アリスはかつかつと、彼女らしくもない様子で廊下を歩いている。彼女らしくないというのはつまり、淑女らしくないとか感情まかせに歩いている、ということだ。すれ違う役なしのメイドたちが、不思議そうに主の気に入りの娘を見た。彼らは感情が希薄だが、仕事ぶりは大変真面目だ。主の逆鱗に触れればすぐに首を刎ねられてしまうのだから、それも仕方のないことかもしれない。そんなメイドたちがアリスの不機嫌そうな顔をおっとりと見つめ、けれど彼女が気分を害しているなどとは珍しいと思う。それ以上考えないのは、アリスが気分を害していたからと言って彼女たちの命はなくならないからだった。 かつん。ようやく足を止めたアリスはノックと同時に扉を開けた。淑女にあるまじき行為だが、中にいるであろう人物がまだ不貞腐れているつもりなら叱咤するつもりであったからどうでもよかった。部屋はしんと静まり返り、くるりと見渡すと案の定目当ての人物は壁に寄りかかり座っていた。 呆けたような、馬鹿面。アリスは素直にそう思う。 「はは。次はアリスか。こんなに俺の部屋に来客がくるなんて珍しいぜ」 呆けたような馬鹿面の部屋の主は、座ったままでそう告げた。アリスは嘆息を漏らす。 「当たり前でしょう。滅多に戻らない人の部屋に入るなんて、ただの泥棒よ」 「…………うん。それもそうだな。まぁ取られるものもないけど」 「それよりも、なに? に会ったんでしょう。なのにどうして」 どうして、まだ動かないの。言外に含ませた思いにエースは朗らかに笑ってみせる。いつもどおりの空々しく爽やかな笑い声に、アリスも常のように嫌気が差した。 「来たよ。でもびっくりしたぜ。ずっとここにいるって言うんだ、」 「えぇ。聞いたわ」 「しかもユリウスのところに戻ったわけでもなくてさ。…………まぁ、ユリウスの甲斐性の問題かもしれないけど」 くく、と喉の奥で笑い声を漏らすエースの顔色はいい。と会話したせいかもしれない、とアリスは思った。はきっとユリウスに会ったことを伝えただろう。彼の息災も自分との会話も、すっかり教えたに違いない。だとすれば、二人を大切に思っているこの男が元気になるわけも頷けた。 「…………エースは、とユリウスがくっつけばいいと思っていたの?」 「思ってたよ。当たり前だろ。…………ユリウスは考えの根暗な男だけど、はその根暗に付き合えるくらいの素直な子だった。刷り込みってやつと一緒だ。この世界で初めて見たユリウスが、にとっての絶対だった」 まるでおとぎ話でも話すかのように紡がれるエピソードに、アリスは随分彼女らしいと思った。は従うことに安心を求めるタイプで、誰かに居場所を用意してもらうほうが似合っている。ユリウスはそんなに救われていたのだと思う。一緒に根暗になって、それでも明るく自分を慕う彼女は、彼が持ち得ないものをすべて持っていた。 「それに、ユリウスがを気にいってたのはもう一つ理由がある」 「なに?」 「は俺が苦手だったんだ」 あの日、ユリウスの部下として働いて戻った時計塔で扉を開けた彼女の顔は忘れもしない。表情に血の気はなく、唇は震えていた。自分を見て震える人間など見飽きていたけれど、彼女のそれは自分にある意味での衝撃をもたらした。絶望的な恐怖だ。どんなに手を伸ばしても彼女にはたどり着かないことを、思い知らされた。 ユリウスによって彼女は部屋に戻されたのだが、そのときのユリウスは確かに―――けれど、かすかに―――笑っていた。 「ユリウスも根暗なやつだよ。他の滞在先に行けって言ったのも、きっとそいつらより自分を選んで欲しかったからだ」 「…………そ、そうかもしれないわね」 「そうかも、じゃなくて事実だよ。ホント、根暗すぎるぜ」 けれど結果はまったくの逆だった。