彼と初めて会ったときは戦場で、二度目は搬送先の病院だった。
わたしは彼を見つけたとき、人目も気にせずしまったという顔をした。はっきり言って、今会うのは罰が悪かった。けれど戦場で、わたしを曲がりなりにも助けてくれた人には言っておかなければいけない義理がある。


「あの」


わたしの足先、スリッパからちょうど二メートル手前で彼が制止する。ゆっくりと顔をこちらに向けて、もっとゆっくりわたしを凝視した。まるで八百屋に並ぶきゅうりか何かになったみたいだ。値踏みと言うよりは、わたしが他の人間とどう違うかを理解している、そんな感じ。


「あの、ときは、助けていただき…………ありがとうございました。ゾルル兵長」


たった一言なのに、喉の奥がカラッカラに乾いて張り付いてしまった。わたしは彼の改造された鉄の左手を、顔だけは見るまいと必死に一点だけを見つめ続けた。噂では彼は気難しいとか我侭とか自分勝手とか言われているが彼の所属するガルル小隊は皆そんな感じだ。
そんなことよりもわたしが恐れていることは他にある。


「……………あァ」


やっとわたしとの接点が見つかったのか、ゾルル兵長が声をあげた。病院の白い廊下に映える彼は、あまりにも不似合いでアンバランスだ。けれど不思議とそこに立っていると馴染んでくるのは、わたしが彼を見慣れたからだろうか。


「あ、の……ときノ」


彼が言うあのときがわたしの言っているあのときであることを願う。出来れば穏便に話を進めたいし、彼が間違っているならそれでも構わない。もちろんわたしのことを覚えていなくても構わない。
わたしが彼に助けられたとき、周りにはわたし以外の人もいた。だから特定の、わたし個人を助けてくれたわけではないということはわかっている。けれど、それでも、わたしは彼に言わなければいけないことがあるのだ。


「覚えていらしたんですか」
「…………はっきりとハ、しないが…………」


当たり前だ。わたしは死んだと思っていたし、敵に足をやられていたから倒れこんでいたのでゾルル兵長だって思い出せていないに違いない。ただ友人が一人、また一人と死んでいくのを倒れこんで見つめながら神様に祈り続けていた。
この悪夢からわたしを引きずり出してほしい。温かい腕で優しく起こして、もう大丈夫だよと抱きしめて慰めてほしいと叶うはずもない夢にすがっていた。
神様は、違う形で願いを聞き届けてくださったけれど。


「あ、いいんです。覚えてなくても…………それで、あの、わたし…………」
「あーっ! ゾルル兵長! こんなとこにいたんすか!!」


突然元気な声がフロア中に響いて、わたしとゾルル兵長の間に割り込んできた。わたしは反射的にびくっと竦みながら、声の主から顔を逸らそうと身体を背ける。


「タルル…………」
「探しましたよー! 人に頼みごと押し付けてさっさとどっか行くんすから!」
「…………悪イ…………」
「いや、まぁいーんすけどね! でもよくここだってわかりましたねぇ」


彼はわたしのことを風景の一部だとでも思ってくれているらしい。わたしはそのことにちょっと安堵しながら、ごそごそとポケットを探った。
左手の先に固くて冷たいものを探し当て、まだそこにあることを確認する。それをぎゅっと握りしめると、緊張してこもった熱が吸い取られていった。呼吸を一度、深く吸う。落ち着けと頭の中で何度も反芻する。
けれどこの元気な上等兵のせいで、わたしは落ち着くどころか余計取り乱すことになった。


「ゾルル兵長に探してくれって頼まれた、二等兵はここに入院してますよ!」
「…………っげほ!!」


深く吸い込んだのが仇になったのか、わたしは思い切り咳き込んだ。空気だけを吸い込んだはずなのに、気管支にでかいリンゴがつかえたみたいに苦しい。
わたしは涙目になりながら座り込んで強く胸を抑えた。何もしていないのに脈が二倍くらい速く命を刻んでいく。
タルルはそんなわたしに気付いたように「大丈夫っすか?」首を傾げたけれど、必死に大丈夫だとサインを出すと不思議そうに肩を竦めた。それからまだ仕事があるから、とゾルル兵長へのあいさつもそこそこに来たときと同じように元気に走り去っていく。遠くでタルルが看護婦さんに「院内はお静かに!!」と叱られているのを聞きながら、わたしはちらりとゾルル兵長を見た。


「…………」
「…………」


彼は立ち去るでも助け起こすわけでもなく、無表情のままわたしを見下ろしている。激しく怒っているわけでもなさそうだけれど、すこぶる機嫌がいいとも言えない。


「あ、の」
「…………」
「わたしをお探しだったんです、よね…………?」


一応、確認してみた。もしかしたら他の、という名前の人がいるのかもしれないし。
けれどゾルル兵長はつまらなそうに首を振った。


「…………お前ダ」
「うっわー…………そう、ですよね」
「返しテ…………もらいニ来た」


すいと腕を差し出し、わたしの前に機械に覆われていない手が出される。けれどこの手はわたしに掴まれと言っているわけではない。それを理解しているから、わたしは立ち上がって、右手で握りしめたものをポケットからゆるゆると取り出した。そうして自分の拳と彼の表情をもう一度だけ確認し、彼の右手に小さな鉄の塊をそっと渡した。手の中で、小さなネジがころんと転がる。


