ハートの城のバラ園は、晴れ渡る空によく映えて美しく咲き誇っている。毅然と顔をあげて咲くこの花を、けれどわたしはずっと苦手だった。こんなふうになれるだなんて思えなかったし、思いたくもなかったからだ。叶わない願いは自分を苦しめるだけだと知っていた。この花がよく似合うビバルディやブラッドは、憤然と前を向いてゆく孤高の美しさがある。 ブラッドのバラ園よりは幾分風の通ったテラスで、わたしとアリスはお茶会を開いていた。お茶会といっても用意はすべて自分たちでしたのだし、茶菓子だって手作りのものの簡素な会だった。あいにくそれらを嫌う女王様は未だに機嫌が治らないおかげで参加してはおらず、だからとアリスは随分自由にお茶会を楽しんだ。周りに従者の一人もいないお茶会は、友人同士の会話で埋め尽くされていく。 はアリスが表情を変えるたびにくつくつと笑い、目じりの涙をすくいあげる。 「笑い事じゃないわ」 たしなめたが、は首を振って笑うばかりだった。彼女たちの話題といえば、もっぱらがこの世界に落ちてきた理由――――ただし、憶測の域をでないものではあるのだが――ーだ。ナイトメアはアリスがこの世界に招かれ、白兎であるペーターに狂人的な愛を注がれる様を見ていた役持ちの誰もが彼女を羨んでいたために起きてしまった偶発的な事故だ、と説明付けた。表には出ない部分、誰もが声をあげられない深層心理の奥底からの願い。アリスに代わる、自分だけの誰かを欲する気持ち。 は笑いながら、ティーカップを持ち上げる。 「笑い事だよ。アリス」 「だから、そんな簡単なことじゃ」 「違うよ。だから、笑い事なの」 傾けたカップから喉を伝う紅茶の香りを楽しんで、はアリスに笑いかける。この賢く聡明な友人は、きっと理解してくれるだろうと半ば確信していた。 アリスは冷めてしまったカップを気にもせず、食い入るようにを見つめた。 「だってそうでしょう? わたしはずっと誰かの特別になりたかった。あまりにも夢物語のような理想を掲げて、願うだけで行動すら起こさなかった臆病者だった。そんなわたしが、彼らに選ばれたのは当然だったのかもしれないと思わない?」 真っ白なテーブルクロスに芝生の緑のコントラストはとても綺麗に瞳に写りこむ。 四方をバラの壁に囲まれたわたし達は、さながら鳥篭の中にいるようでもあった。 「わたしは、理想を押し付けながら誰でもよかったの。同じようにこの世界の誰もが、アリスと同じようでそうではない子を望んだ」 アリスはもう他人のものであったから、自分だけの特別を望んだのだ。同じようで違う誰か。それはなんてこの世界らしい願いだろう。誰もが代わりのきく世界の矛盾を、とても愛おしいと思う。同じようで違うだなんて、わたしの世界ではただ忘れているだけの一般常識だ。 「ずっと誰かの特別だと望まれたかったわたしと、特別な余所者に望まれたかった役持ち…………。ね、似たようなものでしょう?」 どちらも受身と言う時点で、物語は進みようもなかったはずなのに駒は進み状況は変わっていく。淋しかったわたしの心を補う力を持って、彼らは優しかった。望まれていたのなら、それらすべてにも理由がつけられた。 アリスはそこで唇を真一文字に結び気難しい顔をした。そんな理由は横暴だと言いたいのだろう。もしくは、ひどく陳腐すぎると。 「だからね、いいの。笑い事で」 「でも、やっぱり馬鹿馬鹿しすぎる」 「馬鹿馬鹿しくていいじゃない。確かにわたしは理由が欲しかったけれど、王子様が欲しかったわけじゃないから」 優しい人はこういうとき、どうしてこんなにも損な役回りなのだろう。アリスはわたしのことを本当に心配してくれているのだし、ずっと近づこうとしてくれているというのにわたしだけが心の整理をし終えてしまった。 焼き菓子をつまんで、口元に運ぶと軽い音が心地いい。アリスの作るお菓子は、いつも正確な味がする。 「…………わたしは別に、アリスの代わりだなんて思ってないよ」 アリスの瞳がひどく悲しそうに歪んで、一瞬だけそうだと肯定を示した。さくさくと小気味よくクッキーを咀嚼しながら、わたしは続ける。 「アリスが気に病むことじゃないよ。大丈夫。わたしはここで、アリスと出会ってひどく幸せなんだから」 「でも、それじゃ」 「いつだって運命が自分専用だとは限らないでしょう?」 二杯目の紅茶を自分用に注ぎながら、わたしは瞳をアリスに向けず言い放つ。わたしの運命を誰かが背負い込む必要などどこにもなく、アリスにだって責任などない。でも多分、それはわたしの言い分であって彼女には届かない願いなのだろう。今現在、という時間軸の中では。 「わたしの運命にアリスがいてくれて、嬉しいと思う」 「…………あたしはペーターに会ったことを運命だなんて思いたくないけれど」 「あはは。宰相閣下が泣くね」 「泣かせとけばいい。