地上の光が闇に染まった空さえも覆いつくしているような夜だった。
だがそれは今日に限ったことではなく、この眠らない町では日常茶飯事の事実だ。
ネオンに飾られた陳腐な街角がひしめき合い、酔った喧騒と呼び声、車の排気ガスが吐き出され電車に揺れる人の群れは出荷される野菜か何かのようだ。
そこに数を数えるのも馬鹿馬鹿しくなりそうな人の群れがある。
考えるのも阿呆らしいような幻想を胸に歩く人々だ。
テレビとネットと新聞がこの世の情報のすべてだと思い込んでいる可愛らしい地球の最多種。
あんたらを見下ろしながら、ビル郡の屋上を渡り歩くオレの姿など見えていないのだろうな。
風に負けることもなく、友人からもらった万能ペンで自在に飛び回る少年は笑う。
誰と約束があるわけでもなかったが、時間があるときはこうやって遊ぶことが日課になった。
優良な一般人であったころには体験できなかったことを教えられたとき、もう睦実はそれらの虜になり、地球を客観的に見るようになった。
それは地球人よりも自分に近いものを、異星人に見つけてしまったからかもしれない。


「…………おや?」


さすがに夜が更けてきてそろそろお開きにしようかと思っていたときだった。
ふとビルの屋上に淡い色を見つけた。
白くふわりと波打つそれは、あきらかに人の形をもっている。
なんだろうと近づけば、うずくまる少女がそこにいた。
弱くない風が少女のスカートを揺らしていた。顔は膝にうずめてしまっているからわからない。


「なに、やってるんだい」


少女は一瞬だけ、こちらの声に反応するように体を動かした。
けれど、それだけ。
睦実の顔を確認するわけでもなければ、顔もあげずに、少女は明瞭な声を出した。


「声を聞いているの」


まるでそれが当然のことであるように。
見てわからないの?と呆れられているようだ。
耳を澄ませば、人の声なのか雑踏のざわめきが聞こえる。
しかし個人や言葉は判然としないそれは、声というよりは音だった。


「じゃ、もうちょっと近づいてみればいいんじゃないかな?ここは遠すぎる」


自分が相手にされないことを知りながら、それでも睦実は完全に拒否しない少女に声をかける。
そこで少女はやっと、こちらを向いた。
泣いているのかもしれないと思っていたから、少女の頬に涙の音がないことに少しばかり安堵する。


「駄目だよ」
「どうして?」
「…………近寄ったら、聞こえてしまうから」


睦実は首を傾げる。
その疑問を理解しているとでも言うように、少女は言葉を繋げた。


「近づいたら、よく聞こえてしまうもの。聞きたくないものも知りたくないことも、もちろん知られたくないことも、どんどんどんどん入ってきちゃう。そうすると何にも考えられなくなるの。パンクしそうになる。息が詰まって、窒息しそうになる。でも完全に離れてしまうのは寂しくて怖いから。一人の世界には何の音もなくて安らかだけど、それでも寂しくなってしまうから…………だから、わたしは」


誰にせっつかれるわけでもないのに、少女は必死にそう言った。
初めて会った、たぶん会う事など予想もしなかった俺にこんなことを話すのは俺自身を信用しているわけじゃない。
睦実はそれを理解している。
この少女はそこまで追い詰められていたのだ。見ず知らずの誰かに話さなければならないほど、心の中に言葉を溜めおきすぎた。人との距離感に怯えるあまりに、自分との距離さえも曖昧になってしまったのだろう。まるで昔の自分を見ているようだった。
人の関係がまず第一に守らなければいけないルールなのだと思い込んでいた、あの頃と。


「つかず離れず、適度な距離ってわけか」


彼女との距離を慎重に詰めて、俺は答えた。
もしかしたら逃げられるかもしれないと思うから、息さえも潜めた。
まるで虫取り網を抱えた少年のようだ。そこにあるものを捕まえるために、じっと息を殺して、相手の気配を感じながらにじりよる。
けれどそんな不安をよそに少女はぴくりとも動かなかった。
彼女との距離がたった一歩になったとき、目線を合わせるようにしゃがみこんで睦実は笑った。


「どこからが、君の境界線?」
「…………もう、あなたは飛び越えてきちゃったよ」
「でも、君は否定しなかったし、拒否しなかった」


屁理屈のように肩をすくめれば、「飛んでいる人に注意なんてできない」と答えられた。
おや、見つかっていたわけか。


「俺は君を傷つけないよ」


たぶん、これからも、きっと、高確率で。


「嘘吐き」
「そうかもね。嘘かもしれない。でも傷つけても分かり合うことができる。そうじゃなきゃ、仲直りなんて単語は必要ないよ」


笑ってみせる。彼女は笑わなかった。
もしかしたら彼女の中にはそんな言葉自体が削除されてしまっているのかもしれない。
仲直り、再会、再婚、再出発。そんなふうに回復されたものの存在を知らないのかもしれない。
俺は彼女の瞳を覗いた。同じ色の瞳だった。この島の人間は大概が同じ色だけれど、その色は自分とやっぱり似ているような気がした。悲しむベクトルが同じで、許容できる現実が彼女のほうがまだ狭い。それだけ。


「君を傷つけるしか能のない他人の言葉なんか、無理に呑みこんでしまわなくていいんだ。そんなヤツラの言葉に力なんて、ない」


言い切った最後の言葉は、彼女の脳のどこかにひっかかってくれたかな。
そうなればいい、と俺は祈るように思った。
立ち上がれなくても、そこから這いずってでもいいから脱出してほしいと願った。
それが自分の力でなくてもいいから、彼女は誰かに頼るべきなのだと思った。


「…………飛びたい」


小さい、声だった。


「飛ばせて。あなたなら、出来るでしょう?」
「…………うん?」
「大丈夫。落ちたりしない。でも飛びたいの。あなたみたいに…………わたしじゃ、無理かな」


あぁ、そうか。これは彼女なりの最初の一歩なのだろう。
だったら俺には彼女の願いを叶える義務があるような気がした。
だから手を差し出し、ゆるく掴まってきた彼女の手を強く握り返した。


「俺の名前は睦実。君は?」

。そういえば、俺の声の調子はどう?」


立ち上がった彼女の瞳を見ながら、悪戯っぽく聞いた。
君の元に届く俺の声は、どんな色ですか。言葉の意味は伝わっていますか。


「いい気持ち。こんなのは久しぶり」
「そっか。それはよかった。じゃあ、行こうか」


彼女の腰に手を回し、俺は片手で器用に絵を書いた。
彼女に羽を、白くて小さな、それでもこの空を飛ぶには充分すぎる力を秘めたものを。


飛び終わったら、彼女を家まで送ろう、と睦実は考えて笑った。





 

 

 

 


(06.12.10)睦実さんにとって一番重要なのはフィーリング。どれだけ近い存在か。
       それさえクリアできれば、後は二人で幸せになる方法を考えるだけ。
       でもそれが難しい。睦実さんの好みの範囲は地球人には狭すぎる。
       彼らの独占欲〜睦実編〜