エリオットとディーとダムにクローバーの塔の前まで送ってもらい、まるで聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるようにくれぐれもドアの森には近づかないようにと言い含められたあと、わたしは彼らと別れた。中まで送れなかったのは、やはりあれだけの騒ぎを起こしたからだろう。けれどそれについて三人は全然関心がなさそうだった。町を歩く姿はいつもどおり堂々としており、ひそひそと止まない噂話が周囲を包む。 「待っていた。」 扉をくぐり、ホールに出ると広々としたその中央階段にグレイがいた。待っていた、と言った彼はわたしの前まで歩み寄りじっと見つめてくる。その黄土色の瞳がいつもよりずっと険しい。 「待っていた?」 いつまでも口を開かないので、わたしは尋ねるしかなくなる。グレイらしくない態度だった。女性にはいつも紳士的な対応だったのに、やはりわたしの愚行を怒っているのだろうか。グレイは瞳をそのままにして、静かに口を開いた。 「痛むところはないか?」まったく問いの答えになっていなかった。 「…………ないけれど」 「そうか。ならいい。…………いくら空砲だとしても、火傷くらいはしていると思ったからな。それに、脳に障害でもでればことだ」 ほっと息をついてから、グレイはいつものように花びらみたいな弾力で笑った。あの薄いくせに厚ぼったい、柔らかで温かな感じがそっくりだ。わたしは安堵して、やっと謝罪の言葉を言う。彼は「君が無事ならそれでいい」と紳士的に満点の返答をしてくれる。 「俺が待っていたのはナイトメア様の命令なんだ」 「ナイトメアの?」 「そう。来るだろうから、迎えに行けと」 部屋なら知っているし道順を変えたわけでもないだろうに、ナイトメアはわざわざ迎えを寄越したのだという。頭を捻ると、あることに思い至った。この塔には、わたしが先ほど迷ったのと同じような扉ばかりの居空間があるのだ。 本当に心配性ばかりの世界なんだから。わたしは自分の危うさを棚にあげて微笑む。 「ねぇ、グレイ」 「ん、なんだ」 「ナイトメアは多分、この世界のボスとしては一番甘いと思う」 優しいのではなく、とことん甘いのだ。それはビバルディやブラッドの甘さとはまったく違う。厳しさを受け入れない、極端に甘い砂糖菓子のようだと思った。 グレイはしばらくわたしを見つめたあとに、頷いてくれる。 「あぁ、そうかもしれないな」 「でしょ? …………まぁ、性格は悪いんだけれどね」 「仕事をしてくださらないしな」 「うん。それに、夢の中では最強っていうのも嫌」 「…………だが、それを奪われてはナイトメア様の力の意味が」 「心を盗み見られるのは嫌だもの。あぁ、そうだ。グレイ、あとからでいいからわたしに心を見られない方法を教えて」 切実な申し出に、グレイは首をかしげた。彼はすでにわたしが帰らないことを知っているらしい。きっと、ナイトメアにわたしの心は透かされたのだろう。けれど、グレイの上司はそれがどうしてかまでは話していないのだ。 本当に、甘ちゃんだ。夢の中では自由を気取ってひどく余裕なくせに、現実世界では直線的すぎる。 グレイに言おうか迷い、けれどもうすでに目的地は目の前だったのでそれ以上の会話は切り上げてしまった。グレイがノックをすると「入れ」と仰々しさをたっぷり持たせようとした声が返った。わたしは笑わないことに必死になる。 「よく来たな、」 「うん。なんだかそれは悪役の台詞みたいだから止めようよ」 「そ、そうか?」 椅子に座ってふんぞり返っていたのに、すぐにペースを乱されて結局こちらまで歩いてきたナイトメアを可愛いと思った。彼は素直で我侭な、ひどく苛々させる人だった。 わたしはにっこり笑ってやる。もう透けて見える心は間違いなく醜いだろうから、表面だけでも繕いたかった。 「もうわたしの心は見えるんだよね」 「あぁ。…………前よりはずっと鮮明だ」 「そっか。やっぱり今まで見にくかったのはユリウスに心を預けてたからなんだ」 種がわかってしまえば簡単な話しだ。心が本人と一緒にないのだから、ナイトメアには覗くことができなかった。グレイが後ろで息を呑んだのがわかる。 わたしは淋しそうに俯いて笑った。