ざくざくと歩くのは心地よくて好きだが、見つからないように足音を潜めるのは苦手だった。嘘をつくのに適した性格をしていないかもしれないが、そうやってどこかしら後ろめたさを含んでいる足音は必要以上にざくざくと音をたてる気さえして、もうどうでもよくなるのだ。けれどわたしは誰にも見つかるわけにはいかないという鬼気迫る気配を漂わせながら、歩いている。湿った草が足元を濡らしたけれど、気にしなかった。 『あやつなら、あの庭にいるだろうよ』 つい先ほどまで話していた高飛車な女王様は、つまらなさそうに言い捨てた。アリスに会って、ペーターにお礼を言い、エースと挨拶を交わしたのなら彼女に会わないわけにはいかないだろう。ハートの国を統べる女王はわたしが突然目の前に現れても歓声をあげたり特段喜んでくれる様子もなく、淡々とその目にわたしをおさめた。少しだけ目じりを優しくさせたと感じたのは、きっとわたしの願望だろう。 馬鹿な子だね。ビバルディは開口一番そう告げた。それはきっと自分に銃口を向けたことを指しているのではない。戻ってきたわたし自身に、彼女は告げているのだ。だからわたしは微笑んで彼女の柔らかな叱責を受け入れる。 エースの謹慎を解いてくれるように頼んだけれど、ビバルディはまったく受け付けなかった。命令を聞いているうちが華なのだ、と面白くもなさそうに付け加え、出て行きたければ行くだろうさ、とそっぽを向く。彼女の言うとおり、エースは時間がたてば元どおりに活動を始めるに違いなかった。彼の日常―――部屋には滅多に戻らず、出先で迷子になりまったく戻ってこない上に、帰ってきたとしても血の匂いをさせている、友人がいないせいで少しだけ調子の悪い―――を、思うと微笑みは苦笑に変わる。 ビバルディは常の彼女のような表情をいっさい見せなかった。あれは怒っている、というジェスチャーだ。裏切られたのだからこれくらいしても支障はない、という類の報復。だから、わたしはその怒りを解くためにこれから少しずつゆっくりと彼女と時を重ねていこうと思っている。 「重ねてくれるかは、まぁ別として」 小さくひとりごとを零し、ようやく現れたアーチと整えられた生垣にほっとした。正規のルートを通らなかったので、たどり着けないかもしれないと考えていたからだ。わたしはそっとそのアーチに歩み寄り、恐々と足先を揃えて立つ。いつもこうだ。彼の庭に入るとき、わたしは一種の覚悟を強いられる。大切なものに踏み込んでしまう、綺麗なものを汚すときみたいな罪悪感。アーチから覗く庭には、彼の姿はなかった。 息を整え、意を決してつま先を浮かせる。浅く一歩を踏み出せば、同じように迎える地面がわたしを笑った。相変わらずむせ返る薔薇の匂いに覆われた庭園は、わたしの視界を真っ赤に染め上げる。綺麗に揃えられた薔薇園は広く豊かで瑞々しく、こんなところに彼がいたらさぞ似合うだろうと思った。しかも都合のいいことに、彼の好む夜が世界を支配している。 「…………あ」 順路をきちんとめぐっていくと、彼を見つけた。ビバルディの言ったとおりだ。彼――――――ブラッド・デュプレは手塩にかけた薔薇園の中央にひとりぽつんと佇んでいた。幸い、こちらに気付いたようすもない。わたしはどうやって声をかけようか迷い、ようやく彼がずっと空を見上げていることに気付いた。わたしが気付いてからも微動だにしない姿勢のまま空を見上げる姿は彫刻のようだ。星の瞬きと薔薇を背景にするブラッドは、人ではない妖しさと強烈な美しさを備えている。 「…………わたしは、星になんてなってないよ」 数歩歩み寄り、震えないように必死で紡いだ言葉は彼に届いただろうか。どうしてエースやブラッドは、わたしを見ずにそうやって過去や未来ばかりに思いを馳せるのだろうか。わたしを透かしてみるその世界は―――どうしたってわたしが関係してくるはずなのに、彼らの目には決して映ることがない――――どれだけの絶望を内包していると言うのだろう。 ブラッドはゆっくりとこちらを見て、少しだけ目を見開いて束の間驚きを示して見せた。 「…………?」 