きみの隣は居心地がいい。

 





震える空気が流れる音が、共有する背景が、一つの水になってわたしを包み込んでゆったりと放さない。陽だまりが雰囲気を暖めて、わたしはその中で腹ばいになりながら本を読む。本を向けた先には、同じく本を読む人。けれど正座をし居ずまいを正すその人は、わたしの暢気な空気に少しも動じずに干渉しない。とろんと溶けた午後の空気に少しも染まらないその人が、ゆったりとページをめくる様は綺麗だ。ここが絨毯の上ではなく畳なら完璧かもしれない。漂うコーヒーの匂いがしなければ、完璧だったかもしれない。
そう思わせるほど、落ち着いたヒト。


「どうかしたのでござるか?」


ページをめくる手を止めて、彼はわたしを見下ろした。文字を追って疲れた瞳を細め、「なんでもない」と呟くけれど、彼にはそんなことお見通しだった。小さな形のいい指がわたしたちの間の距離をゆっくりと動いた。その動作に見とれているわたしの額に、つうと温かさが伝わる。


「少々、疲れ申したか………?」
「ちょっと。ドロロはよく疲れないねぇ」


足、痺れない?
微動だにしない彼には無用な心配だろうけど、意地悪したくなってそう聞いた。ついでに腕を伸ばして彼の脚を突っつく。お饅頭よりも柔らかで、風船よりも弾力のある肌は突っつきがいがある。しばらくそうしているとさすがにくすぐったくなったのか、彼がいつになく参った声を出した。


「ドロロ」
「……………なんでござるか?」
「わたしね、ドロロと一緒にいる時間が好きだよ」


普通に言ったつもりだったのだけれど、言い終わったあと存外恥ずかしくなった。少し視線を外して彼を盗み見る。けれどいつもだったら彼がわたしよりも赤くなるはずなのに、なぜだか彼はわたしをまっすぐに見ていた。表情は変えずに、少しだけ真面目な顔になって、居ずまいを正しているのに背筋をもう一度伸ばす。そうしてこれ以上ないくらいの優しい優しい笑顔を向けてくれた。大事に育てた花が咲きそろったのを、見つけたような穏やかな瞳。


「拙者にとっても、 殿との時間は何ものにも耐え難い」
「うん」
殿に会わない日は、味気ないのでござる」
「うん。………………大切?」
「大切でござるよ…………。何よりも」


もう一度伸ばされる腕に瞳を閉じる。頬を撫でる指はやっぱりわたしのものよりも数倍可愛らしい。空気に溶けそうだ。陽だまりの中心は、青空から抜け出したような彼がとどまる場所にはちょうどいい。もう少しだけここにいて、そうして笑ってと願ったらきっと彼は笑うのだろう。けれどきっと、約束はしてくれないに違いない。


「来なきゃいいのになぁ」
「何がでござるか……………?」
「ん。秘密。でもドロロがもう少し強くなったら教えてあげる」


微笑んで、撫でられていた指を捕まえた。そのまま絡ませれば、どちらともなく力を込める。流れる空気を綺麗に纏っているわたしたちの影はいつのまにか暗く濃くなっていた。
視線を投げれば、鼈甲を溶かした陽光。
気だるげな午後が意思を持って動き出す夜に成り代わる。染まりだす空を苦々しく眺めて、その色に映る彼を見る。優しさだけに溢れた彼はもうそこにいなかった。
あぁ、来なければいいのに。



「もう、遅いでござるな」
「そうね」
「送ろう……………… 殿?」



彼の言葉を聞きながら、わたしはもう一度そうねと生返事をする。本当ならば帰りたくなかった。帰りたくないとごねるつもりだった。でもいつもいつも、実行に移したことはない。ドロロの笑顔を曇らせないために、わたしの無力を再確認しないために、今日もわたしは気付かないフリをして彼の腕を取る。


夕闇が迫る。漆黒の帳の中で、わたしたちは共にいたことがない。


「ねぇ、ドロロ。ドロロと一緒にいる時間が好きだよ」


差し伸べる手を持たないわたしは、だからこそこの声だけは彼に届くように願った。この声はあなたを追い詰めているかもしれないけれど、それでもその真意に気付いてほしい。





あぁ、闇が来る。明日を守るあなたは、今日はどこで戦っているのだろう。




 

 

 

誰も知らない

(06.10.01)