…………」 アリスの瞳がわたしを見据え、何かを引き出そうと心の奥に侵入してくる。わたしは、その瞳を遮断しながら目を逸らした。彼女の正しさはいつだってわたしを救うけれど、同時にどこへも行けなくしてしまう。 アリスはわたしに幸せになってほしいと言う。元の世界のわたしなら、それは誰かの「特別」になることだと答えただろう。けれど、わたしはもう変わってしまった。時間の狂ったこの世界で、確実に進んだわたしを可笑しいと人は笑うだろうか。 「わたしはわたしを手に入れたの。だから、『特別』は自分で探しに行くよ」 ユリウスから返してもらった心は、まだ居心地悪そうにわたしのポケットに入っている。ひんやりとした液体の中は、よくよく見ると透明でもないことがわかった。濁っているようで、淀んでいるようにも見える、けれど魅入られずにはいらないものだ。 わたしは瞳を瞑り、この世界の誰もが等しく優しかったことを思い出した。ピアスの純粋さは嘘を容易く見抜いてくれたし、ボリスのおかげで扉は開いた。双子たちのおかげで雑踏にまぎれて消えてなくなることだけは免れたのだし、ナイトメアの我侭に苛立ち泣きたくなるような焦燥感を覚えたのだってちゃんと意味があったのだ。 帰さない、と言ってくれたエリオットのまなざしにはわたしの欲しかったすべてがあった。たぶん、拾ってくれたのがエリオットであったなら彼を盲目的に愛してしまっていただろう。ペーター染みた自分を思い浮かべて、は笑う。 「誰かを好きだと言うことは、きっと体力がいるだろうね」 「…………そうね」 体力を消費し、精神力を磨耗させ、それでも口にしたい言葉がある幸福を誰が止められるだろう。ブラッドはわたしを手に入れたいと言ってくれたけれど、一度だって愛情を口に出さなかった。触れるのではなく、彼はただ単純にわたしを所有したかったのだと思う。 彼さえも心のどこかで願っていたと言うわたしの存在は、だからこの世界のどこにだって行けた。誰を愛してもいいのだし、制限などどこにもない。 「わたしは自分で言ってみたい。例え拒絶されても、満足できるような思いを伝えてみたい」 好きだとか愛してるとか、簡単で明快な言葉がよかった。子どもだって言える台詞でよくて、それが簡素であればあるほど赤裸々に愛情は表されていくはずなのだ。 ふと、あの偏屈が思い浮かんだ。わたしの心を所有していたくせに、ちっとも嬉しそうではなかったあのヒキコモリはどうしているだろう。きっと会えると言ったら、根拠はなんだと否定してきた。あんなにもポジティブと無縁の人をわたしは知らない。 「…………?」 アリスが怪訝な顔で窺ってくる。わたしはそこでようやく、自分が笑っているのがわかった。こみ上げる思い出は楽しかったわけでもないのに、確かにユリウスと再会したあの場所での出来事はすべからくわたしを幸福にしているようだった。 なんでもないと答えると、アリスは不思議そうに相槌を打って続ける。 「…………あぁ、そうだ。に謝ろうと思ったことがあるの」 「アリスが、わたしに?」 「そう。…………あんまりだって、言ったでしょう」 低い、謝罪というよりは訂正の意味も込められていそうな声音だった。 それは、あんまりだわ。 ブラッドとの約束を破り、ナイトメアとアリスに出会った夢の中で言われた言葉だった。答えを見出せず、自分を手に入れてもいなかったわたしはいつだって愚かだった。 「ユリウスが教えてくれたことについて…………覚えてる?」 「うん」 ひとところに留まれば、この世界はお前を留めようとするだろう。 何度だってユリウスはわたしにそう言い聞かせた。彼の言葉に従って滞在先を渡り歩いたわたしは、だから捕らわれることなどないと安心しきっていた。 アリスは一瞬ためらってから、澄んだ瞳を向けてくれる。 「あんまりだって言ったのは、あなたが理解していなかったから。…………ユリウスはあなたを留めておきたかったのよ」 自室でまだ従順に謹慎を続けているはずのエースも、ユリウスがに言い聞かせているのを聞いていた。そしてなんて無謀で頼りない男だと思ったのだという。ひとところに留まって、そのままでいて欲しいと望んでいる「世界」はまさにユリウス本人のことだろう、と。 アリスも同感だった。でなければ、あの根暗にそんなことが言えるわけがない。他人に無関心を貫きとおしていたユリウスが感じたことだから、その言葉にはなによりも現実味があった。 ひとところに留まれば、誰もがお前を求めるだろう。なんて皮肉的な彼らしい牽制の仕方だろう。アリスはため息を吐いたあと、ユリウスがこの場にいれば語彙の続く限り罵倒してやるのに、と思う。 はアーモンド形の瞳をまん丸にさせて、アリスを見つめる。その間、アリスはが子どものように無垢になったのがわかった。手渡された感情の類いに戸惑う子どものように、たどたどしく初々しい。