「あのね、最近変なの」
その女は突然ラボにやってきたと思ったら、来た時と同じ唐突さでそう言った。オレは背後で呟かれる声に耳をそばだたせる。
「あのね、最近変なの」
オレが聞いていないとでも思ったのか、
がもう一度呟く。声はしっかりとしていて、その内容とは裏腹にどこも可笑しくなどなかった。彼女は続ける。
「変なの。頭がぼーっとするし、考えがまとまらないし、空を見ることがね、多いの」
目を少しだけ上に向けて、
は言った。オレは相変わらず彼女に背を向けていたが、右隅に置かれたモニターで彼女の仕草や動作はわかる。確かに彼女はどこか上の空で、熱を帯びたように潤んだ瞳をしていた。
「でもね、風邪とかじゃないんだよ。かえって心はすっきりしてるし、気分が悪いことはないし。ただね、考えることが決まっているの。…………ねぇ、クルル。世界はとても綺麗なのよ」
瞳を閉じる。長い睫毛が縁取るのは、綺麗なまぶただ。
「空の青さも太陽の眩しさも、空気がどんなに澄んでいて、目に見える全てがどれだけ美しいか。生まれてきて今まで、どれだけの優しさに助けられてきたか。全部をぐるぐる考えて、とてもとても感謝するの。頭は相変わらずぼーっとしているんだけどね。それを考えると、なんだか優しい気持ちになれるの」
瞳をあけて、
はうっすらと微笑んだ。その頬に紅がさす。
「ずっと考えてた。どうしてだろうって」
画面の中で、
が動く。ちょうどモニターに写らない死角に移動されてしまったから、オレは仕方なく椅子を回転させた。振り返れば、
は満足そうに笑っている。オレはつられて笑った。
「答えは出たのか?」 「うん。出たよ。でも、クルルは笑うかも」 「さぁねぇ。言ってみろよ」
それを言いにきたんだろ。 繋げる言葉を理解しているように、
はもう一歩オレに近づいた。ラボの中は薄暗く、ついている明かりと言えば画面の薄明かりだけだ。
は影の中をゆっくりと渡りながら、上手く機材をよけてオレの前に立つ。
「わたしね、クルルが好き」 「へぇ」 「可笑しいかな。変かな。…………でもね、それも全部、あなたにせいだからね」
照れるように笑った
が、あまりにも甘ったるい表情をするからオレは意地の悪い言葉が一瞬浮かばなくなる。空の青さも太陽の眩しさも、もちろんどれだけ空気が澄んでいるかなんてことも、オレは知らない。
の見えている世界とオレの住んでいる世界は少しずつ違うベクトルで出来ているから、結局感じることが出来るものも限られてくる。それでも、同じ思いに付けられる名前は一緒なのだから、笑える。
「いいぜぇ。オレ様が特別に責任とってやる。だが覚悟しな。お前は、もう日常には戻れねぇ」
幸せな、何も知らないまま過ごせる日常を全て捨てでもオレと一緒に来てくれるというのなら、それこそオレは全てを投げ出して連れ去ってやるよ。
(07.01.19) 初心に戻って初恋なぞを。曹長は気付くまで待ってはくれないだろうけど。(ヘタレ曹長も好き)
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