永劫


(最後のさよならを越えた先)

 




僕の心を揺らす、あの電話はもう鳴ることはない。




春の日のことだった。外はとても暖かいというのに自分は首まですっぽりと布団に包まり窓の外を見ている。少しだけ熱があった。本当に少しだった。でもそれは常人の『少し』であって僕には当てはまらず、微熱程度で体は使い物にならなくなった。だからケロロくんの約束を断り家に帰って、こうして僕は布団に包まっている。寂しいわけではない。本当に寂しかったらケロロくんたちと一緒にいるはずだ。それでも帰ってきたのは明日、ケロロくんたちと学校に行きたかったから。
寝返りを打つ。
この退屈な部屋に外の雑音は良く響く。子どもの高い笑い声だとか優しい音楽とか車の排気音とか。その全てがこの部屋の退屈と一緒になって、僕をどうにもならない気持ちにさせた。寂しいわけじゃない、なんて、強がりをいとも簡単に砕いてしまいそうな空間が生まれる。

そんなときだった。その電話が鳴り響いたのは。


りりりーん。


耳元で鳴った鈴音は、僕用の内線だった。使えるのは家の中を繋ぐ電話だけの、ベッドに備え付けられたものが僕を呼んでいた。のろのろと腕を伸ばす。



「はい」
『…………』
「? どうしたの、ママ」



回線を使うのは自分の母親しかいなかった。だからそう聞いたというのに相手は一向に話し出そうとしない。おかしい。不安がよぎった。母親ならば黙っているということはない。それともこれは単に電波の調子が悪いのか。



『…………○○?』
「え?」



やがて遠慮がちに言われたのは、聞いたこともない名前だった。(たぶん名前。本当に発音しづらいものだけれど多分)しかも聞いたことのない声で言われたので、途端に僕は緊張してしまった。母親ではないだれかが、この家の中にいるというのだろうか。



「あ、の」
『………………』
「僕、あの…………人違いなんじゃないかと…………」



そう言うと、電話の向こうの人が落胆するようにため息を零すのが聞こえた。続いて『ごめんなさいね』という穏やかな声。優しそうな女性の声だった。その声があんまり綺麗だから、恐ろしいのも忘れて受話器を握り締めてしまった。彼女の背後に流れるのは、聞いたこともないピアノ曲。



『ごめんなさいね。そうよね、違うわよね』
「あ……………その、ごめんなさい」
『謝らなくてもいいのよ。こちらこそごめんなさい。ただ適当に番号を押していたの。そうしたら探している人に繋がるかもしれないと思って…………うふふ。馬鹿よね』



そうして、くすくすと上品に彼女は笑った。適当に番号を押した?そんなはずはない。そんなことでこの電話は鳴るはずがないのだ。外部とは繋がっていないのだから、そんなことが起こりうるはずがない。心の中で否定をし続けた。けれど受話器の向こうの女性が嘘を吐いているとも思えなかった。



『ねぇ、あなたはいくつ?』
「え……………僕?」
『そう。たぶんまだ小さいわね。声が幼いもの』



言われて少しだけ恥ずかしくなった。幼年組なのは確かだけれどそうやって確認されると照れてしまう。彼女に年齢を告げると、驚くような返事が返ってきた。



『本当に?』
「はい……………そうですけど」
『凄いわ。なんて偶然!…………あのね、わたしの子どもが丁度同じ年なのよ』



子どもが居たのか。女性の声は若々しいので、そんなこと考えられなかった。それよりも女性の喜びようが受話器からも伝わってきた。偶然の奇跡に感謝し、先ほどとは違うトーンで話す。嬉しくてしょうがないという彼女は、それから自分の名前を名乗った。僕も名乗り返す。



『ドロロ君。あのね、お願いがあるのだけれど』
「え、と。何、ですか? さん」
『わたし、病気でね。寝てなければいけないの。それでいつも暇なんだけど…………ときどき電話してもいいかしら?』



