エースに会うにあたって、言うべき言葉はまだ見つかってはいない。わたしは誰もいないハートの城の廊下を静かに歩きながら考える。彼の歪んだ友情とその終着地点について、お節介なアドバイスすら添えて想いを馳せた。なにしろエースの不調は、言ってしまえばユリウスの不在によるものが大きかったのだしそれが何についてであっても―――仕事の上司として、彼の友人として、ユリウスは実にさまざまな形でエースを救っていた―――エース自身はそれらを認めたがらないだろう。淋しいだなんて吐き気がするだろうし、事実彼は認めたくないために迷っていた。 加えて、ユリウスに一番支えられていたわたしが悠々と生活してしまっていたので腹が立ったのだ。少しも淋しくないような顔をして、平気でふらふらと飛び回るのも癪に障ったのかもしれない。エースがわたしに零した毒のような言葉たちは、きっと忘れるなと言いたかったのだ。ハートの国での生活を、ユリウスの存在を、忘れないでくれと懇願していた。 考え事をしている内にいつのまにかエースの部屋の前についていた。わたしはその扉の前に立って、もう気配でわかってしまっているかもしれないと考える。謹慎中だと言えば聞こえはいいが、単に何もやる気がおきないのだろうと言ったのはアリスだ。わたしが銃を撃ちはなったときからずっと、エースは黙りこくってしまい従順だったという。 「…………」 ノブに手をかけ、ゆっくり回す。冷たい金属がわたしの手のひらから熱を奪っていく。 そっと開いた扉の向こう側は、まるで誰もいないかのように静かだった。物音一つしないから、眠っているのかもしれない。わたしは静寂を壊してしまわないように扉の内側に体を滑り込ませ、止まってしまった空気の中に侵入する。 くるりと見回すと、エースはすぐに見つかった。たくさんの仮面が貼り付けられたお世辞にも趣味がいいとは言えない壁によりかかって、床に座りこんでいる。片足がたてられ、上に腕がのせられている以外はまったく動いた気配がなかった。視線は斜め下をずっと捉えている。 思ったよりも彼のダメージが深刻である気がして、わたしはわざと足音をたてて歩いた。随分うるさかったはずなのに、彼はわたしが目の前にきてもうな垂れたままだ。 「エース」 あまりの無反応が面白くなかったので、名前を呼んでみた。わたしが死んでなどいないことは彼ならばすぐにわかったはずなのに、どうしてこんなにも落ち込んでいるのだろう。 ぴくりと肩が反応したけれど、顔をあげてはくれなかった。わたしはお尻をつけないようにしゃがみこみ、組んだ腕の上に顔を乗せる。 「エース」 もう一度、名前を呼ぶ。あの会議室でわたしをまったく見ずにひとり喋り続けた彼は怖かったけれど、今の彼も別の意味で怖かった。だってこんなにも小さく、どうしようもなく人間臭いエースを見たことなんてないのだ。 わたしは衝動的に腕を伸ばして、エースの髪に触れる、さらりと指を抜けた茶色の髪が、少しだけ温かい。 「ユリウスに会ったよ」 独り言のように呟いても、エースは無反応だ。 「全然、変わってなかった。相変わらず仕事をしていたみたいだし、わたしが現れても驚いてくれなかったよ。…………それで、ちゃんと返してもらってきた」 ポケットに入った小瓶を思い、それをずっと知っていたエースに報告する。エースはずっと知っていたのだ。心のないわたしは元の世界に帰ることができないことも、それをユリウスが持っているということも。だから、余計に不思議に思っていたのかもしれない。 わたしはできるだけ柔らかな感じにエースの頭をぽんぽんと叩いた。本当は笑っているのかもしれない、と半ば疑いながら。 「…………おかしいなぁ」 無機質な部屋に響いた声は、いつもと変わらず胡散臭いくらい爽やかだった。未だ俯き加減ではあるが、エースはやっと反応を示してくれる。 わたしは辛抱強く、彼の声に耳を傾けた。 「どうしてここにいるんだ? だって、ユリウスが君を離すわけないじゃないか」 「その自信がどこから来るのか知らないけど…………ご覧のとおり、わたしはここにいるよ」 「じゃあ、他に好きなやつがいたのか。ユリウスもついてないぜ」 笑ってもいないのに搾り出すように声をあげるから、随分苦しそうだ。俯いたままのエースの瞳を見たら、また怖いと思うだろうか。わたしは自分自身に問いかける。こんなにも内面と外面に差がある人も珍しい。その上、本当はすごく参ってるのにこんなに白々しい声を出そうとしているのも弱々しく見えるだけだ。 「…………どっちも不正解。何を期待しているのか知らないけど、エースの方がよっぽどユリウスを好きだと思うよ」 わたしは彼がいないからと言って体調を崩したりしていないし、精神を病んでしまったわけでもない。体の外側に現れる変化をもっている彼のほうがよほど執着しているように思えた。あるいは、好意を持っているように。エースはことさら嫌そうな声をだす。 「俺が? 嫌なことを言うなぁ。そんなの気持ち悪いじゃないか」 「そうかな」 「気持ち悪いよ。