ふざけているのだと、そう思ったのだ。
「お前は、誰だ」
言われたのは、つい二時間ほど前のことだった。 ギロロはいつものように銃を磨いていて、わたしは隣で空を見上げていた。特別に会話をすることもなかったからそうしていたのだ。ぼんやりとしたヒトコマ。限りなく非日常に近い、穏やかな昼下がり。彼が立ち上がった。と、同時にコケた。彼らの体格からいって頭から地面と衝突したのは明らかで、わたしは苦笑にも似た笑い声を出す。
そうだ。笑ったのだ。大したことなどないだろうとタカをくくり、わたしは笑っていた。 けれど立ち上がった彼は信じられないほど鋭い瞳をわたしに向けた。そして、あの言葉を言った。
「え?」 「お前は誰だと聞いている。ついでに言えば、ここはどこだ」 「はぁ?」
彼の声は真剣そのものだった。けれどわたしは鬼気迫るものを何も把握できずに、目の前の落とし穴に自らハマってしまった。遊びだと思ったのだ。そんな遊びを彼がしないことを、知っていながら。
「わたしが誰かって?…………そうねぇ、愛する恋人、とかかな」
言ってから、わたしは面白そうに彼を見た。きっと怒り出すだろうと思った。真っ赤になって、なんだそれはと怒鳴って、必死に夏美ちゃんがどうたらと言い訳をするのだろう。そのやりとりがわたしはとてもスキだ。真剣な彼が不真面目な単語であたふたする様は面白い。 しかし、わたしの予想したものは一つも起こらなかった。予想に反し彼は少し驚いた顔をして、大きな瞳をわたしに向ける。
「それは、本当か?」 「えぇ、本当ですとも」
わたしは馬鹿だった。大真面目な彼に、不真面目な微笑を向けたまま答えたわたしは正真正銘の大馬鹿だ。 ギロロは自分の銃を見つめ、それからおもむろにテントに入って、がさごそと中を探った。それからすぐに出てきて、やはり大真面目に自分の手を見つめる。
「忘れてしまった」 「え?」 「命令書があった。俺は地球侵略に来たのだろう。しかし、忘れてしまった。ここに来た経緯も、していたことも…………お前のことも」
ここで気付けばよかった。今言ったことは冗談だと、必死に言い訳すればよかった。 けれど馬鹿なわたしは話についていけずに混乱し、ぽかんと口をあけたまま動けずにいた。彼が必死に考えていることなどわからなかった。真面目な彼が、歪んだ顔で、酷く辛そうにわたしを見つめるのはなぜなのか。あぁ、誰かわたしに教えて。
「すまない。だが、お前とは初めて会った気がしない。よほど長い間一緒にいたのだろうな」 (当たり前でしょう。だって、長い間あなたたちがこの星にいるのだもの) 「地球は侵略すべき星であるというのに…………俺は、馬鹿なことをしていたのか?」 (うん。大半が馬鹿で、くだらないことばかりだったよ。でも、素敵なことだよ) 「なぜ忘れてしまったのかはわからない…………けれど、心配するな。すぐに思いだす」 (顔面から転んだからだよ。なんで忘れてるのに、自信満々なんだよ) 「そんな顔をするな。…………なぜだろうな。お前がそんな顔をするのは嫌なんだ。体の芯から来る痛みがある」 (どんな顔してるっていうの) 「…………泣くな。大丈夫だ。もし思い出せなくても、俺はお前をもう一度愛せる気がする」
目を見開く。鼓動が激しく鳴った。そこでやっとわたしは気がついた。 大変なことをしでかしてしまった、と。
わたしはギロロの腕を掴んで抱えあげ、地下室に急いだ。ケロロが何か言ってきてもタママが叫んでも、わたしは無視して走り続けた。どうしてかはわからない。ギロロの静止の言葉もわたしの足を止めることは出来なかった。ただまっすぐにそこに向かって走り続けていた。
「クルル!!」
たどり着いた先で、黄色い蛙はわたしを見て笑う。
「クーックックッ!随分面白いことになってんなぁ」 「お願い。元に戻して。クルルになら出来るでしょ?お願い!!」 「あのなぁ、そんなもん放っておけば」 「そうだ。
。こんなやつの力を借りずとも俺は自力で…………」 「駄目なの。今すぐ!お願いクルル!お願いだからっ…………!!!」
記憶を失った本人よりも必死なわたしの懇願を、クルルは底の知れない眼鏡の奥で見ていた。それからため息を一つついた後に、気だるげに腕を上げた。