結局特別なところなどどこにもない自分が悲しいし悔しい。ひとつでも、自信を持って特別なところがあればよかった。ナイトメアはそんなわたしを見ながら、弱々しい声を出す。 「いや、見えると言ってもそれほどまでじゃあないぞ? 君もグレイくらい読みにくいんだ」 「…………なんだかそれも微妙。グレイみたいに訓練したわけじゃないから、単に複雑っすぎるってことじゃない」 「そうでもなくてだな。…………えーと、それだ、それ。その螺子が邪魔なんだ」 彼が自分で自分の胸元を指す。わたしは指されたとおりに視線を落として、ユリウスにもらった歯車を見つめた。大振りの歯車だが、こんなもので見えなくなるなんて妨害電波でも出しているのだろうか。 「時計屋の力が詰まってる。それじゃ私にも不用意にははずせないさ」 苦笑と落胆を半々にして、ナイトメアは肩を落とす。わたしは未だに歯車を見ながら「虫除けになってる」とまったく違う感想を持った。仕事関連において、彼の何かが役にたったのは初めてだろう。 歯車を胸元に戻してわたしはナイトメアに向き直る。肩から力を抜くとひどく体が重かった。 「でも、見えたからグレイを迎えによこしてくれたんでしょう?」 「…………あぁ」 「じゃあ、わたしの言いたいこともわかるんだね」 こういうときだけ便利な能力だと思う。何度も同じことを言いたくなかったし、言わずとも察してほしいことなど山のようにある。ナイトメアは視線を彷徨わせてから、少しだけ真面目な顔になった。そういう顔をすると、彼はやけに端正な顔立ちになる。 「答えを知っているかもしれないと言ったらどうする?」 けれど言われた言葉に初め反応ができなかった。これから探そうとしていたのだ。理由も意味も、自分で見つけようと思っていた。多分だれかの力を借りることにはなるだろうけれど、必ず見つけようと決意していた。それなのに、この夢魔はあっさりとわたしにそれを渡そうとする。 「知ってるの? でも、前はわからないって」 「言った。だが、今は違う。…………君が望むなら話すが、あまりオススメはしないな」 夢魔らしく謎めいた口調であるというのに、言っている本人は少し拗ねたような顔をしているのでは効果は半減してしまう。わたしは目の前に差し出された餌に釣られてみるべきかどうか迷った。ふいに、ピアスの声が蘇る。わたしが答えられなかった問いを、すでに彼は的を得た結論と共に突きつけていたではないか。 「あのね、ナイトメア。わたし、ピアスに言われたの」 「…………ピアスに?」 「そう。『は理由が欲しいみたいだ』って」 ブラッドの手から逃げ出し、ボリスに手助けをしてもらって森にたどり着いたわたしにピアスはそう言った。あまりにも無垢な目は、彼の言葉がそのままわたしであることを意味する。そっくりそのまんま、わたしは彼の言葉に飲み込まれてしまった。 「『アリスみたいにうさチャンがいればそれでいいみたいに聞こえる』って。あまりにも的確すぎて返事ができなかった。わたしはいつだってアリスが羨ましかったもの」 たった一人の人にどうしようもなく愛されて望まれてそこにいられるなんて、どんなに幸せなことだろう。たとえアリスが望んでいなくても、ペーターの狂信的な愛は彼女を少なからず救っているのだ。 わたしは元の世界でも『特別』に憧れていた。誰かにとっての特別は、きっとわたしをひとりきりで淋しい思いになどさせないに違いない。ペーターの愛し方うんぬんではなく、彼らの関係にずっと惹かれていたのだ。 わたしは諦めたようにナイトメアを見つめる。きっと彼の答えはわたしの望むものではないのだ。 「いいよ。受け止めるって決めたんだもの。もう思い余って突飛な行動になんて出ないって誓うから、答えを教えて」 「…………いや」 「なに? まだ前置きがあるの」 煮えきれないナイトメアに嘆息し、彼の優柔不断ぶりを思い出す。まるで出来の悪い子どもか兄弟でも持ったような気分だ。急かしたいけれど、可哀想でそれもできない。 ナイトメアはしばらく言うか言わまいか迷っていた。うだうだとした仕草がかなり癇に障るがなんとか我慢する。後ろではきっとグレイも同じような思いで、けれど心配そうに見ているに違いない。 しばらく悩んでいたナイトメアだが、いきなり顔をあげてわたしを見た。