「すみませんでした…………その、わたし今朝まで目が覚めなくて」


ことの始まりはあのときだ。ゾルル兵長に助けられたわたしは彼が敵を倒してしまっても動けなかった。足がやられていたし、右腕も動かなかった。おまけに左目も見えなくて、だんだんと血の気がひいていくのがわかったから麻痺していたどこかで大量に血が流れていたのだろう。だから、彼が敵を全部倒してしまうのをぼんやりと眺めながらそれでも助からない自分の運命を知っていたし、働かない頭は最後に救世主が現れただけで満ち足りていた。わたしの願いが勝ったのだと、なんだか無性に誇らしくて、彼が自分に近づいて助けおこそうとするのをやんわりと拒否したのだ。


『もう、助からないから』


唇の動きだけだったけれど、彼には伝わると思った。わたしはもうダメだから、他の人を助けてほしい。もっと有能な、未来のある人をその手で救ってほしい。けれどわたしの言葉に彼は首を振り、左手に小さなネジを握らせた。取り落としそうになる小さなネジを自分の右手で包み込むように握らせて、ゾルル兵長は耳元でそっと囁く。


「持ってイロ…………これは、オレの…………大事なネジだ」
「……………………え?」
「ここデ、修理する…………わけにハ、いかん。…………だカら」


持っていろと言い残し、彼は救護班にわたしを預けた。
戦場に戻る彼の背中を見ながら、わたしは渡されたネジを渾身の力を込めて握った。落としてしまわないように必死で握って、そのまま力尽きて眠りに落ちた。大事なネジだと彼が言ったから、無くしては大変だと思ってそこだけに集中した。結果わたしは看護婦さんが何人がかりではずそうとしても固く固く左手を握りしめて離さなかったのだと言う。
今朝目覚めてそれを聞き、あまりのことに真っ青になりながら自分の左手に転がるネジを見た。大事なものだと言っていたからさぞかし困っているだろうと思った。
あれから戦いも幕を引き、負傷者はバラバラに病院に入れられたから探しているかもしれない。思うと更に苦しくなったから、看護婦さんの目を盗んで病院を抜け出す覚悟を決めた。けれどロビーでゾルル兵長を見つけ、やっぱり自分を探していたことがわかって、今とても情けない。


「………すみません、あの、お困りだったんですよね」


恥ずかしくて顔向けできないから、わたしはまた彼の機械部分の腕ばかりを見る。きっとこの腕に使われていたネジだろうと思うから、自然どこか異変がないか探してしまう。
けれどゾルル兵長は、ゆっくりと首を振った。


「…………アれは…………嘘ダ」
「え?」


スローテンポで告げられた真実に、わたしは驚いて彼を見た。目が覚めてから初めて彼と目があう。ゾルル兵長はわずかに面白そうに瞳を歪めた。
わたしはその仕草にどきりとして、思わず頬が高潮する。


「じゃ、じゃあ、あの、なんで、こんなところに」


焦って言葉がつながらなくなりながら、わたしはしどろもどろに聞いた。
ゾルル兵長はそんなわたしをまた無表情に見据えながら、ネジを受け取らなかった機械の左手を持ち上げる。いきなりその手がわたしの額まで上がって、逃げるよりも早く驚くほどの柔らかさで髪を撫でた。


「死んでいなイか…………確認しニ」
「……あ、はぁ」
「…………手ヲ」


出せと言われて、わたしは両手を差し出した。
その上に、彼は右手に握っていたネジを戻す。返したはずのネジをマジマジと見つめたあと、わたしは首を傾げて彼を見た。ゾルル兵長はネジを握ったわたしの手を少しだけ眺めて、それからゆっくりとわたしの瞳を覗き込んだ。


「……………………死ヌな」


たった一言。
言い終えたゾルル兵長はくるりと踵を返して白い床をコツコツと歩き、病院を出て行く。
まるで何事もなかったように、自分の役目を終えたとばかりに去る後姿を見つめながら、わたしは渡されたネジを握りしめた。
なんだか、手のひらが温かくて気持ちが軽い。
彼が見えなくなってからふらふらとした足取りで病室に戻ると、案の定看護婦さんにはこってり絞られた。けれどそれら全てが耳に入ってこない。ぼうと空中を見据えて話をまったく聞かないわたしに腹を立てた看護婦さんが病室を出て行ってからも、わたしは視線を窓の外に移して働かない頭を持て余した。
夕暮れに染まる白い室内で、ため息をこぼす。


「…………この病院、恋に効く薬ってあるかな」


後になって考えると自分でも笑えるが、そのときのわたしは本当に真剣だった。
たぶん、熱で脳みそがイカレてたんだと思う。




































(07.07.20)  ガルル小隊の兵長がわたしは本当に大好きです。(言い訳という言い逃げ)