「ねぇ、明日から来なくてもいいヨ」
ある夜のことだった。わたしはいつものように夕飯を作るためにスーパーで買出しをし終え、キャベツを買ってしまったために重くなった袋を抱えて彼の部屋に来ていた。そうして彼が帰ってくる前に夕飯の支度を終えて、時間が余ってしまって手持ち無沙汰だったので少しだけ、几帳面な彼に怒られないくらいの掃除をして、時計をちらちらと五分おきに眺めて過ごしていた。それから30分後、帰ってきた彼とわたしお手製のロールキャベツを食べているときに、言われたのがさっきの言葉だ。わたしは口に運ぼうとしたロールキャベツを静止させたまま「え?」と聞いた。実際聞き取りづらかったし、頭の方の理解が進まなかった。


「だから、明日から来なくていいって言ったんだヨ」


物の覚えの悪い子どもに教えて聞かせるように、彼はゆっくりとロールキャベツを咀嚼しながら言った。彼のためにたっぷりケチャップをかけたお皿に目を落として、わたしはなんとか頭を働かせる。


「えぇと、お仕事が忙しくなるの?」
「そんなこと、お前に関係ないネ」
「好きな人でも、出来たの?」
「それこそ、関係ないネ」


わたしの問いに答える彼はいつも以上に意地悪で言葉が少ない。優しい態度を取ってほしかったわけでもないけれど、ちゃんとした理由が欲しかった。
わたしと彼が一緒にいた時間は短かったわけではない。押しかけるようにして彼のもとに来るようになり、強引に食事を作っていた。けれど嫌がるそぶりを見せながらも本気で追い返そうとしなかったのは彼だった。それで図にのったわたしはこうしていられることを至福だと感じ、それがずっと続くものだと勘違いした。その勘違いに気付いたのはたった今だというのが間抜けな話だと、やっと正常に働きだした頭の中でもう一人のわたしが告げた。


「そっか」


わたしの声は、無音のわたしたちの間によく響いた。彼は黙々と食事を続けていたから、何かしらの音はあったのかもしれないのに、わたしの世界は無音だった。そうか。これが最後か。なんだかあっけない。
つけたままだったエプロンをほどいて綺麗に畳むと、隣に置いて、視線をあげてくれない彼にわたしはきちんと背筋を伸ばした。


「ごめんね、トロロ。それから、ありがとうございました」


深々と頭を下げ、そのまま今度はわたしが彼を見ずに部屋を出て行った。ガチャン、とあまりにも空虚な音で扉がしまり、わたしは何度も電柱にぶつかりながら家路に着いた。

 

 





『もう一回話をするべきだわ』


彼の同僚で、わたしの友人であるプルルがそう言った。電話口で話す彼女は、任務が終わった直後らしく少し疲れている声をしている。わたしはそんな彼女に申し訳なさを感じつつも、ことの次第を伝え、自分のことを話した。


「大丈夫よ。あれから一ヶ月だけれど、最初のころみたいに泣いたりしていないし、二人分の食事も作らなくなったの」


彼を経由して知り合った彼女には報告しなければならないことだった。しかし一ヶ月も先延ばしにいてしまったのは、やっぱり自分の中で納得できない部分あったことと、もしかしたらトロロがやり直そうと言ってくれるかもしれないと言う妄想に取り付かれていたからだ。実際はそんなことは起こらず、わたしはぼうとしている日々が多くなり、そのたびに二人分の食事を作って自分自身を打ちのめしていた。
プルルの話からすれば、わたしに決別を告げたあの日から一ヶ月、彼は任務についていたということだった。わたしはその言葉に微かな期待を寄せるよりも、一ヶ月の間に無理やり作った合鍵を返しに行かなくてよかったと安堵した。これを返すときくらいは、ちゃんと、面と向かって話がしたいと思っていた。


『ねぇ、 。新しい恋をした方がいいわ』
「プルル。今すぐには無理だよ」
『わかってる。でも、時間が経って、気持ちに整理がついたら、あなたは新しい恋をすべきよ』


プルルは、それが当然のことであるように断言した。わたしはそれが可笑しくて笑いながら、「なぜ?」と問い返す。彼女は女性ながらに軍人を勤めるだけあって、女らしさの中にさっぱりとした決断の潔さを持っている。
『あなたが新しい恋でもしない限り、きっと終わらないから』
無限のループよ。と、彼女はまるで先の見える占い師のようにきっぱりと言い切った。
わたしは受話器を持ちながら、笑い声を潜めて「なにそれ」と元気に聞こえるような声を出した。意識して声を出さなければ、うっかり泣いてしまうかもしれないと思った。彼女の声はわたしに優しすぎて、一ヶ月の間に考えたことや思ったことを全て忘れさせてくれた。どんな悲観的な思いも、変えてくれる力が彼女にはある。看護兵ってすごい。
そんなときだ。ドアチャイムが鳴った。
わたしはプルルにちょっと待っていて、と言うと、玄関に行き穴を覗いた。新聞勧誘だったらすぐに追い返すつもりだったし、突然来訪するような友人はいなかった。だから、玄関先にトロロが立っているのを見たときは驚いた。けれども驚いたのに急いでドアを開けたのは、わたしにとってそれだけ彼が忘れられなかったからとか、待ちかねたな存在だからとか、やっぱりそんな感じの理由だったに違いない。


