海に投げ込まれる夢を見ていた。テレビのマジシャンが使うあの黒くて大きな箱に閉じ込められて鎖でじゃらじゃらと固められ、腕と足には鉄球を付けられ、口には猿ぐつわという、可愛らしい夢とは間違ってもいえない困難な状況。息苦しい。誰の声も聞こえない。
自分の体がぶくぶくと沈んでいくのがわかった。沈んでいる途中は静かで地上とは違った沈黙に守られている。耳の奥で、聞こえるアレは潮騒だろうか。海の中であるはずなのに、かすかなざわめきにも似た囁きと沈黙がわたしを満たしていた。
あぁ、それにしても息がしにくい。
そう思ったところで目が覚めた。
目が覚めたわたしは、黒い箱に入っては居なかった。もちろん海に投げ込まれてもいなければ猿ぐつわもされていなかったけれど、ソファの上に寝かされているわたしは身動きができない。
「よう。お目覚めかい、」
まばたきをして、思考が止まる。その間にゆらりと視界に現れたのはクルルだった。背筋を緩く曲げて、彼はわたしの寝かされているというよりは転がされているソファに近づく。わたしは起き上がろうとして、腕が自由にならないことを知った。なんとか首を曲げれば、後ろ手で縛られているのが見える。
「寝心地はどうだ?」
「クルル」
名前を呼んだ声は、知らないうちに恐怖を表していた。ぎち、と縛られた腕のロープが音を立てる。腕を諦めて足を動かすと、まるで人魚のしっぽのようにくっついてしまっていた。鉄球はつけられていなかったが、同じく白いロープで結ばれた足は膝を曲げることがせいぜいだ。わたしがそれら全てを確認し終えると、クルルは面白そうに笑った。
「自分の状況ってやつがわかったかい?」
「…………クルルがやったの?」
「オレ以外の誰が、こんなトチ狂ったことすんだよ」
呆れているというよりは誇らしげにクルルは笑う。ようやく意識がはっきりしてきたわたしは、視界に広がる奇妙な機械の空間を見渡した。雑多に積まれた組み立てられる前の部品、投げ出された工具、そして彼の背後にそびえるようにあるのは巨大画面だ。ここは間違いなくクルルズラボだった。何度かここの主を訪ねてきたことがあるからわかる。けれど、どうしてわたしはそんな場所に寝かされているんだろう。しかもやったのは、彼だ。
「…………どうして、こんなことしたの?何かの実験?」
「そう怯えるなよ。あんたで実験することなんかねぇし、いじめる気もねぇ。ただ、どんな反応するか見てみたかったんだ」
ロープで縛られた両手足を眺め、クルルは満足そうに笑う。寝かされたわたしから、彼はひどく歪んで見えた。何かがおかしい。彼はそんなことをする人ではない。頭の中でもう一人のわたしがこの事実を否定する。
「…………だが、そうだなぁ。いじめてみるのも悪くねぇか」
そんな期待を完璧に塗りつぶすように、クルルは言う。わたしはゆっくりと彼に視線を合わせ、「え?」とはっきりと口に出した。もう一度言って。聞こえなかった。いいえ、言い直して。否定して。わたしはそんな言葉信じたくない。
「クルル?」
「この部屋にはなぁんでもあるからなぁ。それこそお前の知らない世界のもろもろや、現実の裏側ってやつが垣間見られるぜぇ?」
「ねぇ、クルル」
「初めてなら好都合だ。いろいろ教えてやるよ。オレは地球人以上にコッチに関しちゃ詳しいからなぁ。クーックックックッ」
「クルル」
わたしが何度呼びかけても彼は話をやめようとしなかった。まるで流れるように吐き出される言葉は、暗く湿り気を帯びていて気持ちが悪くなる。彼は何を言いたいのだろうか。何がしたいのだろうか。その本心がわからずに、けれどわたしは彼を見上げることしかできない。腕と足のロープが、またギチ、と窮屈な音をたてた。
「逃げてぇか?」
その音がわたしの逃走本能だとでも思ったのだろうか。彼が唐突に笑みを消して尋ねた。口元に添えられた手が、力なくぶらりと体の両脇に垂れる。
「逃げて、元の生活に戻りてぇよなぁ。こんなわけのわからねぇ場所に監禁されて異星人に遊ばれるなんて、あんたにとっちゃ悪夢だろうよ」
「…………」
「だがなぁ、オレはどうすればいい?アンタを見るたびに苛々するんだ。笑うたびに楽しそうにするたびに、他のやつらと一緒にいるのを見かけるたびに、頭の螺子が飛びやがる」
しんと静まりかえったラボには、細かな機械音だけが響いている。海の中の静けさに似ていた。小さな音の集合体がそれ自体で満たされてる部屋は、その音が全てになって無音と成り代わる。
わたしはクルルの言葉をゆっくりと飲み込んだ。冷え冷えとした頭の中にはまだ混乱する心が居座り続けていたけれど、そんなものもうどうでもいい。ただ、彼が必死でつむぐ声だけは聞き漏らさずに聞こうと思った。