その申し出を僕は断ることなど出来なかった。もちろんどうしてこの電話が繋がっているのかなんてわからなかったから怖かったし、 がどんな人かもわからなかったけれどあんまり嬉しそうな声を出すものだから自然と頷いてしまっていた。何よりも自分も病弱でベッドにいる時間は暇なのだ。そう告げると は少しだけ同情するように、けれども先程よりも嬉しそうにもう一度「必ず電話するわ」と言った。とても優しい人のような気がした。
電話を切った後、興奮冷めやらぬ頭に布団をかぶせる。どくどく鳴る心臓が五月蝿い。でも嬉しくて、何故だか顔が綻んだ。秘密の友達を持ったような、ひっそりとした嬉しさだった。









 

 



それから は、約束どおり電話をくれた。お昼を食べたあと、夕暮れの迫る瞬間、朝日がちょうど僕の眠りを覚ますとき。そんな絶好のタイミングで枕もとの電話は鳴り続けた。耳に心地よく響く。心臓が高鳴って自然と笑顔になる。けれどそれが本物の母親だったりすると少々罰が悪かった。僕はひどくはしゃいでいたのだろうから。
けれどその嬉しさとは裏腹に、僕の調子はよくなかった。体を蝕む微熱は続き、浅い呼吸がひどく苦しい。体が慢性的にダルくて寝返りをうつのも億劫だった。ママが呼んだお医者様は、僕の診察をすると首を捻るばかりで役にも立たない薬をいくつかくれるだけだ。



「よぉーっす!ゼロロ!見舞いにきたぞー!」
「ケロロくん、ギロロくん」
「大丈夫か?ゼロロ。顔色悪いぞ」



学校を休んで三日。久しぶりに友達の顔を見た。ケロロは相変わらず物珍しそうに部屋を眺め、ギロロはてきぱきとプリントや教師からの伝言を伝えてくれる。懐かしい二人に、長い間会っていなかったような気さえしてしまう。



「今回は長く休むんだな。風邪なんだろ?」
「うん…………。お医者様はそう言ってるんだけど…………」
「ゼロロはさー。ちゃーんと食いもん食わないからいけないんだって!好き嫌いしてっから風邪なんてひくんだ」
「お前は夏に風邪ひくだろ」
「なにをっ。ギロロそれ喧嘩売っちゃってるわけ〜?」



ギロロとケロロは一瞬険悪なムードになるが、すぐにギロロの方が身を引いた。何か用事を思い出したらしく、「そうだ、用があったんだ!悪いゼロロ」と鞄を背負いなおす。



「いいよ。今日は来てくれてありがとう」
「おう。早く治せよ」



屈託なく笑って、ギロロはゼロロに手を振る。ケロロはそんなギロロを少しだけ疑うような目つきで見送った。



「なんかさー。ギロロってば妙に嬉しそうだと思わねー?」
「え?…………あ、うん。そうかも………?」
「なぁんか、新しく妹が出来たとか、そんな話すんだよね。それ以上のこと聞くと黙るんだけどさ」
「妹…………?」
「そ。やぁーだねー。友達に隠し事なんて!嘘なんて、下手なくせにさ!…………っと、行けね!オレも行くとこあったんだった!」



言うなり、ケロロは慌てたように鞄を背負った。慌しく動き、忙しく僕に見舞いの言葉を一応述べて、学校に早く来いよと笑った。



「じゃなきゃ、会わせらんないしー」
「え?」
「こっちのこと!とにかくすぐに治しちゃえよ!」



こつんと僕の額を小突いて、ケロロは疾風のように去っていった。勢い良く玄関のドアの閉まる音がする。その後でママがお見舞いのお礼を言う声。僕はそれらを全部聞きながら、体から力を抜いてベッドに投げ出した。もう起き上がるのでさえ辛かった。ケロロたちの前では強がって平気なフリを見せたが、どうにも調子は戻りそうにもない。少しずつ少しずつ、底なし沼に沈んでいくような感覚。


