理由を探したいの、わたしがこの世界に落ちてきてしまった理由。 きっぱりと告げたわたしに、ブラッドは半分困ったような顔をして曖昧に頷いた。彼も詳しくは分からないし、そんなものを重要視していないので答えようがないのだろう。わたしは、けれどもう一度呟くように伝える。探したいの。 ブラッドの庭園をあとにして、わたしはまたざくざくと道をいく。今度は正規のルートであったから、誰にはばかることもない。ブラッド以外には見つかりたくなかったから選んだ道だった。だからこれからは、誰にだって会っていい。とりあえずクローバーの塔に戻り、ナイトメアやグレイに会わなければいけないとは思っていた。ピアスやボリスは森にいるだろうし、順序から言えば最後になってしまう位置だ。 『…………見つからなかったら、どうするんだ?』 途方に暮れたような、ブラッドの声が蘇る。彼は興味もないくせに、そこにだけは関心があるようだった。見つけられなかった先の話なんてしたくなかったけれど、わたしは彼のために一生懸命考えて見せた。もしくは考えるふりを。 だいたい、見つからない答えなどという曖昧なものであるはずがない。わたしがこの世界に落ちてきたのには相当の理由、というか力が働いているはずなのだ。強大で傍若無人な、他人の人生をめちゃくちゃにする力がそう簡単に発動されているはずがない。 でも、とわたしは思う。でも本当に理由などなかったら。 「…………あれ?」 わたしは一旦思考を停止し、足を止める。いつのまにか周囲が変わってしまっていた。 わたしは確かに林の中を歩いていたはずだけれど、こんな変な―――ーというのはつまり、扉ばかりが張り付いた木々の生い茂る森――――場所に出た覚えはない。 だいたい、ピアスやボリスの住まう森の中でしか見たことがなかった。帽子屋屋敷からクローバーの塔への道すがらになんて、あるはずがない。 きゅっと手を胸の前で握り、警戒心を強くする。 「こちらへおいで」 「さぁ、こちらだよ」 「扉を開けて」 「戻りたいんだろう」 「戻らなければ、いけなんだろう?」 囁くように始まった声が、あらゆるところに配置された扉のせいで反響していっきに大きくなる。わたしを360℃包囲しているこの扉は、一致団結してこちらを追い詰める算段のようだ。 アリスが滅入っていたわけが、やっとわたしにもわかった。この扉は間違いを責め立てているのだ。自分でも間違いだと自覚している類の罪を、執拗かつ念入りに問いただす。 「戻らないし、帰らないの」 返答すべきではないと頭では分かっている。これらは無機物だ。それか、囁いて傷を暴くだけの幻にすぎない。返答してしまえば傷は広がり、不意打ちに気付かされることさえある。どちらにしろ、賢い選択肢ではない。 「無責任」 予想通りだった。扉からの一撃はわたしの一番弱い部分を、一突きにする。 無責任。元の世界を投げ出そうとするわたしにこれ以上似合う言葉はない。 「責任をとらなくちゃいけないよ」 「責任を放り出しちゃいけないよ」 「責任を忘れないで」 扉の舌なめずりが聞こえるようだった。わたしの中で、罪悪感が重量を増す。重くて傾きそうになる答えだ。わたしはじっと、前だけを見据えた。 元の世界にあったわたしの居場所は、誰かが作ってくれた尊いものだった。生まれてきたことを歓迎され、迎え入れてもらって、ぬくぬくと育ってきた場所。苦労を知らず、未来を簡単に予想できたわたしの将来にはなんの陰りもなかった。それらはすべて、慈しみ守ってくれた存在があったからだ。父や母、それか祖母や祖父、とにかくわたしを覆い隠してくれていた膜はもうわたしにはない。 それらをすべて、なんの前触れも宣言もなく放り出すことは確かに無責任だ。わたしに非がないにしても、この事態を結局受け入れたわたしは共犯者だった。招きいれ突き落としたこの世界の誰かより、よっぽど罪深いだろう。 「本当に帰らないつもり?」 「振り返らないで、それでいいの」 「許されないままで、いいと思ってるの」 ぴくり、とわたしの腕が反応する。 