その日は、風が冷たく渇いていて、人通りがいつもよりまばらだった。コートを着用した
は目的地へと続く陸橋を渡っているとき、前方に人の姿を認める。知らない人だった。年のころは三十代半ばくらいだろうか。神妙な面持ちで手すりを握り、車の流れる通りを見ていた。背広を着ているから、会社員だろうか。そんな感想を持っただけで、
はその人の横をするりと通りぬける。しかし陸橋を降りようとして、その人が手すりに足をかけているのが目に入った。決めかねるように足をかけ、じっと下を見ている。
は動じることもなく、階段を下りようとしていた足を、その会社員に向けた。
「あの」 「うわ」 「もしかして、自殺なさろうとしてますか?」
彼女の声はあまり感情を込めたものではなかった。会社員は後ろを振り向き驚いたような顔をした後、罰が悪そうに斜め下を見た。
「そ、そうだとしても、君には関係ないだろう」 「はい。関係ないですね。でも自殺されるんだったら、待ち合わせの場所を変えようと思って」
そこなんです、と
は陸橋の下を指差した。
「でも、わたしが移動すればいいことでしたね。わざわざお聞きして、すみません。失礼しました」 「お、おい!!」
踵を返す彼女を、焦った声で呼びとめた。振り返った少女の瞳は、嫌に冷たい。
「ちょっと待てよ!俺はどう見ても自殺しようとしているじゃないか!」 「そうですね。わたしもそう思いましたし、あなたもそう言った」 「それで何も言わずに立ち去るのか?しかも待ち合わせの場所を変えるだけだと?ふざけるな!!」
何がふざけるな、なのか。言っている会社員もわからなかったに違いない。しかし彼は叫ばずにはいられなかった。
はその会社員を眺めて、言う。
「では、あなたはわたしに何か言って欲しいことがあるんですね?しかもそれはあなたが自殺をやめようとするものだと。それとも、あなたは自分の自殺している姿を見ていて欲しいとか?それはないでしょうね。普通の人なら答えは前者です。…………時間の無駄なので、単刀直入に言います。それはありえません」 「な」 「なぜなら、あなたが先ほど言ったように、わたしは他人です。何も知らない。あなたがどんな生活を送り、何人家族が居て、どんな気持ちでここにいるのか。自殺についての動機だって見当もつかない。何に悩んでここまで来たのか、どんな葛藤があったのか、まったく知る由もありません。そんな赤の他人が、無責任に『自殺はいけないことだからやめて下さい』と言えば、あなたはやめるんですか?」
会社員の顔が赤くなり青くなる。少女は間髪いれずに話し続けた。
「いいえ。やめないでしょうね。やめるはずがない。何年悩みましたか?何日寝ずに考えたんですか?もしわたしがあなたを止めるなら、あなたが悩んだ分わたしも悩まなければいけない。いえ、悩むべきなんです。何日も寝ずに考えて、あなたが死なずに済む方法を、自殺よりも有効に人生を終える方法を、見つけるべきなんです。わたしの知識や経験では、いい方法が浮かぶなんてことはありえないかもしれませんが、もし見つければ伝えます。同じように悩んだわたしなら、あなたに伝える資格があります。信憑性だってあるでしょう」
会社員が何か言いたそうに口を動かしたが、
はそれに遠慮しない。
「それともなんですか?まさかただ止めて欲しかっただけ、とか。わたしの言葉やわたし自身があなたの人生を好転させる起爆剤になるかもしれないと、そう考えていたとか?」
そこで一番会社員の顔が赤くなった。同時に、ぐっと押し黙るような肯定の印も見せる。
「いいですか。それは万が一にもありえません。わたしとあなたはどこまでいっても他人です。友達や恋人になってもそれは変わらない。どこまでも他人のわたしが、あなたの人生を左右する術を持っていると本当に考えているんですか?だったら今すぐその淡い期待は捨ててください。あなたはあなたの力でしか立ち直れないし、人生を楽しめない。他人への過剰な期待は体に毒ですよ。バスで隣に座った人があなたに百万円要求したらあなたは応じるんですか?躊躇うでしょう。嫌悪だって感じる。本来の優しさはそういうものなんです。分け与えるには勇気がいるし、それ以上に責任がなければいけない。例えばわたしがあなたを自殺から救ったために、あなたが誰かを殺してしまったら?わたしはそれでも自分のやったことを誇れるでしょうか。自分が救われたいがための偽善で助けてほしいのなら、他を当たってください。この世にはびっくりするほどその手の人が多いですから」
それで最後というように、少女が黙った。会社員は、今度はふつふつと怒りを溜めるように眉をあげて少女を睨む。
「あんたは…………そんな偽善で救われたことがないって言えるのかよ」 「ありますよ」即答だった。 「だったら!!」男が勝ったように叫ぶ。 「でも助けてほしいなんて思わなかった。わたしが助かれば、必ず一人は不幸になるってわかってた。わたしが辛いだけなら、それが最上だと思ってた」
でも、と少女が始めて感情を示すように苛々と足を慣らした。
「でも、わたしを大切に思うカエルのせいでここにいる」 「カ、カエル?」 「あぁ、おしゃべりをし過ぎて嫌なことを思い出した。わたしがここにいるってことは、彼にも責任を負わせているってことなんですよね。胸糞悪い」
額に手をあて、
は心底嫌だと言った表情で会社員を見る。
「仕方ないですね。あのカエルならきっとこうするでしょうから」
右手を差し出す。小さな手だった。手袋をしていないせいで、赤くなっている。
「無責任な手ですけど、どうぞ」
当然であるかのような少女の言葉には不思議な力があった。手を取らなければいけないような、それこそ少女が否定したような力があるかもしれないと思わせるような不思議な力。会社員は引き寄せられるようにその手を握る。お世辞にも温かいとは言えない、冷たい手だった。
「戻ってこれたじゃないですか」
少女が右手を引き、会社員を手すりから遠ざける。会社員はぽかんとした表情のまま、自分とてすりと少女を見つめ、それから握られた手をしみじみと見た。そしてうっすらと笑う少女の手を両手で握り、情けない声で「ありがとう」と呟く。礼を二、三度言うと、会社員は立ち去った。陸橋の反対側を、大急ぎで走り去る姿は力強い。
その会社員とすり違うように、
の待ち人が現れる。その少年は、涙ぐみ全力で走り去る会社員を眺めながら、
に駆け寄った。
「ごめん、遅れて。…………さっきのは、誰?」 「赤の他人ですよ」
答えた
の表情は少しだけ嬉しそうだった。
「さ、毛糸を買いに行きましょう。睦実さん」
睦実は首を捻り、
は踵を返した。
(人にやさしくするのって、むずかしい)
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