りりりーん。



電話が鳴った。僕は意識よりも反射的に受話器をとる。底なし沼から一気に脱出する。



「こんにちは」



流れ出す、優しい優しい声。 だった。



「こんにちは」
「声が元気ね。お友達でも来ていたのかしら?」
「あ、うん。よくわかりましたね」
「子どもの声が元気なときって大抵決まっているのよ。欲しかった玩具や自分だけの秘密を持ったときとか、嬉しいことがすぐに声に出ちゃう」
「そ、そうかな…………」
「恥ずかしがらなくてもいいのよ。それ、とても自然で素敵なことだもの」



の背後で優しいピアノ曲が流れ続けている。眠気を誘うような、薄い暖かい膜に包まれるような安心感が広がっていく。 との会話はひどく安らげた。湖の中、自分ひとりで浮かんでいるような、誰も攻撃する人がいない場所を両手を広げて用意してくれる。



さんの、病気はどうなの…………?」
「相変わらず。お医者様も難しい顔をなさるわ。…………わたしの病は精神的なものだから」
「精神…………?」
「そう。でもいいのよ。気にしないで。ゼロロ君だって、病気の治りが悪いんでしょう?」
「うん。…………でも、僕のはただの風邪だから」



本当はもう『ただ』の風邪ではなくなってしまっているのかもしれないが、それでも気丈にそう言った。その返事に、少しだけ の反応が鈍る。躊躇うように、「そう」と小さく呟いた声はまるで謝っているようだった。よくわからない。沈んだ声が受話器の向こう側の の表情を想像させる。



「泣いてるの…………?」
「…………え?」
「泣かないで。だいじょうぶだから」



具体的に何が、ということは言えないけれど。大丈夫だと言ってあげたかった。安心させる技術をそれしか持たなかった僕の、唯一の手立て。 はやっぱり躊躇うように間を開けたあと、「ありがとう」と返事をした。けれどやっぱり、その声には哀愁や後悔の後が消えてなくならなかったのだけれど。
おやすみと、 が一方的に電話を切ったのはこの日が初めてだった。







 



七日目。僕の病状はよくなるどころか悪くなっていた。
息が苦しく目眩も激しい。微熱だけで起き上がることもままならなくなり、ママはお医者様を増やし続けた。けれどそれで結果が変わることもなく、お薬さえ処方できなくなる有様だ。何度か病院にいこうと言われたが、設備が整っているところで看てもらっても同じだと思ったので拒否した。何よりも、 からの電話が来ることが楽しみだったからだ。
しかし は日に日に電話の回数を減らしているようだった。何度か理由を尋ねたが、 は曖昧に笑って答えない。それがひどくもどかしかった。

今日も からの電話は来ない。心が騒ぐから、久しく使っていなかったラジオのスイッチを入れた。無機質でハイテンションな音楽が場違いな室内に満ちる。やがて、ゆっくりとした曲調に変わり、落ち着いた声になった。



『ニュースの時間です。今日は先日からお伝えしていた幼児誘拐、及びその闇売買について続報をお送りします…………』



内容を聞いて、更に気が滅入った。世界は嫌なことで溢れかえっている。子どもが誘拐されて売り飛ばされるなんて、ベッドの中で苦しむよりもよっぽど辛いだろう。
だが聞かなければよかったと、もう一度スイッチに手をかけたときだった。不意に信じられない声が、耳に届く。



『身元のわかった幼児の情報をお送りしております。もし情報をお持ちでしたらケロン軍にご一報ください』
『いやー。しかし、この事件は本当に痛ましい。………先日放送された、 というご婦人は可哀想だった』
『そうですね。ご子息の○○くんは誘拐され売り飛ばされ、しかもその先で亡くなっていたとか』
『あぁ、しかもご婦人はご子息が誘拐されてから体調を壊し、ひどく臥せってしまっていた。だが、…………ある意味救われたのかもしれませんなぁ』
『えぇ。この事件が発覚する前に、彼女は亡くなられておりますからね…………』



