水の冷たさに驚いた朝だった。顔を洗うために布団から起き出し、ドロロはようやく冬が近づいていることを知った。床を纏う冷気がもともと低い熱を奪っていく。窓によって朝日に目をこらし、霧に覆われた町を見上げた。単調な作りの町並みは、平和そうに平然と並んでる。隣の布団は空だったから、小雪は山にでも出ているのだろうと考える。彼女はこの町に一番近く手ごろな林や山に罠を仕掛けている。ドロロが以前かかったものと同じように巧妙に隠した手製の罠で、夕餉や朝餉に並ぶ獲物を調達するのが日課だった。 『呆れた。あなたって、ホントに甘ちゃんなのね。殺された人たちが可哀想になる』 耳の奥、閉じ込めた記憶のそこで声が聞こえた。よく思い出す声の主と会話を交わしたのはただ二度ほどであるというのに、未だにドロロを縛る鎖となっている。 あぁ、こんな朝だったのかもしれない。彼女との会話は一度は夜で、一度は朝だった。どちらも極限状態に疲労が溜まっていたから風景や細かい状況などは思い出せない。彼女は、いつも自分に冷ややかなまなざしを向けていた。侮蔑するような、そこにいることさえ非難されているような明らかな敵意と殺意のまざった表情を浮かべていた。 『わからない? 幼馴染の影響だか知らないけれどね、あなたにアサシンなんて向かない。ぜったい』 肩で息をして、ドロロよりもひどい怪我を負いながらいつも彼女のほうが自信に溢れていた。まるで世界の誰に敵わなくてもドロロの言い分だけは間違っているのだと言う様に胸を張り、彼の言い訳には耳を貸さなかった。 ドロロにも理由はわからなかったが、彼女と話していると自分の意見をしっかりと確定できる瞬間があった。たとえばアサシンに向かないと言われるたびに、自信などの種類ではなく彼自身の位置がはっきりと明確に打ち出されるのだ。ケロロやギロロたちと一緒にいるときの、曖昧な一般人としての自分などいなくなる。アサシンとしての彼しか彼女前にいないことに、とてつもない嫌悪感を覚えた。 『指を舐めたら血の味がするでしょう。それってもう後戻りはできないってことなのよ。可哀想ね。あなたじゃないわ。今からあなたに殺されるであろう人たちがよ』 くつくつと笑う顔は、思い出せるだけでも暗く淀んでいた。彼女は快活に話すくせに、会話には常に闇が潜んでいた。会ったのは二度だけだけれど、その笑い方は変わらなかった。ドロロは傷ついた身体を無理やり立ち上がらせて、彼女を見下ろす。彼はやっと動ける程度だったが、彼女はその身動きすらままならないようだった。そして大抵、彼女がドロロと会話とは言えない独白を始める頃にはすでにその状態であり、決まってドロロに見下ろされるとぴたりと笑うのをやめた。 『殺しなさいよ。あなたにはその義務があるわ』 真剣な、予断や甘えを許さない教官の声に似ていた。返事に窮し、けれどドロロは力なく首を振るばかりだった。彼女はそんな彼を見て、落胆するわけでもなく動けない身体を横たえたまま視線をしっかりと彼に据えた。あの冷え冷えとして情を含まない、悲しくなるばかりの目でドロロにとどめの一言を言い渡すのだ。 耳の奥、彼女のその台詞だけは蘇らないように蓋をする。一度目をつむり、深く深呼吸して、もう一度ゆっくりとまぶたを開ける。朝霧の中、陽光を受ける町並みに鳥たちのさえずりがわずかに聞こえる。そこに映る穏やかで平凡な日常に、自分自身が身を置くことを確かめた。彼女とのことを思い出すのは、決まって一人のときだ。 「ドロロー。起きてる?」 戸が開き、小雪が顔を覗かせた。おはようと挨拶をするよりも早く、彼女が後ろに誰かを背負っているのがわかった。その気配に、声が出なくなる。 「あのね、罠をはずしに行ったら人がかかってて…………でも、地球人じゃないよね?」 足に傷がある人型の女性を床に慎重に寝かせながら、小雪が問う。ドロロは何も答えられずに呆然と彼女を見下ろした。小雪は異質なものに敏感だ。異星人が人型をしたところで間違うことなく、自分とは違うことを察知している。 出会ったのはただ二度だけだった。出来ることならば、もう会いたくなかった。 けれど彼女はこうして自分の前にもう一度現れている。 『あなたに死んで欲しい人って、割といるのよ。だから、わたしみたいなのが現れる』 寝ている彼女の唇は動かない。けれど、ドロロの中ではっきりと彼女は言った。 現れるたびにそう告げて、彼女はドロロに斬りかかる。それが彼女なりの、殺し合いの合図だった。 名乗った名前は、確かと言う。自分の命を二度も狙った殺し屋を前にして、ドロロは知らずに汗をかいた。小雪は不思議そうに首をかしげている。 窓の外では穏やかな日常が、今日もまた始まろうとしている。 |