争いごとが嫌いな彼が、その日泥だらけでわたしの前に現れたときに気付くべきだったのかもしれない。
夕暮れどき、いつもきっかり六時に姿を見せてくれていた彼が始めて五分だけ時間に遅れた。別に約束はしていない。夕方に来てと言ったら次の日からまるで正確な時計のように六時に彼が通いだしたとそれだけのことだ。それなのに彼は肩で息をしながら、切れ切れにわたしに謝った。 遅れたことを謝る言葉を小さく、けれどわたしが許すまで永遠と。 彼は律儀な人だったから、わたしがオロオロと慌てる彼に飽きるまで謝罪する。ごめんとか悪かったとか申し訳ないとか。決まり文句はこの三つ。それ以外の言葉は言わない。 たとえば、遅れた理由。
「どうしたの?それ」
窓枠にひじをついて、わたしは彼を上から下までゆっくりと観察した。窓枠はわたしの定位置だった。彼はそのすぐ外、窓にかかるように茂る木の枝に立っている。 彼はそのときやっと気付いたように、自分の体を見て驚いた。
「あ、申し訳ないでござる」 「どうして謝るのよ」
うっかり口癖のように零す彼にすかさず突っ込みを入れながら、わたしは泥だらけの手足を見つめた。彼の足には泥がこびりついていて、腕には擦り傷のように滲んだ血、顔だって汚れているからきっと鏡も見ずに来たのだろう。そんなひどい有様なのに、気にしないように清々しく彼は笑う。
「みっともないでござるよ」 「うん。でもそんなことより、痛くはないの?」 「あぁ。見た目よりも大したことはないでござる」
そう言って、彼は傷が痛々しい腕を振り回して見せた。そんなことされるとさらに痛々しいんですけどと言いたいのをわたしはぐっと堪えて、彼に腕を伸ばす。
「何してきたの」
伸ばしてもわたしの腕の長さでは届かないことを知っている。それでも伸ばしてしまうのはいつか彼の方からこの腕を取ってくれるかもしれないと期待しているからだ。けれど今日も彼はそんなわたしに苦笑して、伸ばした腕に一輪の花を握らせた。
「内緒でござる」 「教えて」 「駄目でござる」 「なんで」 「
殿が」
言おうとした言葉を、彼は一瞬言いよどむ。それから、ふと視線を愛おしむように細めた。
「
殿は、汚れなくていいのでござる」 「・・・・・・なに、それ」 「汚れ役は拙者だけで充分。
殿はその花のように・・・・・」 「綺麗じゃないわよ」
受け取った花は白い。わたしは白い花を握る手に力を込めて、俯いた。
「いつも言ってるじゃない。わたし綺麗なんかじゃないわ」 「
殿」 「世の中の嫌な部分の結晶みたいなものよ。綺麗になることなんてないわ」
彼はそんなわたしに首を振る。いつもこうだ。彼はわたしを綺麗だと言い張り、わたしはそれを否定する。わたしが許すまで必死に謝り続けるような気弱な彼が、これだけは頑として譲らなかった。結局わたしがスネるまで続くこの攻防を、いったいいくらやったのだろう。
「一回、眼科に行ったほうがいいんじゃない?」 「・・・・」 「・・・・・ねぇ?」 「もう、いいのでござるよ」
彼が、固いような優しいような声で言う。その声にわたしは、一瞬動けなくなった。
「もう、いいのでござる」 「なにが」 「
殿はよく辛抱し申した。拙者、その心の強さには感服いたすばかりでござる」
彼は、しきりに頷きながら笑顔を見せた。どうして彼が朗らかなのかわからない。今日はわからないことだらけだ。傷の意味も、手足の汚れも、この花の名前も、わたしは知らない。だって彼は語ってくれない。
「ねぇ、どうしたの」 「
殿・・・」 「どうして、そんな顔するの」
笑っている彼は、どこか泣きそうに顔を歪ませていた。それは御伽話の本当の意味を知ってしまったときのような、そんな知らなくてもいいことを知ってしまったような表情だった。わたしは底冷えする不安の中で窓枠を握り締める。
「言って。じゃなきゃ、わたしもう絶対に許さないわ」 「
殿・・・・」 「あなたはわたしに何も教えてくれないじゃない」
時間に一分遅れるだけでも必死になる彼は、その名前さえ教えてくれなかった。呼ばなくてもここにいるときは目を見て話せばいいと言い、一人のときにそっと呼ばれるような価値のあるものでもないと笑って、はぐらかして誤魔化されて今日まで来た。 わたしもそれを了承したはずだったのに。
「ねぇ」 「・・・・・」 「ねぇ、わたしの目を見てよ」
彼はとうとうわたしから目を逸らした。それをしないと言ったのは、誰でもないあなただったのに。 静寂の中でふとサイレンの音が聞こえた。
「
殿は、拙者のこの姿を見ても何も言わなかったでござるな」
ようやく口を開いた彼は、まるで何かを隠すようにわたしと視線を合わせた。
「慌てる拙者に初めて言った言葉を覚えているでござるか?」 「・・・・・わかんない」 「『そこの蛙さん。狭い日本そんなに急いでどこ行くの』」
声を真似るように彼は、歌いながら空を見上げた。
「嬉しかったでござる」 「・・・・・」 「
殿。拙者、今日まで本当に幸せでござった」
まるで別れのあいさつを、彼はわたしにぶつけ続ける。この雰囲気はなに、どうしてこんなにも彼は追い詰められているのだろう。 わたしは彼のなにを見逃した?
