外の世界に踏み出してから、わたしはたくさんの人に穏やかな時間を与えてもらった。


まず、住む場所が決まった。わたしの荷物と言えばボストンバッグに一つきりだったので、移動もしやすく、また移動しても増えることはあまりない。わたしを引き取ってくれた日向秋という女性は寛大で、力強く、人を納得させる力を持っていた。ドロロから事情を聞いていたのかもしれないけれど、嫌がる遠い親戚に預けられるよりもよっぽどよかった。父親は今も行方不明だが、どうでもいい。貯金が好きな父親だったから、わたしが大人になるためのお金には余裕があった。わたしは秋さんに通帳を預けた。これは彼女が管理すべきものだと思った。


「そうね。あなたが大人になるまで、これは預かっておくわ」
「使ってくれて構いません。わたしはお世話になっています」
「えぇ。あなたの細々としたものや生活費は頂くことになるかもしれないわね。でも、うちの仕事をしてくれれば正当な対価を支払うべきだと思うし、あなたの住む部屋はケロちゃんたちの地下にしちゃったんだもの。全然、遠慮することないのよ」


笑う姿が様になる人だった。わたしの部屋は、日向家の地上部分にはすでになく、ドロロの願いもあって地下に用意されることになった。秘密基地に住んでいる地球人はなんだか可笑しな気もしたが、それを快く迎え入れる侵略者にも呆れた。ケロロは隊長だというのに、居候の先輩としてわたしに接する。お掃除も料理も嫌いではなかったから構わなかったけれど、彼の当番の分をわたしがやると夏美さんはいつも怒った。それでもケロロは熱心にサボりたがるのだから、彼は学習能力がない。


「ケロロ。今日はお掃除当番の日でしょ」
「んー。じゃ、このアッガイを仕上げちゃったら、やるであります」
「それこの前も作ってなかった?…………いいよ。わたしがやる」
「おぉ! 殿は実にお優しい!夏美殿とは大違いであります」
「怒られるのはケロロだもの。あ、そうだ。おやつ何が食べたい?」
殿。今さらっと酷いこと言わなかった…………?」
「食べたいものはないのね?」
「ゲロッ!我輩、ホットケーキがいいであります〜!!」


三時のおやつを作るようになったのは、ケロロとタママの入れ知恵だった。わたしがある番組を見ているとき、「三時のおやつ!」とでかでかと画面に映し出された文字。それをケロロに尋ねたら、「おやつは三時に用意するのであります。もちろん手作りが基本!」と答えられ、タママも賛同の声をあげた。それから毎日、わたしは彼の注文どおりおやつを作っている。それを知った夏美さんは当然のように怒っていたが、わたしはお菓子を作るのも楽しかったので自主的に「おやつ係」を引き受けている。しかし、ケロロは決まってホットケーキばかり頼む。それ以外に好きなものはないのだろうか。



「こんにちは。クルル」
「…………なんだよ、今日もホットケーキかぁ?」
「そう。ケロロに聞いたのがまずかったのかも。でも、簡単だし、美味しいわ」
「そうかい。じゃ、そこに置いといてくれよ」
「うん。…………今は何をやってるの?」
「面白がって見るような代物じゃねぇぜぇ?あんたの星を乗っ取る兵器だ」
「ふぅん。でも、設計図じゃなくて作っているところが見たい」
「今度な。…………それより、コーヒー淹れてくれよ」



黄色い彼におやつを運ぶのはわたしの仕事だった。ラボから滅多に出ない彼は最初のころは話しかけても知らんぷりされたものだが、今ではこうやって話しも出来る。甘いものは苦手らしい彼の好みは変わっていて、不味いものに目がないらしい。そんなものを作る気もないからいつもおやつの時間になると彼は顔を曇らせるのだが、結局は食べてくれた。変人なりの気遣いかもしれない。彼の作るものは設計図よりも精巧で精密で見ていて面白い。作ったあとのゴタゴタは嫌だったが、彼が兵器を作る様子を見ているときは楽しかった。こんなことを言ったら、地球人失格だろうか。




