あの日から、わたしの教官はもう本当の意味で教官だと思えなくなっていた。ガルル中尉はあまりにもあっけなく人の唇を奪っておきながら、特別訓練室を出た後はいつもどおりの彼に戻っていた。他の訓練生には受けのいい、カリスマ的人気を誇る教官。
結局わたしの射撃の腕は、訓練を終えるまで上達することはなかった。銃を握るたびにガルル中尉のことが頭にちらついて、集中どころじゃなくなった。だから次の段階に進むときに、オペレーター志望にまわされたのは納得のいく話だった。


時間が必要だった。しかも大量の時間で、出来れば忙しければ忙しいほどにいい。
体よく忘れるにはそれが一番の方法だと思った。銃を見れば思い出してしまうから、ひたすらパソコンを睨んですごした。知識を埋めようと努力して、いつのまにか射撃の落ちこぼれ立ったわたしはオペレーター的には優秀だと認められるまでに成長していた。その期間として、約半年。ガルル中尉とは会っていなかったし、それは精神面においてぬるい安堵感を与えてもいた。


「君には克服してもらわなければいけない」


気持ちの緩みからか、それはいつも突然訪れた。記憶のすきまからあの日の彼がぬっと現れるのだ。奇妙に立体感を伴った声となって現れるので、わたしはびくりと体を震わせる。
ガルル中尉のことを、克服などできるはずもない。未だに鎖になって自分を縛っている。意地悪な教官で、たぶんセクハラで訴えても勝てるくらいのことをされた。
唇に触る。あの日の感触が戻ってきて、悪寒よりも妙に心のざわめく緊張感が胸を満たしていく。会いたくないのに、会わなければ先へも進めない気がした。実際問題として、あれ以来は臆病になっている。同僚に二度告白されたが、それもガルル中尉のことを思い出して辛くなり、どちらも断った。けれど自分からガルル中尉を訪問する勇気もなくて、思うたびにまたパソコンに向かった。腕はよくなっていったが、人間としての感度が徐々に下がっていくのを感じていた。
そんなときだった。突然、水色の彼が尋ねてきたのは。


「すいませんッス。ここにって人、いません?」


何の嫌がらせだったんだろうか。オペレーター室には何十人と言う人間が居たにも関わらず、水色の訪問者はわたしに聞いてきた。けれど不快感をあらわにすることも出来なかったので、控えめな声で「わたしですが」と告げる。彼は少しだけ驚いて、へぇ、と呟いた。


さん、でいいっスか?」
「呼び方はご自由に。それより、何か御用ですか」


自然に言葉に棘が含まれる。彼はしげしげとわたしを眺めて、素直そうに何度も頷く。


「うーん。ご用っちゃあ、ご用なんスけど」

「はあ?」
「今、大丈夫っすか?」


どうやら外で話したいらしい。わたしは断りたかったが、傍に立っていた上司から「いいぞ」と声をかけられてしまった。なぜあなたが許可を下すのだという目つきで睨んでやる。
水色の彼はその言葉に喜んで、じゃあ、さん借りますね!と元気よくわたしの手を引く。全員の視線を浴びながら、刺激の少ない彼らが明日してくるであろう質問に頭を抱えたくなる。
彼はタルルと言って、突撃兵だった。道理で握られた手が硬くて痛いはずだ。抗議をしたけれど握る手の強さは変わらなかった。手加減というものを覚えろと説教してやると、彼は笑って「聞いていたのと違うッスねぇ」と言った。


「え?」
「いや、もっと大人しい人かなーって思ってたっスから」
「だ、れに聞いたの、それ」


背筋がすっと冷たくなった。間違いなく嫌な予感が近づいている。けれど気づいたときにはすでに、タルルは目的の部屋を見つけてあけてしまっていた。失礼しまーす。子供みたいな声が逆に残酷だ。


「おや、意外と早かったな。タルル上等兵」
「へへ。これくらい軽いっスよ!」
「そうか。礼を言う。じゃあ、仕事に戻れ」


何が「じゃあ」なのかわからない。けれど、言われたタルルは素直に「はいッス」と敬礼して部屋を出て行った。隣で固まったままのわたしを残して。


「久しぶりだね。


執務机の向こう側から、座ったままでガルル中尉は言う。わたしはもう極端に目をそらすこともしなかったけれど、逆に彼以外見られなかった。搾り出す声はみっともなく震えている。


「…………な、にか。御用、ですか」


月日はたって、もうわたしは訓練生ではない。それなのに、あの日からちっとも動けずにいる自分がいた。彼の前で萎縮して、声に出すのも言葉にするのも怯える自分。
ガルル中尉は背もたれに寄りかかりながら、うっすら笑う。