「
殿の痛みも何も知らず、拙者は一人で幸せだったのでござる」
その一言で、わたしの中で全てが繋がった。ただ気付きたくなかった願望が、でもそれしか繋がるものもない絶望が、わたしの中で一つになって押しよせる。 もう驚くことしか出来ないわたしに彼は涙を一粒落とした。 サイレンの音が、もう近くまで来ている。
「ドロロでござる」 「・・・・・ど、ろろ?」 「そう。僕の名前」
ゆっくりと、彼が枝をつたってこちらに近づく。どんなに腕を伸ばしても答えてくれなかった彼が、初めてわたしの腕に触れた。それなのに、それはとてつもなく嬉しいことのはずなのに、わたしはもう喜べなかった。 終幕のベルは、もう知らないところで鳴ってしまっていたのだ。
「最後に謝罪を。
殿のことを勝手に調べさせていただいた」 「ドロロ」 「だが、拙者がした行為に後悔はござらん」
腕を伝って、ドロロはわたしの頬に触れた。初めて触れる肌はぞっとするほど冷たくて、でもたしかに生き物のものだった。そしてふと、鉄の匂いが鼻をかすめる。
「嫌だよ。ねぇ、ドロロ。わたしだって今のままで幸せだよ」 「
殿」 「わたしとあなたが幸せなのに、どうしてそれを壊すようなことするの?」
壊れるように叫んで、彼の腕を精一杯握った。もう彼の瞳に迷いがないことを知りながら、こんなことを言うわたしはとても卑怯だ。彼のしたことは誰が見てもきっと間違ってはいないはずなのに、わたしにとっては地獄に落とされる瞬間のようだった。
「
殿、日本は狭いでござるよ」 「・・・・ドロロ」 「拙者を見つけてみるでござる。そうしたら、もう
殿に隠すことなど何もござらん」
嘘だよ、日本は意外と広くてわたしの知らないところばかりなんだよ。 わたしがそう言いワケするより早く彼はわたしに近づいて、窓にへばりついたわたしの唇に触れるだけのキスをした。それがあまりにも繊細で軽くて優しさばかり詰まったものだったから、わたしはもう涙を押さえられなかった。そうしてわたしの涙が視界を奪っているうちに、きっと彼がいなくなっているであることも予想がついている。 大急ぎで涙を拭うとやっぱり彼はいなかった。 変わりにけたたましいサイレンの音が近所迷惑なほどの至近距離で鳴り出した。視線だけを向ければ赤いランプの点滅、遠くからは人の怒声、家の中を荒々しく走る音。 そうしてきっとそれはこの部屋で止まる。 わたしは彼のいなくなった木の枝を名残惜しいように眺めて、窓枠に嵌った鉄格子を握った。ずっと解放を願っていたはずなのに、それは望みもしない結果で与えられてしまった。
息を吸う。涙を拭おう。だってわたしは悲劇のヒロインじゃない。
とりあえず、鍵のかかったこの部屋に向かってくる警官のみなさまを笑顔で迎えよう。
「日本は狭いよ。だからわたしも急いで探すから」
翌日、実の父親に監禁されていた少女が助け出されたニュースが流れた。 父親の詳細は、知れない。
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