自分の携帯電話を前にして、わたしは神妙な面持ちでそれを見ていた。
別にその携帯電話は特別なものではない。色は無難なものにしているし、形だって普通の四角だ。重さも軽量型とは言えないが、その存在を忘れないくらいのほどほどのもの。他の女の子のように装飾することも好きではなかったから、テーブルの上にきちんと置かれたケータイはとてもシンプルだった。わたしはそのケータイを前にして、マジマジと見たあと、わざわざ置時計と掛け時計で時間を確認する。そこにケータイがあるのだから開いて確かめればいいのだが、少し怖かった。たぶん開ければ落胆するだろうから、それをしないための自己保身のようなものだ。



時刻は10時59分。あと、1分。



昨日の夜、彼からメールが来たのは本当に驚いた。正確に言えば、彼の同僚でメンテナンスを頼んでいるというトロロ新兵から送りつけられたものだが、それはとても彼らしい文面だった。たぶん、言ったことをそのまま文章にしてもらったのだろう。今時絵文字も使わずに、まるで作文のような文体には正直笑ってしまった。


『明日、11時に電話をするから出られるようにしておけ』


読んだ後、わたしは彼のイントネーションや仕草を丁寧に思い出した。そして頭の中で、記憶の中の彼が先ほどの言葉を彼の声で発音する。わたしはそのことに少々安堵して、イエスの返事をした。長い遠征や任務が続いてもはや会わないことが常態化してしまっているのに、彼のことをちゃんと覚えている自分を褒めてあげたい。機械に包まれた左半身、口元を覆った布の感触、瞳の暗さ、その声の裏に隠された弱々しい優しさ。あげていけばキリがない。覚えているというよりはその情報は体の一部になりつつあるのだ。会わない日々が続くたびに会っているときよりも相手のことを考えるのだから、それも仕方のないことかもしれなかった。

本当は、わざわざ電話を待つ必要はない。彼も専用のケータイを持っていたし、わたしのケータイもケロン星では最新型と言っていい。そのオーバーサイエンスはわたしたちの電波をいつでも繋げてくれるはずだった。けれどわたしは電話をかけない。仕事が終わって帰路に着くときも、夜中コンビニに行くときも、気を紛らわせるものがなくなってしまったときも、わたしはケータイを眺めるだけで、それを手に取り通話のボタンを押すことはしなかった。


ブルルッ!


テーブルの上の、ケータイが震えた。わたしは身構えていたはずなのに、びっくりしてそれを見る。マナーモードにしたケータイが、身を揺らして自己を主張している。思わず手にとって通話ボタンを押し、反射的に「もしもし」と言った。


『………… 、か?』
「…………わたしのケータイに、わたし以外の誰が出るっていうのよ」


相変わらずぶっきらぼうな彼の声に、わたしは安堵していつもどおりの声を出す。電話越しの彼の声は少し聞き取りづらかった。掠れる様な、声。


『…………ひサしぶり、だな』
「そうね。ゾルルがそう思っているとしたら、相当よ。今、どこなの?」
『船の中ダ。今、帰路についテいる』
「そか。お疲れ様」


帰路についているということは、すぐ帰ってくるのだろうか。それともこの電話は、また任務が入ったために会うことはできないのだというお断りの電話だろうか。いくつか自分の中に答えをあげてみる。そのどれもが彼らしく、また彼ならばそれも了承してしまうだろうというものばかりだった。
たとえ、ようやく付き合って二年目の記念日になるとしても、彼ならば忘れて任務について戦場を走るに決まっている。


。…………最近、変わっタことはないか?』
「変わったこと?うーん。田舎のお母さんみたいなこと聞くのね」
『いいかラ…………答えろ』


いささかむっとした声が返ってきた。わたしはつまらないことを考えていたことなど忘れて、笑顔になる。


「変わったことは、特にない…………と言いたいところだけれど、あるわ。部屋をちょこっとリフォームしたの。気分転換に配置も色々変えたわ。いらないものも全部捨てたし、すっきりした感じ。それに服も何着か買ったの。あ、そうだ。とっても綺麗な薄いピンクのワンピースを買ったから、今度どこか行くとき着るわね。レストランは私が決めるわ。たまにはそーゆーのもいいでしょう?」


話し出してみれば、言葉はとめどなく溢れてきた。変わったことはないか、なんて聞くものだから余計に溢れる言葉は押しとどめることができない。だって、本当に久しぶりなのだ。


