いつのまにか溺れるように好きになった。
それは津波に呑みこまれるような、一瞬の災害から起きた出来事。
溺れてしまえば助かる方法なんてないのに。


「会いてぇな」


たった一言だった。彼が発したのはとても小さな言葉であって、確信が持てたわけではない。けれどわたしにはそうとしか取れなかった言葉だった。
会いたい。それは、彼がわたしに、ということ?
電話口、話していた会話の一連の流れさえも全て綺麗に忘れ去ってわたしは受話器の彼の声をもう一度聞こうとする。


「ク、ルル?」
「ん?」


彼は、もう一度なんて優しいことをしてくれる人じゃなかった。
聞き返しても答えてくれないに違いない。わたしはただ受話器を握りしめて、それからつとめて笑顔でおやすみを言った。そんな言葉がどうして自分の口から零れたのかはわからない。ただふと見上げた時計がもうすぐ日付が変わることを教えていたから、お似合いな気がしたのだ。


それなのに、わたしは数分後外にいた。
パジャマを急いで着替えて、マフラーと帽子をしっかりとかぶり、人通りのめっきり少なくなった路地を走っていた。何に向かってそんなに必死になるのかなんて聞かれてもわからない。おやすみを告げた彼が起きている保障なんてないのに、わたしは寒さに耐えて走り続けた。
たどり着いた先、日向家はやはりどの家とも同じく静寂に包まれていた。暗い家の中、閉じられた扉、すべて確認してからわたしは白い息を吐く。寒い。当たり前だ。時計をしてこなかったのは痛かった。ついでにケータイもお財布も、身につけている必需品は置いてきた。それほどまでに驚くほどの行動力でわたしはここにいる。


「なぁに、してんだよ」


しばらく屋根を眺めて、どうやって不法侵入してやろうかと考えていたところで声をかけられた。その声を辿れば、クルルが立っている。わたしは困ったように笑った。


「たった今、罪を犯すところだったよ」
「そりゃあ、残念だったな。もう少し登場が遅けりゃいいもんが見られた」
「ご期待に沿えずに申し訳ありませんね」


白い息と共に、べぇっと舌を出すと彼が楽しそうに笑った。
二人の声しかしない夜の帳の中は、寒いけれどとても居心地がいい。
わたしは膝をついて、ぎゅうとクルルを抱きしめた。小さな彼の背中は驚くほど冷たくて、それでいてちゃんとした体温を持っている。彼の冷たい指がわたしの首筋をなぞって同じように抱きしめる。息がかかってこそばゆい。言葉はなく、まるでお互いがお互いの体を欲しがっているような絵がしばらく続いた。それからゆっくりと、彼はわたしに聞く。


「いったい…………お前は何をしに来たんだよ」


わたしは自分の抱きしめる腕を弱めることをせずに、笑って答える。


「幸せを、お届けに?」
「ばぁか」
「あはは。酷いなぁ」


笑ったわたしの声と共に吐き出された息が、少しピンクに染まっていたのは気のせいだと思う。



攫われたわたしの心は、ひどく広い夜の海で漂いながらも幸せだった。



 

 

 

 

 

 

 


(06.02.10) たまにはほのぼのしてみるのも悪くない。