「ギロロ。どうしたの?」
「雨が降りそうだ。そろそろ洗濯物を取り込んだらどうだ?」
「そうなの?ありがとう。わかったよ」
「…………これはマフラーか?」



外を覗けば、なるほど天気は崩れてきていた。わたしは籠を持ちながら、ギロロがしげしげと眺めているものを見る。作りかけのマフラーが毛糸と繋がっていた。


「うん。マフラー。寒くなってきたし」
「ほお。誰かにやるのか?」
「うん。でもそれは自分の」


やっぱり手編みのマフラーというものは、総じて人にやるものらしい。宇宙人からも言われてしまっては、これは全宇宙共通の認識と言ってもいいだろう。マフラーは作りかけで、まだ雑巾よりも小さかったがそれなりに形が整っていた。編み物は暇つぶしにはちょうどよく、また考え事をすることもないので楽だった。
洗濯物を取り込んで部屋に戻ると、冬樹君が帰ってきたところだった。その後に続いて桃華ちゃんが入ってくる。わたしは挨拶をして、お茶を淹れるので先に上に行っていいよ、と彼に伝えた。お茶を二階に運んで、洗濯物を畳もうとしたときにタママが近寄ってくる。


「今日はモモッチどうでした〜?」
「可愛かったよ」
「そうじゃなくて〜嫉妬されませんでしたかぁ?」


心配そうに顔を覗くタママ。なんでも冬樹君と一つ屋根の下に住んでいる女の子、ということで初めのうちは桃華ちゃんなりの葛藤があったらしい。それこそ嫉妬の炎で身を焦がす、という言葉がよく当てはまる情景だったと聞かされて、少しだけ悪いことをしたと思った。しかし、最近は睨まれる回数も減ったような気がする。


「わたしと冬樹君の関係がわかってきたからじゃない?」
「そっかー。よかったですぅ。でも、 っち。だからって軍曹さんを狙っちゃ駄目ですよー?」


それはもっとありえない。わたしがそう返事をすると、複雑そうにタママは笑った。こんな風に入り組んだ人間関係が成り立っている日向家は、とても過ごしやすく居心地がいい。常に誰かがいて、会話があって、笑い声が満ちている。それはわたしが鉄格子の向こうに見ていた、わたしとは無関係の幸せだった。信じられない幸福を、そのまま言葉にしてみたら、小雪ちゃんも睦実さんも真面目な顔で頷いた。


「アタシも幸せです。 さんが来てくれてから、ドロロはいつも機嫌が良くて」
「君がそう感じるんだったら、俺も道案内をした甲斐があったよ」


小雪ちゃんは人懐こく、わたしにたくさんのことを教えてくれた。睦実さんは休みの日となればわたしを誘って町に連れていってくれる。二人の話す現代は多少の誤差が含まれていたけれど、忍者の話もラジオのMCの話もどちらも面白く魅力的だった。
二人は特にわたしと関わることが多かった。警察を抜け出したあの日の夜、出会った人だからかもしれない。その日の話をすると決まってみんな笑顔になる。わたしは泣いてしまったし、ドロロも泣いていたし、みっともなかったのだけれど。


殿は、徐々に知っていけばいいのでござるよ」
「何を?」
殿を思う人が数限りなく存在するということを。無限の可能性を」


ドロロと話すとき、わたしは自分がひどく悲観的な現実主義者で、彼が楽観的な理想主義者だと感じるときがある。穏やかな口調で話す彼の横で頬杖を付きながら、空を眺める。いつもだったら「可能性なんてあってないようなものよ」と一蹴するのだが、あまりにも安定している空気を壊すのが勿体無くてわたしは頷いた。


「そうね。可能性は、無限の方がいい」


その答えに嬉しそうに頬を染めるドロロは、たぶんこの世で一番幸せなのだろうとわたしは思う。随分お手軽だな、と思ったことは黙っておこう。


余韻を残して

(06.12.23)