「言っておくけど、幽霊でもないよ」 「……………………驚いた」 独特のイントネーションの「驚いた」は、彼の衝撃をまったくわたしに伝えない。 向き合った彼の深く暗い瞳の奥に、わたしがしっかりといるのを確かめる。 「久しぶり、ブラッド。驚いたあなたを見られて嬉しい」 「…………いつから君は、そんなに悪趣味になったんだ?」 「たぶん、最初から。ユリウスに心を預けていたから、前のわたしはとても従順だったけれど」 もうそうはいかない、という目で彼を睨む。ブラッドにされたことをすぐに許してやることなんてできないし、してあげるつもりもなかった。あれは立派な暴力だ。たとえ、暴力に見合うだけの罪を犯したとしても認めることなんてできない。 ブラッドはまだ少しだけ呆けた顔をして、わたしを見ている。まっすぐで無防備な瞳にわたしはたじろいだけれど、彼はすぐにいつものように笑った。 「そうか。…………素直な君は、ずいぶん御しやすかったんだがな」 「そうでしょう。でも、これからは違うからね」 「…………これから?」 言葉の含みに気付いた彼が、復唱する。プレゼントを渡す前のように高揚した気分が、自然に笑顔をつくった。 「わたし、ここにいるよ。それを伝えにきたの。この世界に残るって」 「…………この世界に?」 「そう。この世界。…………今、わたしとあなたがいる世界」 ブラッドは要領を得ない顔をしてわたしを見つめている。彼にとって、わたしの自殺行為はなによりも離別をあらわしていたのだろう。死ぬにしろ、生きるにしろ、帰ると豪語する女が目の前からいなくなることに変わりはない。 この人も同じことを言うのだろうか。わたしはじっと彼を見つめる。ユリウスを愛したから、唆されたから、この世界にいるのだろうと決め付けるのだろうか。 どちらの答えを望んでいるのかなどわからない。なぜならわたしはそれほど価値のあるものではないからだ。彼らが言う、顔なしにひどく近いもの。 「そうか」 ブラッドの腕が伸びて、わたしの頬を撫でる。思い出した場面はあまり楽しくないものだったけれど、受け入れてあげることにした。 「君は残るのか…………」 「意外だった?」 「あぁ。…………こうやって、私の前に来てくれることを含めて、な」 名残惜しそうに離れる腕を見ながら、ブラッドがかすかにいつもとは違う笑いかたをしたのを聞いた。見たのではなく、感じたわけでもなく、耳の奥に響くような笑い方だった。 だからわたしは彼の眼球に残るように、ほがらかに笑う。 「でも、まだ許したわけじゃあないよ」 挑むように口角をあげると、ブラッドの瞳も強気な光が満ちる。 「私も、謝るつもりなどさらさらない」 面食らったように、わたしが呆ける番だった。もうブラッドは自分のリズムを取り戻している。大変癪に障ったが、それでもこの世界に受け入れられたように嬉しくて、わたしは笑った。この世界に戻ってからというもの、わたしは笑ってばかりいる。 「意地悪だね」 「マフィアのボスが親切を気取ってなんになる?」 「それもそうか」 ふわりと風に乗って薔薇の香りがわたしを覆った。この花園は、薔薇ばかりに覆われているからわたしの存在など霞んでしまいそうだ。赤く可憐な、けれど誰よりも強靭な花にわたしは思いを馳せる。アリスはブラッドやビバルディのような綺麗な人が似合う、と言っていたけれどアリスにだって似合っている。けれどそれは赤ではなくて、小さなピンクローズだ。棘を持ち自己を守り、けれど人を優しい気持ちにさせずにはいられない色を持った薔薇。ブラッドやビバルディの支えとなって、アリスは役割を果たし続けている。 「あのね、ブラッド。わたし、探そうと思うものがあるの」 確かなものなど何ひとつなく、こうやって手ぶらで歩くわたしは自由だ。根を持つ薔薇より心もとないくせに、花を咲かせる場所を自ら選ぶことのできる生き物。 ブラッドはわたしの台詞を促してくれる。生き返って思うのは、誰かに話を聞いてもらえると言うことだけでも、自分がここにいる証になるということだ。 わたしは精一杯笑う。笑っていこうと決めたのだ。送り出すのも迎えるのも、これからはずっと笑っていきたい。 |
オールド・ローズは戻らない
(09.10.04)