焦りが視界を悪くするとは聞いたことがあるけれど、それが自分にもあてはまるなんてかんがえたこともなかった。
日向家を出て、とりあえず近くの電柱に登って周囲を見渡す。ぐるりと一回り見渡せば、いつもと同じ町並みが平和そうにそこにあった。常ならばそのことに喜びの一つでも覚える自分であるのに、今そこに異変がないことが口惜しくてドロロは下唇を噛む。
彼女がこのどこかにいるだなんて!
ニュースの文字盤は今もはっきりと思いだせる。 警察から逃げ出した
。何か辛いことでもあったのか、嫌な思いでもしたのか。 あぁ、それともやはり自分のしたことは間違いであったのか。
電柱からすばやく降りて、屋根つたいに走り回った。自分の息が切れる音を久しぶりに聞いた。焦りから物事が上手く考えられない。本来ならば小雪に助けを求めるか、それかケロロや小隊のみんなに、もっと言ってしまえば突き放してしまった自分を叱咤するのが先だというのに、足は止まらなかった。 瞬きもせずに、家々の隙間を縫うようにして視線を走らせ動くものを見つけるたびに心臓が飛び跳ねた。
どこに、どこに、どこに!
の足はさほど強くない。テレビに映る彼女はいつも誰かに支えられていた。それほどまでに使い物にならなくなってしまっていた彼女の脚力では、そう遠いところにいけるはずもない。それでもまだ見つかっていないのはどうしたことか。事故にあったのかそれとも事件か。それともおよそ予測の出来ないような不測の事態に置かれているのか……。 考えれば考えるだけ不安は増す。心に重石でも乗せられたようだ。飛ぶ足さえも鈍ってきてしまう。
「こんなことなら……」
連れ去ってしまえばよかった。
所詮は、ケロン人と地球人。生きる世界が違うのであれば、そちらの社会に戻るのが自然であろうと思った。だから彼女の手を離し、望まない結論を彼女に突きつけた。それなのに、その結果がこれなのか。ならば、いっそ全てを奪ってしまえばどんなにか安心できただろうに!
自分の哀れでちっぽけな偽善が最悪の事態を招いたとしたのならお笑い種だ。
もう何時間走っているかも、どこを走っているかもわからなかった。けれど止まってしまうことが怖くてドロロは走り続ける。世話しなく周囲を見ていた視線を前だけに据え、まるでその先に待ち望んだ誰かがいるように、必死で走り続けた。握り締めた手のひらの端に映るのは、間違いのない赤い雫だった。
「ねぇ、そこの蛙さん」
それは不思議な声だった。とてつもない速さで走っていた自分に、我を忘れていた自分に、まるで染み入るように入ってきた声。知っている、声。 そう思った瞬間には、自分の足は止まっていた。
「狭い日本、そんなに急いでどこ行くの」
今度ははっきりと、掴めるように聞こえた。信じられなくて、顔が上げられなかった。この声に、聞き覚えがないはずがない。視界が歪む。月が明るい。
「ねぇ、ドロロ?」
ゆっくりと見上げた先、座り込んだ少女が自分を見ていた。まるで待っていたかのようにまっすぐドロロを見て、首をおかしそうに傾げている。その表情に浮かぶのは、笑顔ではないけれど。
「
………殿」
搾り出した声の、なんて頼りないことだろう。果たして彼女の耳に届いたかさだかではないほど小さな声だった。頬に今度こそ涙が伝う。後から後から流れ出てくるものを止めようともせずに、ドロロは彼女を見た。
「お久しぶり、ドロロ」 「拙者………、そ、の……
殿に謝らねば……」 「うん?」
後悔はしない行為だったけれど、許されるものではないことは承知している。ドロロのしたものは自己満足でしかなかった。その証拠に、彼女はここにいる。
は恨んでいるだろうか。自分を、自分のした行為を、自分たちが出会ってしまったことを。
「ドロロ、謝る前にこっちおいで」 「?」
座ったままの
が手招きをする。誘われるがままに近づけば、彼女まであと一歩というところで自分の体が宙に―――――――――浮いた。 遅れて頬を引っぱたかれた感触と、パァンという音。 何が起きたのか、吹っ飛ばされた塀にべしゃりと頭を打ち付けるまでわからなかった。
が億劫そうに立ち上がる。
「あのねぇ、謝るんだったら初めからやるんじゃないわよ」 「…………」 「それとも何?わたしが怒ってるとでも思ったの?」 「…………」 「まぁ、怒ってないと言えば嘘ね。警察は面倒だったし、晒し者にはなるし?まったく人権考えろって言うのよ。わたしはモルモットでもなければ、人形でもないわ」
言うごとに
は一歩ずつ歩く。よろめきながら、立っているのもやっとだと、誰が見てもわかる。それでも彼女は歩みをやめずに、壁に倒れこむドロロに近づく。
「それに聞きますけどね、いつわたしがあなたに助けてほしいなんて言った?言ってないでしょう。言ったはずがないわ」 「………………」 「なんで言わなかったか………………ねぇ、あなた本当にわかってなかったの?」
月が眩しくて、それを背にする彼女の表情が上手く読み取れなかった。一歩一歩、やっとのことで自分の元に辿りついた彼女は崩れ落ちるように膝をついた。 肩で息をしている。浅い呼吸に、見知った顔がやっと間近に来る。
は顔を上げて、疲れているとは思えないほど強い瞳でドロロを見据えた。
「幸せだったからよ」
掠れた声が、自分を貫いた。強いと思っていた少女の瞳に涙が浮かぶのを見るのは二度目だ。
「あなたがいて、話して、わたしの世界に初めて色がさしたの。嬉しかったのよ。あなたがわたしの傍にいるってことだけが」 「………………」 「言ったでしょう?わたし、幸せだって。それを、自分の幸せの基準で勝手に計りなおさないでよ」 「………………
殿」
両手で体を支える
が、「なによ」と眉を寄せる。ドロロは叩かれた頬など気にも留めないように立ち上がって、笑った。その瞳には涙が浮かんでいたけれど。
「すまない、でござるよ………………」 「………………謝るのが、遅い」
あと、迎えに来るのもね。 そう付け加えて、やっと彼女は笑った。初めて見た、何者にも縛られず遮られない笑顔だった。月に照らされた彼女は、思い出の中よりも美しい。おとぎ話よりも現実的なコンクリートの冷たさがなんとも言えないけれど、こんなハッピーエンドもありだろうと思う。
「案外、日本て狭いのね」
屈託のない声を上げながら、彼女は誇らしげに笑った。そうして、ゆっくりと近づいて僕の唇にキスを落とした。ゆっくりと、確かめるように、物語の最後の一ページを読むのが勿体無い―――――――――そんな感じに。
「捕まえたからね。約束通り、何でも話してもらうんだから」
ドロロは笑いながら、承諾するように彼女の手を取った。冷静に見てしまえば、なんてことだ、小雪も睦実もクルルまでもが周囲に集まってきていた。 物語の最後に駆けつけた、役者の勢ぞろいと言ったところか。
「あぁ、
殿には敵わないでござるよ」
惚れた弱みでござるからなぁ、なんて笑ったら、
は馬鹿ねと笑い返した。
あぁ。やっぱりあなたは綺麗だ。
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