「用と呼べるほどの用は、ない」
「は?」
「ただタルルに聞かれてね。わたしの部下は大変上司思いで、日ごろの感謝を表してプレゼントを贈りたいのだという。一度は断ったのだが、しつこいので君の名前を出した」


わたしは足元がだんだんと冷たくなるのを感じる。同時に、ひどく悔しくて泣き出しそうになった。誰かに口にだせるほど簡単な名前なのだ。わたしは訓練生でしかなくて、彼にとっては一時の遊び相手にすぎなかった。不安定になっていたのはわたしだけ。
彼の前だけでは泣くまいと、わたしは唇を噛んだ。


「………人で遊ぶのも、いい加減にしてください」

「ご存知の通りわたしにも仕事があります。目的が達成されたのなら、これで失礼します」


頭を乱暴に下げ、わたしはガルル中尉に背を向ける。足早に部屋を横切り、扉に向かった。涙をためるのは限界だった。
冷たいノブに手をかけ回そうとしたが、けれどわたしの自由は突然奪われた。後ろから回った腕が体に巻きついていた。ノブに回った手が、ほんの少しだけびくついた。


「行くな」


懇願のようで、それは命令だった。わたしの体はその命令にたちまち従ってしまう。体が石のようにこわばっていき、全神経が背中に集中した。ぴったりとくっつけられたガルル中尉の体は、おもいがけないほど温かかった。


「…………は、なして」
「断る。………君は随分と、強くなったな」
「……………」
「仕事のほうも優秀だと聞いた。…………向き不向きがあると言った君の意見は正しい」
「………そう、です。だから、はなして」


二度目の願いも彼はすぐに断ってくる。吐息が首筋にかかって、わたしの心拍数をどんどん上昇させた。目を瞑って、何も感じないようにこぶしを握った。背中の温かさが、けれどどうしても強く拒絶できない。
ガルル中尉が、いきなり笑い出す。びっくりするほど、軽い笑い声だった。


「君は強くなった。たしかに、あのころよりは」
「…………」
「けれど、私のことは少しも克服できていないようだな」


さらに腕に力が込められて、わたしはなす術もなく体を小さくさせた。悔しかった。他の感情もあったかもしれないが、悔しくてたまらなかった。見透かしたように薄ら笑いを浮かべる彼を想像して、体中の血が沸騰していくような怒りを覚えた。目の前の扉を睨んで、必死に抵抗を試みようとするが、わたしの体は言うことをきかない。
ガルル中尉はひとしきり笑ったあとで、わたしの後頭部に額を寄せた。たぶん、この重さは頭だと思う。


「焦らされることに私は慣れてない。あんまり会いにこないものだから、思わず君に会いたいなどと口走ってしまった」


まるでこちらが悪いような言い方だ。わたしに会いたい道理などないのに。


「これで君を逃がしたら、明日から笑いものだな」
「…………そん、な、の」
「関係ある。だいたい、6ヶ月と13日も要しておいてまだこんなに震えるなんて…………君は本当に、どこまで私を喜ばせたら気が済むんだ?」


忍び笑いが漏れて、後頭部にあった重みがだんだんと下にさがっていく。
無理だと言いたかった。あなたを克服することなんて出来やしない。心臓音が五月蝿くて耳をふさぎたかった。それが彼を喜ばしているのだとしたら尚更、止めてしまいたかった。


「だが、いい加減慣れてもらわねば困る」


首筋に生暖かい息がかかり、身構えるよりも早く柔らかなものを押し付けられた。同時に痛みが走って、わたしは短い悲鳴をあげる。頭で理解するよりも早く、何かが終わったのがわかった。


「なにせ、今日から君は正式に私のものだ」


くつくつと、また笑い声。


「逃げたければせいぜいあがいてみたまえ。どうしたって逃げられないことをわからせてあげよう」


楽しげに続けられた言葉に脱力した。どうしたって無駄なことなど、わかりきっている。
昔、蜘蛛につかまった蝶はこんな感じかなと考えたことがあった。けれどそれは違う。そんな生易しいものじゃない。彼は罠をはって獲物を待っているだけでは飽き足らず、自分で探して捕らえてしまった。空を飛ぶ蝶を、飛べない蜘蛛は手に入れられないというのに。
わたしは彼の所有印のついた首筋を思い浮かべる。戻れない。仕事部屋にだけではなく、もうあのころには戻れない。わたしは逃げることも怯えることも許されない檻に入ってしまったのだ。

ガルルの体温だけがを慰めているように感じて、やけに切なかった。

























(07.01.23) コンプリート!!!鬼畜中尉再び。お付き合いいただきありがとうございました。