこの先2時間ほどのお説教を食らったとしても、愛ゆえだと思えばなんてことはないだろう。
わたしは自分よりも細くて頑丈なアリスを思い切り優しく抱きしめながら、現実味のない声をだす。


「ユリウスに会ったの」


会いたいと思って、そうしたら扉がでてきたの。彼は変わっていなかったし、やっぱりあの時計塔は居心地がよかった。そう言うと、アリスはゆっくりとわたしの背中から体を持ち上げて窺うように瞳を覗き込んでくる。
その瞳を勇気付けるようにわたしは笑った。


「返してもらわないといけないものがあったの」
「…………なに?」
「小瓶。わたしとアリスだけが持ってる、わたし達の心」


そっと取り出した小瓶を見つめて、アリスがやっぱり不安げな顔をした。わたし達は自分の心とちゃんと向き合うことに不慣れだ。こうやって具体的にだされると対処に困る。向き合ったことのない自分と対峙するのは、他人を理解するよりも厄介だ。


「ユリウスに預けていたの。でもすっかり忘れてて…………」
「だから、は帰ることができなかったの?」
「そうだと言えるし、言えない。わたしも帰りたくなかったんだと、思う」


ことの善悪を決めるのなら、この世界をとることは悪だった。恩を忘れて快楽に生きることは推奨されない。けれどわたしの中でこの世界に対する愛情はどんどん膨らんでいって、正論を無意識に誤魔化していった。原因をすり替え、答えを後回しにして、わたしはこの世界を愛したのだ。とんだ愛情だった。
わたしはアリスに微笑んで、顔を寄せて彼女の可愛らしい額と額をあわせる。


「もう、帰らないことにしたの」
「…………」
「ユリウスは後悔するだろうって言ってた。もちろんするよって答えたよ。わたしは悩むだろうし後悔もたくさんして、きっとひどく暗くなるときもあるかもしれない。だって、あんまりなんだもの」


その『あんまり』にはわけもわからず落とされた乱暴さや肉親と引き剥がされた淋しさや憤りが含まれていたのだけれど、うまく言葉にならなかった。
ただ、あんまりなんだもの、と言うわたしに深くアリスは同意してくれる。


「アリスは後悔している?」
「もちろんよ。しない日がないわ」
「アリスらしい」
「でも、きっともそうよ」


わたし達はお互いの瞳に相手を写して、同時に笑いあった。きっとこれから先ずっと、二人で暗くなったり後悔したりしながら月日を重ねていくのだと簡単に想像できる。どちらかが帰るための扉を開けそうになれば、けれどどちらかが止めに入るに違いないことも。
わたしは来たるべき未来に想いを馳せて、一生の友人を手に入れたことを噛み締めた。


「…………ペーターと幸せになっても、友達でいてね」


冗談のつもりで付け足したのだけれど、アリスは彼の名前を聞くなり少しだけ真面目な顔になった。可愛らしい眉が寄せられるとずっと幼く見える。


「知らないわ。ペーターなんて」
「え?なんで」
「だってあなたに銃を渡すなんて信じられない」


それでどれだけ不安になったかなんて、アイツは知らないのよ。アリスは口調を荒げて言い放ち、少しだけ不満そうにしながらもどこか淋しそうに俯いた。けれどペーターはわたしに銃を渡しただけであって、使い道を誤ったのは誰でもないわたしなのだ。


「でも、それを使ったのはわたしだし」
「…………違うわ、。考えてもみて。あれでも宰相なのよ?いくら変態で言葉の通じない万年発情期のウサギだとしても!」
「え、あ、うん?」
「それだけ頭が働くなら、が銃をどう使うかなんて予想がたてられたはずなのよ。だから、わたしが言いたいのはつまり―――――」


熱弁をふるっていたアリスが、そこでふとつまり気味に言葉をきった。わたしは彼女の瞳がどよんと落ち込んだので、やっと気付くことができる。つまり、に続く言葉をわたしは予想していたじゃないか。


「つまり、それであなたが死んでしまっていたら、私はペーターを一生許さなかったってことよ」


ねぇペーター、わたしはあたっていたでしょう。心の中で哀れな宰相閣下に誇らしげに言えば、彼は虫けらでも見るような目つきでそっぽを向く。殺さなくてよかったでしょう、と追い討ちをかければ「今だけですよ」とでも言い返してきそうだ。
わたしが声を殺して笑っていると、アリスがぐいと顔を寄せる。


「でも、だって幸せになるべきだわ」
「…………アリス?」
「誰だっていいし、お祝いだってするけれど、そのときはちゃんと教えてね」


微笑んだアリスは秘密を共有したときの紅潮した気持ちのままで笑うから、随分子どものように見えた。ベッドの上で抱き合うように近い場所で笑うわたし達は心の底から幸せだった。まるで幸福な物語の最後を飾る姉妹みたいなシーンだ。同じくらい暗いものを背負いながら、落ちてしまった世界の底で溺れていく二人を他人はきっと笑うだろう。
けれど、わたし達は決して笑ったり馬鹿にしたりしない。わたし達はまったく驚くべきことなのだが、自ら進んで落ちることを望んでいるのだから。


「ねぇ、
「ん」
「これからどうするの」


寄せ合った顔のまま、アリスは歌うように尋ねた。わたしはそうだなぁ、と窓の外を見る。よく晴れた空はどこまでも高く澄んでいて、痛々しいほど自由だ。


「死んだままでいてみようかな」


まるでママゴトめいた台詞を吐いて、わたしはアリスに向き直る。靴を履いてそっと塔を抜け出し、わたしはわたしの死んだ世界を歩くのだ。それで誰かに会ったなら、こんにちはと笑ってやろう。死人の笑顔は晴れた日にさぞ映えることだろうと冗談のように思った。



































とびっきりの供犯者



(09.09.06)