帽子屋屋敷ではエリオットを気に入り、ボリスのなぞなぞを楽しげに話すにユリウスの不快感は増していったことだろう。 アリスはユリウスと言う男の不甲斐なさに頭を痛める。誰よりも自分だけを選んで欲しかったなんて、どこの乙女であるというのだろう。 「…………の方がよっぽど強いわ」 「あぁ、それは言えてる」 未だに起き上がらないエースを見下ろしながら、あなたよりもよ、とアリスは思う。 は時計塔での精神安定剤だったのだろう。根暗で人嫌いな主と、その部下で感情の希薄なこの騎士の、足りない部分を補うために与えられた安定剤。 に同情の念が湧いたけれど、それはお互い様だよ、と言われるだろうから彼女には言わずにおこうと思う。 「…………は、探すって言ってたわ」 だから、変わりに彼女がエースに伝えていないだろうことを伝える。 エースが不思議そうにアリスを仰ぎ見た。まるで子どものように純粋な瞳は、孕んだ闇を見せようともしない狡猾さを持っている。 そんなエースにアリスは笑ってやる。あなた達がまだそこにいるつもりなら、自分たちは進んでやるだけだ。 「理由を探すって。もちろん自分自身の力でね」 * * * * * * * * * 「理由…………?」 落ち着き払った、老成した声が小さく細く部屋へ振動を伝える。その声に重々しく頷いた女性―――赤いドレスを纏い、黒いリボンの巻かれた杖をたずさえた美しい女性―――は、まったく表情を変えずに続ける。 「この世界に落ちた理由だと言っていた。わらわにも分からぬ、あの子が落ちてきた理由」 「ふむ…………余所者の落ちる理由など、あまりないが」 対する男性―――髪は白髪に近く、赤い服を纏っているというのに女性ほどの気迫はない―――が、生やしたひげに手を伸ばしながら言う。大した興味もないのは明白だった。 「そう、あまりない。なのにあの子が落ちてきた理由はわからない。あの子が苛立つのもよくわかる。…………わらわとて、許可なく自分を御されれば腹立たしい」 「…………あの子は、苛立っているわけではないだろう」 「はぁ?」 「苛立っているわけではないんだよ。ただ、迷っているだけ。探すというのなら、それを欲しがっていることに他ならない」 キングは口角だけで笑う。そのようすがまるであざ笑うかのようで、ビバルディは気に入らない。杖を掲げ、ひゅっと音のなった先にはキングの顔がある。 「あの子が礼を言っていた。『命令をどうもありがとう』だそうだ」 「ふむ。女王を伝言役に使うか」 「自分で言うつもりはないとも言っていた。わらわが伝えてやるのは、ただのきまぐれだ」 険悪な雰囲気で部屋がいっぱいになる。 ふたりは束の間にらみ合ったあと、どちらともなく視線をはずした。そのまま出て行こうとするビバルディの背中にキングの声がかかる。 「あの子がそれほど大切なら、きちんと見張っておくべきだよ。探すというのなら、まだ見つかってはいないということだ。そういう子は、ひどく危うい」 「…………?」 「まだ戻ることもできるということだ。この世界にいる意味がなければ、早々にあの子は言ってしまうだろう。誰が引き止めても、それらに求める答えがないのなら」 ビバルディは一瞬目を見開き、憎々しげに扉を乱暴に閉じた。キングは暗に、女王がいくら止めてもは戻ってしまうことを指していた。そんなのことは女王のほうでも百も承知していることを知っていて尚、だ。 ビバルディは苛立つ心を抑えつけ、廊下をヒールの音を高らかに鳴らせながら歩く。ふと窓の外を見上げれば昼間の陽気が視界を覆った。面白くもない時間帯だ。すぐにでも夕方にしてやろうと杖をふろうとしたが、思い余ってやめた。昼の陽光はに似合っている、と思ったからだ。あの子の素直さは夜でも夕方でもない。昼日中に咲く花にこそ、似合っている。 |
透明な破片の残骸
(09.10.04)