「…………いるんじゃん」


トロロは、突然勢いよく開いたドアに面食らいつつ、そう呟いた。


「いる、わよ。わたしの部屋だもの」
「ふぅん」


彼はそういうと、裸足のままのわたしを見て、上がれば?とまるで自分の家に招くような動作で中に入った。


「あんまり変わらない部屋だネ」


居間の座布団に腰を下ろし、トロロは呆然とするわたしなどお構いなしに部屋を見渡した。わたしは彼がやってきたことと、その意図を測りかねて足の裏の地面が一気に崩れるような気分だった。


「変わって欲しかった?」


例えば、彼と一緒に遊園地に行ったときに買ったミニチュアのメリーゴーランドとかゲーセンに行ったとき天才的な技で取ってくれたぬいぐるみとか、そんなものを後生大事にとって置くなんて馬鹿らしいと彼は思っているのだろうか。
トロロは薄く笑って、「別に」と言った。その薄さがわたしの癇に障った。部屋に入られ、侮辱され、その上感心を向けてもらえなくて悶々としたものがようやく沸点を迎えたのだ。
わたしは棚の中から合鍵を取り出し、彼の前に乱暴に座ると、ずいと目の前に差し出した。


「返す」
「…………」
「もう必要ないから、返す」


二度、言った。トロロは合鍵とわたしを交互に見比べて、目の前に差し出された鍵を受け取った。鉄の感触がわたしから離れていく間に、わたしは少しだけ後悔をした。こんなふうに渡すわけじゃなかったとか、やっぱり泣きそうだとか。それなのにトロロは別段悲しむふうでも、傷つけられたという顔もしないで、受け取った鍵をしばらく眺めていた。まるで使い方のわからないおもちゃを与えられた子どものようだった。しかし、すぐにそれは撤回される。


「これ、ここの鍵だよネ?」


合鍵を手の中で転がしながら聞いたのは、テーブルの上にあったわたしの部屋の鍵だった。そんなところに放り出していたことさえ忘れていたわたしは「えぇ」と生返事を返した。それがどうしたと言うのだ。こんな場面で、そんなこと関係ない。
しかし彼はそちらに興味を奪われたようで、テーブルの上の鍵に手を伸ばしそれを持ち上げ、合鍵と一緒にちゃり、と音をたてて合わせた。高い音が物悲しい。泣きそうになって、返して、と声をあげようとすると彼がいきなり立ち上がった。思い切り振りかぶり、腕を精一杯伸ばして、彼は握った二つの鍵を開いていた窓から投げ捨てた。


「は?」


何が起きているかわからなくなったわたしは数秒窓を凝視していた。きらきらと弧を描いた鍵たちはちゃりん!と音を立てて道路に落ちたことを知らせる。それでもわたしは何が起きたかわからなかった。


「あんなもん、もう必要ないヨ」


見上げれば、涼しい顔をしてトロロが満足そうに立っていた。わたしは投げ捨てられた鍵も彼の行動もまったく繋がるものがなくて、焦る。トロロはそんなわたしの前にもう一度座って、その手に一枚のカードを握らせた。ほんのり温かいカードは今までトロロが握りしめていたことを教えてくれる。光沢のある番号が入ったカードは、普通のものより重かった。


「それ、新しい部屋だから。今日からそっちに住むんだヨ」


今度こそ、わたしは息ができなくなるくらい驚いた。


「なにそれ」
「は?だから言ってんジャン。ここは引き払って、ボクと住むの」
「なによ、それ。もう来るなって言ったじゃない!」


彼の前で声を荒げたのは、初めてかもしれなかった。けれどここで流されてしまっては、一生都合のいい女になりかねない。トロロは驚いたように目を丸くさせたあと、罰が悪そうに視線を下にやった。


が…………やだって言わないからだロ」
「え?」
「嫌だって言うと思ったんだヨ!!それで冗談だって言って、一緒に住もうって言うはずだったんだ!」


今度は彼が大声で主張する番だった。
わたしは全身から力が抜けていくのがわかった。なんだ。そんなことで。わたしは一ヶ月も悩まされていたと言うの。単に、追ってほしかったなんて。そんな子どもみたいなことを望まれていたなんて。彼が子どもだということを失念していたにしては大きすぎる勘違いだった。
トロロは真っ赤になって無言で窓を見て、わたしは見るものもなくて天井を見上げた。二人とも喋らない空間、自分の部屋だと言うのに居心地が悪い。
そのとき微かな話し声がして、わたしはようやくプルルとの電話がそのままだったことを思い出した。居心地の悪さから逃れるように受話器にかけより、急いで耳にあてる。「もしもし」と言えば、律儀に待っていたプルルが「終わったようね」と全部を見透かした声で告げた。わたしは背後のトロロを見ながら、こちらを不安げに見る彼のことなどお構いなしに、「うん、大体は」と答えた。


『それで、どうするの?まぁ、決まってるんでしょうけど』


彼女はやっぱり占い師のように、わたしの未来を当ててみせた。わたしはそうね、と言いながら、落ち着いた心で考えて答えを出した。


「もう一回頑張ってみる」


それは口に出して見ればあまりにも短くて、あまりにも重い言葉だった。トロロが目を見開いてこちらを見ている。わたしの耳の傍で、プルルはため息をついたあとに付け加えた。


『ほらね、やっぱり終わらないじゃない』


無限のループ続行ね。頷くわたしの表情は明るい。





 

 

 


(06.12.10)トロロは常に追ってもらわないと安心できない。
       だから意地悪もいっぱい言うし言っている間すごく不安だけど試さずにはいられない。
       幼いゆえの屈折かげん。彼を選ぶ場合、言葉の裏を読む能力が必要です。
        彼らの独占欲〜トロロ編〜