振り返らない、許されない。アリスならばそれだけで参ってしまいそうな甘美な言葉たちだろう。彼女にはわたしよりも根深い秘密が隠されていそうだった。背負っているは背景が元から違うのだから、悩みだって違ってくる。 わたしは瞳を細めて笑ってやる。意地悪な継母みたいに。 「振り返らないだなんて言ってない。いつだって振り返って、何度だって後悔するに決まってる。それに元から許されるなんて思ってるわけがないじゃない」 許すというのは、つまりわたしの母や父、祖母や祖父からのものでしかありえない。友人かもしれないし、もっと違う人がいるのかもしれないけれど、わたしを包み守ってくれた人は、総じてこの世界にはいないのだ。 戻れという命令に従えないのなら、もうどうしたってわたしは許されるはずがない。けれど、とわたしは思う。アリスには言えない、これはわたしの答えだった。もし言ってしまえば彼女を更に悩ませるはずの――――けれどわたしにはこれ以上ないくらいの―――答え。 「わたしは、わたしに許したの。決断をした。ここにいることを決めたのは、誰でもないわたし自身」 言い切ると、ふいに胸が圧迫されるような苦しさに見舞われた。外傷などではなく、心臓が痛いわけでもないその苦痛は、心の芯からのものだ。わたしは自分の出した答えに苦しんでいる。あまりにも身勝手な、自由すぎるその答えに。 胸を押さえながらそれでも前を向こうとするわたしの耳に、突然銃声が響いた。背後から何発も聞こえたその音に身が竦む。何事か、と振り返ろうとすれば今度は目の前を二対の斧が閃いて振り下ろされた。 がしゃん!ぐしゃ。先ほどまでは喋っていた、無機物である扉が残骸と化す。 「大丈夫?!お姉さん!」 「どこも何もされてない?お姉さん!」 「ディー? ダム?」 手当たり次第に扉を破壊してから、双子はわたしに向き直る。目を何度か瞬かせると、二人がその瞬間を狙ったかのように両腕に張り付いた。ひとりひとり、きちんと腕を掴むのは双子ゆえだろうか。 「まったく、心配させんなよ。アンタがクローバーの塔に向かったっていうから駆けつけてみれば、こんなとこにいやがるし」 「…………エリオット」 「役にも立たねぇコイツラの言うことなんざ、聞くことねぇからな」 双子のせいで首だけしか振り向けなかったが、大きな彼にはそれだけで充分だった。体と同じように大きな手のひらがわたしの頭部をすっぽりと包むように撫でる。 わたしは眩しそうに目を細めて笑った。 「ありがとう。三人とも」 「あぁ。…………って違う!俺はそういうことを言いにきたんじゃなくてだな」 「そうだよそうだよ!ボスには会って僕らに会っていかないってどういうことさ!」 「兄弟の言うとおりだよ。馬鹿ウサギはいいとして、僕らに会っていかないのはひどいよ!」 ぱっと顔をあげた双子は眉を八の字にして瞳を潤ませる。彼らの本質を知らなければ、いたいけな子どもたちそのものだ。わたしはそういえばと頭を悩ませる。考え事をしていたせいで、うっかり帽子屋屋敷を素通りしてしまったのだ。 「そうだぜ。が目の前であんなことしやがるから、俺はてっきりもう会えないもんかと」 「馬鹿ウサギ!縁起でもないこと言うなよな!」 「そうだよ馬鹿ウサギ!お姉さんが死んじゃうなんて考えたくもない!」 「うるっせぇよ!俺だってんなこと思いたくもねぇ!」 音量は最大のステレオか、その機能を壊してしまったのかと疑いたくなるほどの盛大な罵りあいが耳をつんざく。お願いだからその声で話すのなら最低五メートルは離れていただきたかった。だが、わたしはぐっと堪える。今回だけだ、と念じるように思った。 「ごめんね、三人とも。あんなことしたりして」 「本当だよ!空砲だってすぐに気付いたのに、お姉さん目を覚まさないんだもん」 「空砲なのに、お姉さん死んだみたいに綺麗な顔してるから…………。このまま帰っちゃうかもってボスが言ってて」 「ブラッドがそう言うんなら、そうかもしれねぇってことになってよ。アリスがクローバーの塔に寝かせるって言い出したんだ。