結婚を嫌がっていることは、ゾルル本人を拒絶していることになるだろうか。
結婚に意味が見出せない。誰かと一緒にいる未来が、今以上に最上である保証などない。わたしの周りには既婚者も多かったし、もちろんわたしにも両親はいたけれど、どれもこれもが素晴らしい家庭を築いているとは一概に言えなかった。
けれど昔、素晴らしい家庭というものを見たことがある。実家ではなく、それは隣家だった。入った瞬間から幸せに包まれているような住まいで、特に、奥さんが好きだった。綺麗で花のような匂いのする彼女は、いつも幸せそうだった。
けれどあるとき夕闇せまる坂のてっぺんで、彼女は一人で立っていた。立ち尽くした姿は亡霊のようだった。子供のわたしはあまりにも無邪気にかけよって「どうしたの」と聞いた。無邪気すぎる発言だった。けれど、彼女は元来優しい性分だったので、わたしを叱ることもなく答えてくれる。
夫が帰ってこないのよ。だから、待ってるの。
子供ながらに異変を察知したのはそのときだった。よく見れば彼女の足は裸足で、ところどころ擦り切れて血を流していた。それなのに表情ばかりが柔らかく、瞳には光がなかった。虚ろな視線を朱に染まっていく空に投げ出しながら、夫を待っていると告げた女性は聴いたこともない声で薄く笑う。
壊れたのだと、わたしの母親は説明した。壊れて破綻し、収拾がつかなくなってしまったのだと、幼いわたしに言い聞かせた。こぶしを握ったままの母親は、女性としての矜持をなくすまいとそうしていたのかもしれない。その日、帰ってきた父にわたしは抱きついた。帰ってきてくれてありがとう、となぜか泣きながら縋り付いた。
記憶にある限り、男性に依存したと言えるのはそのときくらいだ。結婚のことを考えるとそればかりが頭に引っかかり、ガルル中尉の言うように「マイナスではない効果」など思い浮かばない。


「………………起きタ、か?」


瞳を開けて、数十秒。声の主を認識するまで、更に数十秒。
わたしが状況を理解するのは、そのときとても困難だった。酒は残っていなかったけれど、先ほどと情景が違いすぎていたし、なによりも彼がそこにいるとは思わなかった。
わたしはゾルルの両肩に一つずつ乗った自分の腕を、まるで他人のもののように見つめる。


「ガルるニ………呼び出さレた」
「あぁ、そっか。そういうこと」


黙ったまま固まっているわたしに、彼がそう補足した。それでわたしはすべてを納得して、やれやれと安堵する。それから緊張を解いて、彼の背中に体重を預けた。あぁ、夢でよかった。
彼はわたしを背負って、夜道を歩いている。街灯の明かりだけが頼りのような住宅街で、ゾルル兵長におぶわれている自分がいることはひどく滑稽だった。しっかりと抱えられた両足、左足だけが彼の鉄の腕のせいで冷えている。頬に当たる夜風よりも冷たい。


「呼ばれただけで来たの? わたしを迎えにくるだけのために?」
「そウだ」
「はっ。お人よしだねぇ、ゾルルは。別にどうとでもなったのに」


彼の背中から視線を空に移した。天上には雲ひとつなく、満天の星が輝いている。あの中の一つだって、自分のものにはならない。人間も同じだ。幾億人、社会の中にどれだけの人間がいようとも自分のものになど決してなりはしない。最後まで他人、離れれば追う手段などない、宝箱に押し込めることもできない厄介な存在だ。だから、わたしはゾルルを受け入れない。


「……………お前だかラだ」


重々しく、彼が呟いた。夜更けだったから、周りの民家は暗く、音もない。だから聞こえた声だった。もし人の声があったのなら聞こえはしなかっただろうと思う。それくらい小さく低く、心の中に重くのしかかる一言を彼は言った。
わたしは、ただ息を吸う。


「お前以外ハ……………どうデもイい」


重力が、彼ではなく自分にのしかかっているような感覚が降りてくる。わたしには重過ぎると、なんだか咄嗟に思った。背中に添えた自分の手が、まるで彼にすがり付いているようだと、身震いする。


「そんな、の、可笑しい」
「……………なニ?」
「可笑しいよ。だって、そんな、バカだよ、だって」


声にならない言葉は、確かに喉元まで出掛かっている。けれど、それを言ってしまえばわたしは思い出の中の優しい隣の奥さんになってしまうような気がした。裸足で夫の帰りを待ち続け、夕日を見上げた彼女の、薄い笑い声が耳元によみがえる。
ごん、とわたしは彼の左肩を叩いた。鉄にあたったこぶしは少しだけジンとした。鈍い痛みだ。声にならない苦痛に比べればたいしたことじゃないけれど。
ゾルルの歩みが止まった。わたしの攻撃に腹を立てているのかもしれない。瞳をきつくつむって、わたしは彼の背中で体を硬くした。嫌われればいいと思った。嫌われればこの問題はとてもすんなりと片がつく。けれど一方で、それを頑なに拒否する自分がいることも理解していた。


「……………手ヲ、傷めルだろう」


そっと、わたしの握ったこぶしに彼の右手が添えられた。無骨な、軍人らしい手で覆われたわたしの手は驚くほど温かく包まれている。瞳を開けて、その手を見て、優しい彼にもう一度、「あんたはバカだ」と罵った。声は掠れてみっともなく、力も迫力もない。