は視線をアリスからはずし、バラ園をぼうっとしながら眺めた。それから零すようには言う。 「…………それはきっと、アリスがきちんと誰かを愛したからわかるんだね」 誰かを愛することを、理解したからわかるんだね。 は尚も冷静と言うにはふわふわとした表情で続けた。がユリウスを心の中核に据えていることは知っていたけれど、それ以上でないこともわかっていた。彼女は欲しがることばかりをしてきたから、その感情がどんなものであるかを知らないのだ。 は一度目を閉じて、深く呼吸をしてからゆっくりと開ける。 「次に会えたら、わかるかな」 どうしても抗えない感情を、幸福に押しつぶされてしまいそうなあの波をが感じてくれたらいい。アリスはそう考える。逃げられるものでも誤魔化しのきくものでもないのだ。 自分をすっぽりと覆って尚、隅々まで流れ来る乱暴な愛情を言葉で表すのはとても困難だけれど、それと同じくらい幸福であることもまた変わりはない。 アリスは慰めるように微笑む。もしくは、励ますように。 「大丈夫。わかるわ」 「そうかな。その前に別の誰かを愛するかもしれないでしょう?」 「そうだとしたら、遠慮なんかいらないわ」 「…………勝手すぎない?」 「恋は身勝手だって相場が決まってると思うけれど」 自分らしくもない感情論にアリスは言ってしまってから罰が悪いような顔をした。これは恋に酔う女の戯言ではないだろうか。はアリスが自分自身に舌打ちをしたのを面白そうに見やって頷いた。 「わたし達は、本当に似ているようで似てないね」 「…………そうね」 ふたりで頷きあってから、同じ調子で笑いあう。しばらく忍び笑いのようにひっそりとした笑い声をあげた二人は、きっと同じくらい幸せなくせに後悔している。世界の矛盾にあわせるように、自分たちの内側にもこらえ切れないほどの矛盾を抱える彼女たちは、けれど根を上げるようなことを言うつもりはない。慰められる類の苦悩ではないことくらい、誰よりも知っていた。 アリスが先に笑うのをやめて、これからどうするのかとに問う。は微笑んだまま、クローバーの塔に住み込みで働かせてもらうことにしたと報告した。 「ナイトメアのところに?」 「そう。だって、セオリーらしいから」 いつか、癇癪と共に吐き出された優しい我侭を思い出してはまた笑う。 だいたい時計搭から弾かれたのだから、クローバーの搭にいるのがセオリーじゃないのか? 誰かに望まれる心地よさをナイトメアはわかっているのかもしれない。一番甘い権力者であるところの彼は、だからの申し出を断りはしなかった。はじめに驚き、次には子どものように微笑んで両腕を広げてくれる。そんな彼を見ながら、しばらくは病院に付き添うから、と笑顔で付け足したあとには苦い表情をしていたナイトメアは可愛らしかった。グレイは相変わらず落ち着いていたけれど、やっぱりどこか淋しげだった。わたしには読心術がないのでわからないけれど、グレイはこの世界の住人にしては自分の望みを口にすることが少ない。仕事のし過ぎなのかもしれない、とため息をつきながら考える。 「本当に、この世界は狂ってる」 同じように二人でお茶会をしているときに、アリスが言った言葉をそのまま反芻する。アリスも心得たようにしみじみと頷いてくれた。 「えぇ。狂ってるわ」 「でも、戻らないわたし達も充分に狂ってるんだろうね」 「そうね。…………程度の差はあるだろうけど」 彼女の思い浮かべた人物は、きっとアリスを溺愛する白兎だろう。確かに程度の差は否めない。彼ほど純粋に狂ってる相手も珍しい。 ここで生きていこう。たとえ家族がいなくても、これから家族になってくれる相手は現れるかもしれない。誰もが自分たちを無意味だと決め付けるような世界でも、わたしにとっては彼らのひとりひとりが大切であることを曲げなければいけない理由になどならないのだ。余所者であるのなら尚更、この世界のルールに無関心であり従順にならなければいけない。その矛盾がわたし自身を救うのだと、もう随分実感した。 お茶を飲んだら、ボリスたちと出かけることになっている。彼との約束を果たすためだった。ありがとうもごめんなさいも、すっかり言い終えたあとで彼は笑って手を伸ばしてくれる。じゃあ、行こう。ピアスも双子も連れていくと承諾してくれた彼は、きっと最高に気持ちのいい昼寝場所を用意してくれていることだろう。温かなファーに包まったわたしはもう一度この世界で目覚めることをちゃんと自覚して眠るのだ。 選択肢に正しいものも間違ってるものも存在しなかった。ただ、わたしは自分の望みを叶えたかったのだ。その先にある絶望も幸福も受け止める覚悟をしたわたしは、だからここできちんと笑って生きられる。 胸の奥でひっそりと淋しさが軋んだけれど、歯車のせいだと無視をした。 |
ねえ、
いつか永遠を手に入れに行こうか
(09.10.17)