どうしたものか、とわたしは頭を抱えていた。
ある人を怒らせてしまった。それも、普段あまり本気で怒ることがないような人を。


「どうした?」


低い声がして、わたしが視線をやればそこには赤いカエルが立っていた。
赤い体に黒いベルト、名前の後に伍長という階級を持つ彼が何の変哲もない地球のリビングにいる。
頑固と言う言葉が似合う、二つ名に悪魔なんて物騒なものを持つ(多分)男性。


「あのね、ある人を怒らせてしまって」
「お前がか?」
「うん」


珍しいな、と彼が笑って隣に座った。
その体がぽんと軽く浮く様はなんとも手馴れていて感心する。
何もかもが彼らケロン人の規格外に大きな地球で、不慣れながらも馴染んでいる証だろうか。


「で、誰を怒らせたんだ?」
「んー」
「なんだ。相談くらい乗るぞ」


赤い彼は、他のケロン人より数倍優しく親切で、わたしが会ったどんな地球人よりも義理堅かった。
わたしは少しだけ考えて、うん、と頷いた。


「クルルをね、怒らせたの」
「クルルを?」
「そう。わたしが、我侭なお願いをしたから」


目を伏せて、わたしは少しだけ困ったように笑った。
クルルを怒らせてしまったことは、まだはっきりと覚えている。
まさか、あんなふうに怒られるなんて思ってもみなかった。


「“ふざけるんじゃねぇ”って怒鳴られちゃった」
「…………あのクルルがか?」
「うん。わたしもビックリ。モアちゃんもビックリしてて…………可哀想なことしたかな」


彼女はわたしたちの会話など聞いていなかったのだからさぞ驚いたことだろう。
クルルは周囲に人がいるのも気にせずに、そう叫んで立ちあがった。
『馬鹿だ馬鹿だとは思っちゃいたが…………そこまでだとは思わなかったぜぇ』
捨て台詞には少しばかり長いそれ。
置いていかれたわたしは悩みにくれる。


「…………何を言ったんだ?」
「クルルに?」
「そうだ。アイツが怒るのは珍しい。わけがあるんだろう」


彼の瞳をまっすぐに見れば、クルルが評するに馬鹿なわたしが写ってた。
彼に激怒された理由をギロロに告げようか。いいや、それは彼の二の舞だろう。
わたしは頭を振った。


「ううん。言わない。ギロロも怒るよ」
「俺が?」
「うん。ギロロはきっと、クルルよりも怒るよ」


クルルが怒った理由がわからないわけではない。
自分だって馬鹿なことを言ったものだと思ったのだ。
それでも渇望し、願い、どんなものに縋っても欲しいものだったから、口にした。
クルルなら、わかってくれると思ったのだけど。


「怒らん」
「ギロロ?」
「俺は怒らん。だから、言ってみろ」


神妙な顔をして、彼は居ずまいを正してわたしを見た。
体全部をわたしに向ける彼は、たったそれだけの存在であるというのにとても力強かった。
手も体も、わたしの両腕に納まってしまうくらい小さいのに。


「…………欲しいって、言ったの」


わたしの悩みを預けるのに、彼は誠実すぎるとわかっているのに。
気がつけば口を開いていた。
彼に全部を預けてしまえば悩みからは解放されるのかもしれないけれど、あんまりにも不憫だ。


「何をだ?」


こちらが喋りたくない一心で葛藤しているというのに、ギロロは優しく促した。
そうされれば抗えない自分がいるのも知っていた。
わたしはそっと、ギロロの頬に手を伸ばす。
彼はそれを遮るでもなく、頬に触れるわたしを見つめ続ける。


「傷」


すぅ、と彼の左目に走る傷を撫でる。
そうすれば、彼の顔色が変わった。


「ギロロと同じ傷が欲しかったの。ナイフでも包丁でもカッターでもよかった。けど、それじゃただの“傷”だから。クルルに頼んで本物にしてもらおうと思ったの」



本物の、傷に。
彼と同じ、感触と縫い目と長さを享受したかった。
この左目に、彼と一緒に存在した証を植えつけてしまいたかった。
それが馬鹿なことだなんて、最初からわかってたよ。
ギロロは息を飲むように目を開き、それから思案するように表情を曇らせた。
きっと先ほどの約束がなければ、わたしは思い切り叱られていたことだろう。
彼は、本当に誠実すぎる。


「怒っていいよ」

「怒鳴って叱って、殴ってくれても構わないよ。もし傷をつけてもらえたなら、もうギロロの前には現れないって決めてたから。ギロロには叱る権利が、あるよ」


傷をもらえたなら、わたしはそれを後生大事に眺めて幸せに暮らす予定だった。
鏡を見れば、窓を覗けば、そこに貴方がいると思えば楽しいと本気で感じた。
そんなものは妄想や悲しい偽りだとわかっていたけれど。
だって、この手に入らないものを手に入れようともがけばもがくほど、貴方は遠いから。


「…………
「はい」


赤い彼は、わたしをまっすぐに見ていた。
先ほどと変わらない瞳の深さに、わたしは驚く。
彼の右手が伸びてわたしの左頬を優しく包んだ。


「叱りはせん。だが、もったないからやめろ」
「…………え?」
「こんなにきれいな顔なんだ。傷などつけるな」


真顔で本心から、彼はそう言った。
頬に当てられた小さな手から、自分と同じ体温が伝わる。
彼は常日頃は鈍いのに、こんなときに限ってどうにも優しいことを言う。
わたしが全部をさらけ出しても受け止めてもらえるんじゃないだろうかと思うほど、優しく甘く、大きな手を広げてくれる。



「だが、本当に傷が欲しくなったら俺に言え。そのときは、俺の手でつけてやる」



左頬、わたしと同じように軌跡をなぞり、彼はわたしに笑った。

 

 

 

 

 


(06.12.03)このお題はこれしかないと思った。というか、絶対これ系は必須だろう。