『…………』
「ゾルル?どうしたの?」
『…………


彼の声が、少しだけ曇った。何事だろうか。やっぱり今度も任務が重なっているから会えないのか。それとももっと悪いことを知らせられるのだろうか。
電話を待ち望んでいたときよりも身構えて、わたしは緊張しながらカーテンを睨みつけた。


「なに?」
『…………怒っているか?』


躊躇いがちに呟かれた言葉は、予想も出来ないものだった。怒っているか?それはわたしがってことよね。わたしが、ゾルルに、怒っていることがある、ということ。首を傾げて、わたしは言葉を反芻する。わからない。


「…………それは、不満があるか、ということ?」
『あァ…………』
「なんだ。そういうこと」


それでようやく合点がいった。彼は彼なりに、長い不在を詫びてくれているのだ。怒るだなんていうものだから、怒られることでもしたのかと思った。(例えば浮気とか)


「不満は一杯あるよ。でも、いいの。お仕事だし。ゾルルが連絡をマメに取ろうとする人じゃないことも知ってるもの」
『…………すまナい』
「だから、怒ってないよ。でもたまにでいいから、電話して。わたしからは掛けられないでしょ。いつお仕事かわからないし」


半分は本当だった。もう半分は、一度かけたら止まらなくなる気がしたのだ。我慢のきかないわたしは、いつでもこの便利な通話機器を利用して彼の声を聞きたくなるに決まっている。そして繋がらなかったり、彼の声が聞けないとひどくがっかりするのだ。それは体にとても負荷のかかるストレスになると思われた。


『…………いイ。いつデも掛けてこい』
「え?」
『出られないとキは、折り返し掛ケなおす…………そういうモのだろう?』


そういうもの。
今日は驚くことばかりだった。普通ではない彼から、まるで普通の男性が言うような言葉ばかりが飛び出てくる。いつからこのケータイはビックリ箱になったのだろう。驚きと嬉しさで窒息死してしまいそうだ。


「…………わかった。電話、する。ちゃんと掛けなおしてね?」
『あァ…………』


優しい彼の声。この声が好きだ。誰もが無表情だという彼が、少しだけ筋肉を使って笑ってくれるときや、声音が柔らかくなるときが堪らなく好きだった。
わたしはケータイをぎゅっと握って、瞳をつむる。まぶたの裏にはケータイを握り、耳に近づける彼の姿。たぶんどれくらい力を込めて握っていいかわからずにいるに違いない。(彼は前に三つほど、握っただけで壊してしまっている)それから自分にあてがわれた部屋か、一人になれるところで話している。船と言っていたから、星が見えているかもしれない。


『…………


満点の星に包まれた彼が、遠く太陽の下にいるわたしを呼んだ。


「なに?」


その声を心地よく聞きながら、わたしは返事をする。


『さっきの話だガ、行きたい場所を決めておけ』
「ワンピースの話?」
『あァ。…………オレはそういっタことがわからん。だかラ、お前の好きなとこロへ連れていってやる…………』


よどみなく続いていた声がふと、止んだ。考えているような間が空いて、それからぽつりと彼が零した。


『待たせている時間の方が長かったが…………二年目、だろう?』


聞き返す言葉は、どこか叱られた子どもを思わせた。わたしはケータイを握ったまま目を見開き、落ち着くために息を吸って、それから目にいっぱい涙を溜めて頷いた。見えるはずなんてないのに、精一杯頷いた。多くは望まず彼の帰りだけを待っていたわたしは、やっぱりどこか欠けていて淋しさで心のどこかが麻痺し始めていたのだ。それがいっきに埋められて、嬉しいのに苦しかった。彼が言うように、わたしたちの二年間は総合すると一年にも満たないほど穴だらけだ。



「…うん」
『悪かった』
「……うん」
『…………ありがとう』
「…………うん」


小さな機械から聞こえる彼の声に頷きながら、わたしは静かに笑った。涙にまぎれてしまわないようにはっきりと、けれど彼には伝わらないように。笑顔は、会えたときまで取っておきたかった。
本当に、今日は驚くことばかりだ。








数日後、ばっちり準備を整えたわたしは、久しぶりに会う彼に、同じ太陽の下、とびっきりの笑顔でおかえりと言う。



 

 

 

 

 

 

 


(07.01.19) 兵長…………優しいなぁ。しかも前もこんなん書いたなぁ。
           どうしてこう、わたしはガルル小隊の兵長に夢を見すぎているんだろう。