自分が傍にいるから、誰も来るなって念を押してさ」 「アリスが?」 「そうだよ。それにあの狂った騎士も放心状態になっちゃってさ。あのとき許してもらえたら斬り殺してやったのに!」 「駄目だよ兄弟。苦しませて殺さなきゃ。お姉さんを苦しめた罪は重いよ」 話が怪しい方向に行き始めたので、わたしは彼らの会話を遮断する。当時の「放心状態」のエースになら勝てたかもしれないが、すでに生気を取り戻したはずのあの騎士に向かっていっても必ず勝てるとは限らない。 「あれはわたしが勝手にやったことだから、エースには当たらないで」 「えぇ? お姉さんあんなやつを庇うの?!」 「庇う庇わないの問題じゃなくてね。…………えぇと、エースに付き合ってたらあなた達の体がもたないと思うし」 「そうだぜ。お前らいっつも負けてんじゃねぇか」 「うるさいよ!ひよこウサギ!」 がきぃん!音がした瞬間に、わたしは自分を挟んで斧と銃がぶつかり合ったのを知る。もう何度となく繰り返された攻防に、よく五体満足でいられたなぁと関心さえしてしまう。 「あっぶねぇだろ!」 「危なくしてやってんだよ、ひよこウサギ!」 「そうだよそうだよ!くたばれよ!」 「ディー、ダム、エリオット」 静かに、まぶたを一度閉じて声を出す。視界には斧が交錯しているはずだから、見たくなかった。わたしの声に三人の怒声が止んだのを確認して、わたしは殊更優しい声を出す。 「謝りもしないでごめんなさい。でも助けてくれて嬉しかった」 「いいんだよ、お姉さんが帰らないでいてくれたらそれで」 「そうだよそうだよ。お姉さんは帰っちゃ駄目だよ」 「ありがとう。…………わたしは、帰るつもりはないよ」 もうブラッドから聞いているかもしれなかったが―――なにせ彼らが駆けつけたのはブラッドがわたしに会ったと話したせいだろう――――、再度わたしは重ねた。双子は斧を収めながら、少しだけ疑うような瞳を向ける。 「本当に?本当に帰らないの?」 「戻らなくて、僕らと一緒に居てくれるの?」 「ディー、ダム」 「だって迷ってるからここに来ちゃったんでしょう」 「迷ってるから、扉が現れて、お姉さんを惑わせるんだ」 迷ったからあれらが現れたのだと主張されて、ようやく合点がいった。わたしは道を間違えたわけでもなければ迷子になったわけでもないのだ。ただ、自分の答えに戸惑ったからここに来てしまった。 「ぶぁっかじゃねぇか。お前ら」 突然、首筋と胸に後ろから腕が伸びてがばりと双子から引き剥がされた。わたしは彼の力に逆らえずにすっぽりと腕の中に収まってしまう。頭の上にエリオットが顎を乗せたのがわかった。 「が帰らねぇって言ってんだからいいじゃねぇか。みっともなくガキみてぇに喚くんじゃねぇよ」 「…………っ! わかったような口聞くなよ。ひよこウサギ!」 「そうだよそうだよ、馬鹿力!」 悔しそうに紡がれる言葉たちに、目眩が起こりそうな幸福を覚えた。エリオットはやっぱりどこまでも純粋なウサギだ。わたしの欲しい分だけの愛情をきちんと備えた彼は、ひまわりみたいな笑顔をしていることだろう。彼とひと悶着あったらしいユリウスは彼を好んではいなかったけれど、わたしはこの世界のウサギ―――もちろんエリオットとペーター―――には、ずっと弱いままだと思う。 「ねぇ、三人とも。お願いがあるんだけど聞いてもらえる?」 わたしはこれ以上彼らの口論がひどくなる前に、妥協案を出す。わたしの声はまだ彼らにちゃんと届いていて、返事をくれるので安心できた。 クローバーの塔に行きたいの。だから、ボディーガードをお願い。 我侭な申し出なのに、わたしはちっとも断られると思わなかった。むしろ、それを彼らが喜んで引き受けてくれるだろうと予想していた。なんて厚かましく身勝手な女だろう。わたしは身のうちで自分をあざ笑いながら、優しい彼らに腕を伸ばした。取られることを予想した、あまりにも無防備な腕を掴んでくれる逞しい力に頼りきって。 |
泥海の底から貴方を掬い上げに
(09.10.04)