俺がユリウスになんて…………考えるだけで鳥肌がたつ」 下を向いてくつくつ笑うエースは、この世界で今もっとも暗い部類に入るだろう。むしろホラーだとさえ思う。こんな男と一緒にいたらこちらまで病んでしまいそうだ。わたしは痺れを切らして彼の頭に置いてあった手で、無理やり顔をあげさせた。両頬をつかまれこちらを向かされたエースは、やっぱり笑ってなどいなかった。声ばかりが渇いて爽やかだなんて、仮面と話しているのと一緒じゃないか。わたしはその目に自分が映るのを確認して笑った。 「どうしてそんなに元気がないの」 「俺が? 冗談きついぜ。…………少し疲れただけだよ」 「じゃあ冗談ついでに聞いて。目の前で自殺なんてしてごめんなさい」 本当に死ぬつもりだったんだよ、と正直に告げれば彼の瞳がちらりと瞬いた。 「…………手を伸ばしてくれたでしょう。エース」 「…………………」 「少しだけ後悔したの。…………これは本当」 彼は自分が殺されるはずだと思っていたのだろう。けれど、わたしが撃ちぬいたのは自分だった。銃声の前、途切れる意識は彼が焦った表情で懸命に腕を伸ばしてくれたところから切れている。そのとき初めて、ある仮説が頭をよぎった。もし、彼がユリウスを大切に思うようにわたしを大切に思っていたりしたら、と。 「わたし、ここにいるよ。エース」 腕から伝わるぬくもりで、彼が理解してくれればいい。わたしの言葉はあまりにも役にたたない。 「ここにいて。たぶん、帰らない。この世界が大事なの」 わたしを慈しんで、ひとりぼっちの孤独から救ってくれた。特別だと言って、甘えさせてくれた。それはなんて贅沢な世界だろう。わたしはひとりきりの絶望に耐えながら、一方で体の芯まで説けるような甘言を呟かれるのだ。 「エースの言うように、わたしは誰かを好きになるかもしれない。誰かを好きになって、その人と一緒になって…………そういう、夢みたいなことを願うかもしれない」 「…………」 「それがユリウスかどうかなんて、今はわからない。でも、一番好きな人は彼だと思う」 「…………なら」 「でも、わたしはエースも好きだよ」 仮面をかぶっていたり、血まみれな姿は怖いけれどね。続けて正直に呟けば、彼はやっと泣きだすように目を細めて笑った。目が笑うと随分優しくなる。 「じゃあ、俺にしとく?」 「…………目が本気じゃない」 「あれー?」 わかっちゃった、とおどけるエースの頬から手のひらを離す。彼はようやく本来の姿に戻りつつあるようだった。ユリウスとはもうしばらく会えないのだろうが、きっと大丈夫だろう。なにせ、今度はわたしがいるのだ。ちゃんと彼と向き合えるようになったわたしはまだ少し戸惑いながら、けれどエースの隣から消えることはない。 わたしは痺れだした足をなんとか立たせる。エースがゆっくりとわたしを見上げた。 「それじゃ、わたし行くところがあるから」 またね、と言い添えるとエースは首を傾げていぶかしむ。 「どこに行くんだよ」 「みんなのところ。一番はじめにハートのお城に来たんだもの。まだみんなに会っていないし、謝っていないから」 「えー。いいじゃないか。アイツラなんて」 「あなたによくてもわたしは嫌なの。目の前であんなことをしたんだから、謝るのが基本でしょう」 変に胸を張りながら、わたしは踵を返す。扉の前に立って振り向くとエースは先ほどと変わらない体勢のままこちらを見ていた。まるで捨てられた犬のようで、わたしは笑う。 「ビバルディにはわたしから言ってあげる。早く謹慎が解けるといいね」 「…………あぁ。なぁ、。それさ」 「ん?」 彼の人差し指が、何かを示すようにまっすぐわたしに向けられる。 「ユリウスにもらったのか?」 胸元に揺れる歯車が、彼の声に反応したように煌いた。わたしは指の腹で撫で付けながら頷く。 「うん。虫除けだって」 「…………ははっ。アイツらしいぜ」 「そうね。…………じゃあ」 いくね、とノブを回したわたしは軽く手を振って部屋を出る。エースの瞳はわたしの体が扉に吸い込まれるまでずっと捉えていた。足の先まで感じていた彼の視線からようやく解放されて、わたしは扉を閉める。 心臓が戻ってきたせいで、いつもより随分鼓動が鮮明に聞こえた。ユリウスに預けていたわたし自身の核は、本人から離れてもその鮮やかさを失わないでくれたのだ。 随分、重たくなったなぁ。 体も心も、指先まで澄み渡る感覚は重量感と共に地面につける両方の足にのしかかっている。頭が重たくて、心のありかが苦しくなる。風が頬にぶつかると驚くほど鮮明にたくさんの匂いがするし、辛いことよりずっと楽しくありたいと思う。 重さを増した腕を振り、後ろ足で地面を蹴って前に進むとずっと開けた世界が瞳に映し出される。ずっと前から知っていたものだったのに、どうしてこんなにも違って見えるのだろう。わたしは、ずっと自分を誤魔化し続けたことを呪った。 さぁ、会いに行こう。謝って許してもらえるものじゃないけれど、それでも今のわたしが言う言葉は本物の心からでた本心なのだから。 |
さあ、運命が追い付いた!
(09.09.06)