「あそこ。ポッドに先輩いれな」 「クルル!!貴様っ」 「ありがとう!」
ギロロが何を言いたそうだったけれど、わたしは抱えたギロロをポッドの中に入れた。 少しだけ悲しそうに見えたのは、きっとわたしの見間違いではないだろう。彼は何も覚えてはいない。覚えていない彼にとってわたしの行動は裏切りや、彼を信用していないことに他ならない。でもわたしは今すぐに彼に戻ってほしかった。酷いことをしたのはわたしだ。わたしは彼に、とても酷いことをしたのだ。
「ごめんね。ギロロ」 「何を謝ることがある。信用性は薄いが、俺は確実にお前を思いだせる。悪かったな…………忘れてしまって」
たぶん、彼は優しい思い違いをしているのだろう。わたしが心配でたまらずにクルルに頼んだと思っているのだ。それは違う。耐え切れなかったのはわたしだ。
「…………ギロロのせいじゃないよ」 「目が赤いな。…………俺は、今の記憶も忘れてしまうんだろうか」 「忘れるよ。…………忘れたほうが、いいよ」 「そうか?だが、俺はそう思わんな。なぜかはわからんが」
ポッドの中で、ギロロは腕を伸ばした。わたしが顔を近づければ、彼はそっと頬に触れる。
「お前のことを思い出すためとは言え、二度も忘れてたまるものか」 「ギロロ」 「忘れてしまうのなら…………言っておこう」
頬に添えられた手。温かい指の感触。小さな声が耳に届く。 ギロロの言葉が終わるか終わらないうちに、ポッドが閉まった。わたしとギロロの間には薄いガラスが一枚割って入ってくる。ギロロは仕方ないというように笑って足元から浸り始めた水を眺めていた。 そうして行ってくるとでも言うように、目を閉じる。 試験管の中で、標本のように水に浮かぶギロロは穏やかな顔をしていた。わたしはへたり込んで上を見上げて、泣くのを必死に堪える。
「よかったのかよ」
事情を知っているような声を出すクルルは、きっと見ていたのだろう。 ついでに言えば、わたしの思いや馬鹿な問答や、どうして彼に頼んだのかも。 わたしは、振り返らずに頷いた。
「いいの」 「…………お前」 「いいったら、いいの。わたし、酷いことしちゃったもん」
酷いことをした。騙して、たぶらかして、言わせてはいけないことを言わせてしまった。 だってそれは彼が彼女にさえも告げていなかった言葉だったのだ。軽々しく、「出来るかもしれない」なんて言葉で飾っていい言葉ではなかったのだ。あるはずのない恋心をでっちあげて、彼が戸惑わなかったわけがない。それでも受け入れてくれたのは、彼が優しすぎたから。
「忘れてしまうのなら…………言っておこう。俺はお前が好きだ」
二度も言わせたわたしは、欲張りだった。わけを話すことも、誤りを正すことも出来たはずだったのに、しなかったのはそういうことだ。欲張りだった。離したくなかった。たとえそれが偶然とか、手に入れてはいけない方法で手に入ったものだとしても、手放したくなんてなかったんだ。
「ねぇ、クルル。…………さっきあったこと、ギロロは忘れてるよね?」 「あぁ。…………ジャスト五分の時間が、すっぽり抜けてるはずだぜぇ」 「よかった。忘れなきゃ、きっとわたしもギロロも救われないよ」
それこそ日常さえも満足に過ごせなくなってしまう。彼とのんびりと過ごしたあの昼下がりに早く戻りたい。あのぼんやりとした時間がどれほど大切だったか、今更知った気分だ。もうあんなこと冗談だって言ったりしない。誓うから、どうか、早く戻ってよ。ギロロ。
「馬鹿だねぇ。先輩の言葉を考えてみろよ。あの堅物のおっさんがあっさり認めたってことは、潜在意識のどっかでそーゆう感情があったってことだ。認めざるを得ないもんがあったって証拠だ。…………黙っていただいとけばいいのによぉ」
乙女心を知らない科学者が、信じられないような顔をしてわたしを見た。
(でもね、クルル。それは幸せなんかじゃないんだよ)
(07.01.19) 赤い彼は、なによりも大切な誰かに優しい。
その優しさがたとえ間違っていたとしても、そうだと信じたら貫き通す。
彼らの独占欲〜ギロロ編〜
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