その日はとても月が綺麗だったから、だから会えると思ったんだ。
わたしが警察の人に保護されて数週間がたった。その間に起きたことは全部初めて体験するようなことばかりだったけれど、きっと一生の内こんな体験をする人は稀だと思う。まぁ、世間的な見解というやつがわたしにも備わっていればの話だけれど。 ニュースで報道される自分というのは不思議だ。自分の身に起きていた様々なことが取り上げられて公衆の面前に晒されて批評されている。自分が普通だと、日常だと感じていたすべてのものに非人道的だとか信じられないと言った感想が与えられている。それが例えわたしのことを心配して可哀想だと思って言ってくれたものでも、わたしの全てを否定するには十分だった。 警察での聴取や病院の反応も一様にわたしの精神が異常かそうでないかと言う事に一貫しすぎて、もう飽き飽きだった。ついでに哀れみの視線も言葉も、もともと欲しいものではなかったから鬱陶しさに眩暈すら覚え始めていた。 もうウンザリだった。 あぁ、そうか。だからかもしれない。 あんまりにも月が明るくて気持ちのいい風が吹く夜に思わず外に飛び出してしまったのは。
「ねぇ君、どこ行くの?」
歩き始めてようやく高いビルの無い住宅地に入ったところで声をかけられた。もう見つかったのかと諦め混じりに振り向くけれど、そこに人の姿はない。
「ごめんごめん。上だよ」
上。見上げれば、塀の上に座ってわたしを見下ろす人がいる。銀色みたいな髪に、なんとなくつかみ所の無い笑い方をする男の子だった。わたしの常識が正しければ、こんな時間に外をうろついている人は大抵おかしい。それが自分と同じくらいの子供なら尚更。
「どこに行くの?迷ってるんだったら助けようか?」 「…………」 「警戒してるなぁ。じゃあ、まずは自己紹介だ。僕は睦実。中学生。ちなみに頭はイカれてない。君とはなんだか電波の調子が合うような気がするから声をかけたんだ」
すらすらと、まるで台本を読むように彼の口から言葉が出てくる。言った後ににっこり笑う彼は、でもやっぱりつかみ所がなかった。月が明るいせいで彼の表情には影がかかるから余計にそう感じるのかもしれない。わたしは目を細めながら、なんとなく迷子のアリスに話し掛けるチェシャ猫を思い出した。あぁでも塀の上に座っているからハンプティダンプティかな。
「じゃあ、チェシャ猫さん。わたし教えて欲しいことがあるの」
彼の名前は聞いたというのに、わたしは勝手にそう呼んだ。呼ばれた彼はちょっと驚いたように目を開いて、それからすぐ笑った。あの、チェシャ猫みたいに三日月形の口をして。
「なんだい、アリス」 「わたしある人を探しているの。でもウサギじゃないわ。カエルなの」 「カエル?カエルを追うアリスなんて、面白いな」 「そんなアリスが一人くらい居てもいいでしょ。それに彼、ウサギよりも厄介なのよ。だから助けてちょうだい」 「そうだな。俺が出来ることなら出来る範囲で助けてあげるよ。カエル追いのアリス」
あんまりにもノリのいい人だった。わたしは家を出て初めて笑いたくなる。でも、どうしたら笑えるのか、筋肉がうまくつかえないな気がした。そういえば、わたしは彼の前でも笑えていたのだろうか。思い出せない。
「ドロロっていうカエルなの。居場所を知ってたら教えて」 「ドロロ……?」 「そう。漢字があるのか平仮名なのかは知らないわ。名前はドロロで、体の色は空色、瞳も同じ色よ。あと、口に覆い布をしてる。性格は………わたしが言うのもなんだけどちょっと暗いの」 「へぇ」
塀の上の彼の表情が変わった。興味や関心がキラキラと輝いているようで、視線には玩具を見つけた子供のような嬉しさが滲んでいる。たぶん、童話の中のチェシャ猫はこんな風には笑わないだろう。もっときっと優しいに違いない。
「探して、どうするんだい?」 「まずは引っぱたくの。それからのことは考えてないわ」 「怖いな。今どきのアリスは」
くつくつと笑う声が闇の中で反響する。通りにはもう歩く人の姿など無いから余計に静かで、彼は可笑しな存在だった。この人も、きっと月があまりにも綺麗だから外に出てしまったに違いない。そう思う人が外に出てくる、そういう夜なのだ今夜は。
「ねぇ教えてくれる気がないなら、わたしもう行くわ」 「気が強いんだなぁ。待ってよ、僕は教えて上げられる」 「じゃあ、早く」
ねだるように口を尖らせてみる。今ならアリスの気持ちがわかる。焦らされるのは精神に不可がかかりすぎて気持ち悪い。
「そう焦らないで。…………今日はいい月夜だから、きっと見つかると思うんだ」 「いい月夜だから?分けがわからないわ」 「気が強くて可愛らしいアリス。この道をまっすぐ行ってごらん。そうすればきっと、お望みの彼に出会えるよ」
そう言ったと思ったら、彼はすくっと立ち上がった。危なげも無くそこに立つ姿は一種のマジックのようだ。それでいて、そうすることが正しいのだと信じさせる力が彼にはある。まったく、不思議な人だ。
「全部は教えてくれないのね」 「まぁね。なにしろ僕はチェシャ猫だから」 「じゃあ、チェシャ猫さん?もちろん最後はゆっくり消えてくれるんでしょうね」
わたしが負けないように意地悪く笑うと、彼は降参だとでも言うように肩を竦めた。そうして薄い紙切れを取り出す。右手にはペン。さらりと流れるように何かを書いた彼は、まるで魔法使いだ。
「消えるのはちょっと無理かな。だけど、飛ぶことなら出来る」 「空飛ぶ猫?」 「そう、空飛ぶ猫さ」
言い終わるよりも早く、彼の体がふわりと浮いた。ゆっくりと、でも確実に、彼の体は塀を離れて月に近づく。わたしはそれを驚き半分で見ていた。もう半分は、それが当然のことだとなぜだか納得していた。
「会えるといいね」彼の声。 「きっとドロロも君を待ってるはずだよ。それじゃ、僕はこれで。バイバイ、
ちゃん」
最後にまるで祈るようにそう付けたした。彼の声はそのときだけ年相応で、若々しく率直だったように思う。わたしはゆっくりと住宅に隠れていく彼に手を振りながら、あまりにも素直にそうなればいいと考えた。
彼が名乗り出てもいないわたしの名前を知っていたことも、ドロロを知っていたことも些細なことだ。全部をひっくるめたら奇跡なのかもしれないけれど、今のこの出会いも奇跡というに足りるのかもしれないけれど、結果がなければ意味がない。彼に出会えなければ価値なんてないのだ。だからこれが奇跡になるかならないかはもう少し先の話になる。
やっぱり日本は狭いなと、たぶんわたしは笑った。
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