「バカ、で、イい」
「わたし、バカは嫌いなんだけど」
「そうナのか……………? それハ、困っタ」


まるで困っていないのに、彼はそう言って笑った。唇の端をあげただけの、空気を柔らかくしただけの、彼特有のかすかな微笑だ。
優しく暖かく甘い。世界の平和な部分を凝縮したような空間が、今わたしの手の中にはある。それは確かにここにあるけれど、たぶんゾルルがいなくなったら初めから存在していなかったように、わたしの手から零れ落ちて霧散してしまうのだろう。彼がわたしを特別に思わなくなった瞬間に、理想で形作られた夢は崩れ落ちるのだ。
視界が歪んで、まつげを濡らし始めた雫が頬を流れ落ちた。あんまりにも自然に、わたしは彼の背中に抱きつく。もう、限界だった。


「イヤだよ、ゾルル。わたし結婚なんてしたくない。結婚したら、結ばれたら、ゾルルとこうして、笑いあうことなんて出来ないもの。壊れて、いくだけ、だもの」


砂の城がだんだんと波にさらわれるように、わたしたちの結婚がゆっくりと破綻していく様が、見えている。こうやって笑いあうこともできなくなってしまう未来が結婚することで、実現してしまう。わたしは、それが怖かった。
彼を、失ってしまうことが恐怖だった。好きだから結婚するなんて生易しいものじゃない。好きだからこそ、結ばれることにはもっと覚悟と誠意と努力が必要なのだ。失ってもそれを受け入れる覚悟、失わないための相手への誠意、そして維持していくための努力。わたしにはそれを完璧にこなし、彼をとどまらせておく自信がない。だったらわたしは彼の隣で友人と言うポジションのまま、何も知らない顔で笑っていたかった。いつかゾルルに別の好きな人が出来たら、同じく笑っていられるように。


………………結婚は………ゴール、でハ、ない」


しがみつくように抱きつくわたしの頭を、ゾルルはゆっくりと撫でた。髪の一本一本を確かめるように、梳きながら撫でる仕草を何度も何度も繰り返す。


「そこかラ、始めルんだ。………………なァ」
「……………」
「結婚ガ、どういうもノか……正直、オレにモわからン。想像も、ツかん。お前の言うとおり、壊れるだケかも………しれナい」


彼の指は、硬いくせに心地いい。言葉の少ない彼は、行動でわたしを宥めているのかもしれない。暗いほうにばかり考えてしまうわたしに、この星空のように光は無数にあるのだと教えてくれているのかもしれない。


「だがナ、オレは…………それデも、お前が、いイんだ」


そしてやはり、彼はわたしに奇跡的な台詞ばかりを吐く。
結婚は好きだから、するものじゃない。けれど、その感情がなければ何も始まらない。ゾルルにとって、軍属につくわたしを戦場で亡くすことがよりリアルで差し迫った恐怖なのだろう。けれどわたしにとってのリアルは、結婚後に訪れる彼を失う瞬間だった。
どちらもお互いを失うことが怖い、なんて。
わたし達はやはり他人だなぁ、と思ってしまう。気持ちがシンクロすることはないけれど、だからこそ相手を思いやり心配できる。違う考え方で、相手に予想もつかないことをしでかすから、未来が楽しくなる。
楽しく、なれるかな。


「ねぇ、ゾルル」


抱きついたままの顔を上げ、わたしは彼を呼ぶ。相変わらずおぶわれたまま、住宅街の道路の真ん中でわたし達はふたりきりだった。ゾルルが首だけを後ろに向ける。懐かしい気さえする、鉄色の顔半分が愛おしい。
捕まっている首筋に力を込めて、ぐっと顔を寄せる。彼は逃げない。反応することもできるはずなのに、わたしをちゃんと待ってくれている。嬉しくなって、重ねた唇が微笑みの形になった。


「永遠の愛なんて、叶わない願いはしないよ。でも、突然居なくなったりしないで」


唇を少しだけ離して、わたしは彼にだけ聞こえる声で言う。鼻先一センチの隙間さえない。少しお酒臭いかもな、と考えたけれど、彼は気にする人でもなかった。
結婚をやはり美化して考えることはできないけれど、むざむざと彼を手放すのはとても惜しい。こんなにも誰かを失うことが怖いなんて、昔の自分が聞いたら大笑いされてしまう弱気さだ。でもこの背中はあまりにも優しくて、感じたこともない安らぎをくれるから、今まで切り捨ててきた弱さも受け入れてしまいたくなる。


「あァ………………お前よリ、先にナど……死なン」


相変わらず、わたしとは違う考え方をするゾルル。けれど、それが彼の誓いのようにも思えて嬉しかった。
もう一度距離をゼロにして、上手ではないキスを繰り返す。瞳を開いたまま最後のキスをしたあとに、わたしはもう一度ゾルルの背中で眠りに落ちた。緩やかに揺られながら、夢の淵で幸せな想像をする。彼がわたしと一緒に、素晴らしい家庭を築く。そんな馬鹿みたいに甘くて理想ばかり詰まった、息苦しい幸せな夢を見た。













































(07.09.29) 小話連作最終話。なんというか、甘くて甘くてどうしようもなくしようと思ったのですが、どうだろう。
         わたしのお話を好きだと言ってくれた、ある人にささげます。

         ケロログッズ、本当にありがとうございました!!