「。知ってるかい。アンタの部屋には合計23個のカメラとマイクが仕込んであるんだ。上から下から、視界に入らないように動き回るタイプのやつは24時間アンタの動向をオレに知らせてくれる。何時に起きて、どっちの足で靴を履いて、誰と話して、どんなものを食ってるのか。…………例えば昨日のそれら全部を、そらで言って聞かせてやろうか。たぶんあんたは嫌悪なんか通り越して、オレに賞賛の一言でも浴びせたくなるぜェ」
彼の声は、無音の部屋で恐ろしく無機質にわたしに届く。嫌悪や賞賛、そんな言葉を使いながら彼はどこも感情的ではなかった。あまりにも無表情な眼鏡の奥で、彼は何を思っているのだろう。
「アンタを奪えば済むことだと、考えた時期も確かにあったな。そうやって縛り上げてオレ専用にしたてあげ、ずっと隠して誰の目にも触れさせない。なぁ、それってパラダイスだと思わねぇか?あんたはオレしか必要としなくなる。求めるのはオレ一人で充分だ。誰もその視界に入れるな、喋るな、笑顔を向けるな。…………オレだけを、見てろよ」
彼らしくない、あまりにもシンプルな言葉の羅列がわたしを包み込む。苦しそうに吐き出された言葉は確かに彼の中でいつまでも自分を蝕む病魔として君臨し続けてきたのだろう。わたしは息が苦しくなるのを感じた。彼から放たれた病魔がわたしにも襲い掛かってきたのかもしれない。
「クルル」
彼は下を向いたまま、わたしの声に答えようとしなかった。身動きの取れないわたしと、それを見守るあなたと、機械の微弱な心臓音。周りの彼らのほうがよほど生き物らしい活動をしている。わたしは動かなくなった彼に、どんな言葉をかけようか迷った。実際どんな言葉を言えばいいのかわからない。彼は苦しい。彼を解放するためにはどうしたらいいんだろう。彼の言うように彼のためだけに生きれば満足するだろうか。一生傍にいれば、彼の悩みは解消されるのだろうか。それは違うと、答えなど知らないはずなのに無意識に思った。
「クルル。これ、はずして」
「…………」
「わたしはどこにも行かないし、あなたの思っているようにもならないよ。だから、はずして」
俯いていた顔が、やっとこちらを向いた。わたしはぼんやりと浮かんだ答えを、それでも彼に伝えたくて言葉にする。
「わたしは、わたしはまだわからない。クルルが好きか。クルルがわたしを思ってくれるように、わたしもクルルを好きになることが出来るのか。わからないの」
「…………ハッ。意識もしてなかったってか」
「うん。ごめん。だって、わたしには悲しい結末しか予想できないから」
両足と、両腕を縛られている今よりも残酷な未来しか思い描けない。だから、わたしは彼らを愛してしまうことだけはしないようにと、どこかで決めていた。
傷つくことを恐れない恋愛が、賢いやり方だとは思えなかった。
「でも、クルルが言ってくれたから。考えるよ」
誰でもないあなたが、わたしのために出した答えを蔑ろになんてしない。当事者であるあなたのほうが、わたしよりも何倍も怖かったに違いない。
あなたは傷つくことも、わたしに拒否されることも、すべて厭わず思いを告げてくれた。
「わたしと、クルルの未来が、重なっていけるか」
「……………こんなことされても、かよ」
そっと、きつく縛られた腕に彼の小さな手が添えられる。
「うん。クルルのやり方だもの。受け入れられなきゃ、ずっと一緒なんて無理だよ」
たとえばカメラの存在や、縛って連れてくる強引さ、それとへそ曲がりな言動さえも、愛しく思わなければ、共有する未来などない。
「あー…………でも、カメラはなくしてほしいかも」
部屋の中でさえくつろげないのはいただけないと困った笑いを浮かべる。クルルは、少しだけ緊張を解いて、いつものように笑った。
「イヤだね。受け入れてくれるんだろ?」
「検討次第。でも無くしてくれたら好感度アップだよ?」
「…………チッ。…………部屋のだけだからな」
彼なりの譲歩が告げられて、わたしは少しだけ安堵した。嬉しいけれど、複雑な気分だ。
もうわたしのものは、わたしだけのものではないらしい。
手に添えられていたクルルの手がわたしの額を撫でる。ひんやりとした指先の感触。ついで、顔が近づき可愛らしいリップ音を響かせた。
「早く、オレのもんになれよ」
あまりにも可愛らしい仕草に真っ赤になる。隠すことも出来ずにソファに横たわりながら、これからの生活に訪れる変化を思った。たぶん、素敵な日常と紙一重の状況が待ち受けているに違いない。
(09.10.09)
短編に収録されている「願望充足型の悪夢」と似てますね。何を隠そう、どっち出すか迷ったものです。
でも結局もったいないので出してみた。こっちのヒロインはガチで拉致られる。
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