わかったような評論家の声が、遠くに聞こえた。
段々とあまりの事実に、現実があやふやになる。目眩がひどくなった。
頭の中で必死で今の事実を否定し続けている。たとえあの人の名前が一緒でも、子どもの名前が似ていても、違う違う。単なる偶然だ。だって、それを認めてしまったら、今までのことは一体なんだったのだ。



りりりーん。



電話がなった。




「は、い」
『知ってしまったのね』



だった。あいさつよりも早く、固い声が全てを見透かしていた。僕は受話器を取り落としそうになりながら、必死で考えた。どうしてこんなことになってしまっているのか。



、さん。なに、言って」
『いいのよ。ゼロロ君が聞いてしまったことは真実だから。だから、否定しなくてもいいのよ』
「え、だ、って」
『本当にもう潮時だったの…………。怒らないで聞いて頂戴ね。あなたの病気が治らなかったのも、わたしのせいなの』



さんが済まなそうに声を落とした。僕は受話器に耳を押し当てながら、彼女の声を一言一句聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ます。 さんが、目をつむった気がした。



『寂しかったのね。誰でもいいから………ううん、出来るなら息子と同じくらいの子が欲しかった。一緒にいてくれるように』
「…………」
『本当は一緒に逝ってほしかったけれど…………駄目ね。ゼロロ君、優しすぎて』



涙が流れ落ちる。受話器の向こうで さんも泣いている、ような気がした。



『もうやめなきゃって何度も思っていたのだけれど…………。ゼロロ君に純粋に会いたかったから…………』
「…………うん」
『優しいのね。…………でもいいのよ。わたしのことはもう信用しちゃ、駄目』



それにもう逝くから。今度こそ、本当に。
さんの声は、言っていることとは違って穏やかだった。ピアノ曲はもう聞こえない。



「や、だ」
『…………?』
さん、可哀想だ。駄目だよ、そんな、寂しいまんまで」



彼女が彷徨っていた原因が息子の誘拐であるならば、なんて可哀想な最後だろう。それなのに彼女は僕に謝って、消えようとしている。なんの弔いも救われることもなく、ただ現実には叶わない願い事を抱いていなくなってしまう。
そんなの悲しすぎるじゃないか。



『寂しくないわ』



声は受話器から聞こえてこなかった。僕はゆっくり目を開く。目の前に、知らない女性が立っていた。綺麗なシルエット。でも、とてもよく知っている人。



『ゼロロ君がいたから、わたし、ちっとも寂しくなんて、ないの』
、さん」
『笑って。最後くらい、笑ってさよならしましょう?』



の長い指が、僕の涙をすくった。体温などわかるわけもないのに、なぜか頬にかすかな温かさが伝わるような気がした。僕は渾身の力を込めて、笑う。これまでにした、どんな笑顔よりも不恰好だっただろうけど、それでも笑った。彼女も目に涙を浮かべて、それでも笑ってくれた。綺麗な笑顔だった。



『ありがとう。ゼロロ君は、精一杯、生きて頂戴ね…………』



優しいぬくもりが肌から離れる。空気に溶けるように がぼやけていった。そうして最後に、キラキラと残照だけ残して何もなくなってしまう。
僕は引きつった笑いを浮かべたまま、ベッドに顔を押し付けて泣いた。ひどく優しい人が、逝ってしまった事実が何よりも僕を打ちのめしていた。 は一度だって助けてと言わなかった。僕は の助けや慰めになっていたのだろうか。間違い電話さえも仕組まれたことだったのだろうか…………。いや、違う。あの電話は、寂しかった僕と を繋ぎとめたんだ。偶然と奇跡とまぐれみたいな確率で、僕らは出会ったのだ。

幸せだった。 と出会えて。



僕は僕の生きる道を、精一杯生きることを胸に誓った。

 

 

 



 

 

 

 

 

(06.10.30)