どうやら覚悟を決めたらしいが、それすらも子どもっぽいという自覚はないだろう。 「言いたくはないんだぞ? 私だって、時計屋のように隠していたかった」 「ユリウス?」 「そうだ。あの男だって薄々気付いていたのに、確証などないからと言って伝えなかった。でも、絶対格好がつかないからに決まってる」 ますますわからなくなる。ユリウスとナイトメアがわたしについて協議していてくれたこともそうだが、あのユリウスが言いたくないほど格好悪いだなんてそんなことあるのだろうか。わたしが眉根を寄せるとそれを苛立ちと捕らえたのか、ナイトメアがまたかわいそうな顔になる。それをどうにか宥め―――格好悪くなどないし、言ってくれたほうが嬉しい―――どうにか彼の気持ちを落ち着かせるのは正直疲れる。 まだ言いたくなさそうなナイトメアは不貞腐れたような声でぼそりと零した。 「…………アリスだ」 「え?」本当に、よく聞こえなかった。 「アリス、だよ。白兎がこの世界にアリスを連れてきただろう。我々は、たぶん、君のように少なからず羨ましかったんだ」 ナイトメアが言うには、力を故意に使ったものがいないのならそれは無意識に発揮された力であり複数人によるものである可能性が高いという結論らしい。誰も彼もが無意識に同じことを望んで、それらがひとつになって強大な力になったのだという。 わたしは呆れるというより、ひどく馬鹿馬鹿しくなった。目の前でまだ恥ずかしがっているナイトメアも、後ろでそれについて言葉を失っているグレイも、そしてその答えが「格好悪い」からいえなかったユリウスも。みんなみんな、どうしてこんなにも愚かで馬鹿馬鹿しくあまりにも甘いんだろう。 「ふっふふ!はははは!」 手の甲を口につけて、わたしは堪えきれず笑い出した。まるでペーターとアリスのちぐはぐで強烈な愛情のやりとりを見てしまったときの、爆発的で強烈な笑いだった。こみ上げる幸福な気持ちは留まることは知らず、どうしても口から笑い声が溢れていく。 ナイトメアの執務室からわたしの笑い声はしばらく続いていた。声が枯れるかもしれないと思ったし、お腹だって痛かった。でもそれ以上に溶けるくらい幸せで不甲斐ないほど愚かな思いに、奇妙な歓喜ばかりがわたしを包んでいた。 この世界は、どうやらわたしを窒息死させたいらしい。 呼吸ができなくてよろめくと、ナイトメアが正気を取り戻し駆け寄って支えてくれた。そのひょろっこい腕に捕まりながら、涙の滲む瞳を向ける。彼は、随分驚いていた。 「…………ふっふふ。ごめ、ごめん」 「いや、いい。少し驚いたが」 「うん。だって格好悪いだなんて言うんだもの」 またくつくつと胸のうちで笑いが蘇り、ナイトメアの薄い胸板に額をつけてわたしは笑う。彼の心臓の音を聞こうとしたけれど、自分の笑い声のせいで聞こえなかった。世界に迎え入れられていると感じたのは、このときが始めてだった。もちろんそれはちゃんと理解したのが、という意味でだ。きっと一度目は生まれた瞬間、取り上げられたときに大声で泣いたあのときがそうだったのだろうと思う。 ナイトメアは離れようとしないわたしの耳元に唇を寄せて、彼の部下に聞こえないように囁いた。 「だって仕方ないだろう?」 声はまるで夢の中の彼そっくりで、充分迫力があった。目を瞑っているせいか、彼の言葉はダイレクトに心臓に届く。 「どんな男だって、好きな女の子には自分が一番に想っていると言いたいじゃないか」 無意識に嫉妬して渇望したなんて、お世辞にも格好はつかない。 わたしは支えてくれたナイトメアにそのまましがみ付くように抱きついた。いつのまにか爆発的な笑いは収まって、変わりにひどい疲労と悲しいわけではない涙がでてくる。顔を見られまいと必死に隠すわたしの頭を優しく、けれど不器用にナイトメアが撫でる。ナイトメアのくせに、と思ったけれど可愛くないので黙っていた。 しばらくそうしていると、そっとグレイにハンカチを差し出された。そのときのわたしは多分感動したがりだったので、出されたハンカチごと彼にも抱きついた。後ろでナイトメアが何か言っていたけれど気にしなかった。 ただただわたしには持ちきれない幸福めいた愛情に、体が壊れそうなくらい嬉しかった。 |
禁断の毒を持つ果実
(09/10/04)