真夜中の散歩の途中、角を勢いよく飛び出してきた少年が金属バットを持っていたら警戒すべきだ。ついでに言うのなら、その金属バットに血がこびりついていて、少年の目が血走っていたりしていたらなお更だ。顔をゆがめて危険を察知し、そそくさと逃げたほうがいい。ついでのついでに言うのなら、連れが一般人には見ることが出来ない宇宙人であるような頼りにならない状況では、ことは急を要する。
けれどその常識を覆し、真夜中の街灯に頼りなげに照らされたは、目の前に突然現れた金属バットを持った少年を見てあろうことか平然としていた。加えて「ドロロ、とりあえず殴ってあのバットを奪って」と、まるでこれまでの会話の流れを崩さず穏やかに言って見せた。このとき自分は彼女に逃げろと忠告することも連れ出すことも出来たはずだった。けれど考えるよりも先に体が勝手に動いて少年を殴り、冷たい金属バットを拾い上げている。感触を確かめ、自分が他人には見えないことを思い出し慌てて地面に下ろしながら、少年を見た。彼は、顔をしかめて肘をつき体をおこしているところだった。よかった。無意識にも手加減は出来ていたらしい。


「いってぇな!何するんだ!」


角を曲がってきたときと同じように、勢いよく少年が吼えた。それは人の叫びというより、動物の鳴き声に近いように聞こえた。動物が威嚇するときに、出す声だ。


「わたしは、何もしてない」
「嘘つけ!お前、誰かに命令してたじゃないか!」
「そう? 聞き違いでしょう。それともあなたには誰か見えるの?」


は冷たくあしらう。彼女の声はいつも、間違いがないように聞こえる。自信に溢れているというわけでもないのに、なぜか異論を出すことを躊躇われた。
少年はと自分との距離を確かめ、自分の周りを見渡した。周囲に誰か居ることを願っているように、瞳を細めて大雑把に視線を移す。けれど真夜中の住宅街の一角で街灯だけに照らされた狭い路地には二人以外の影は見当たらないようだ。少年がいぶかしむ表情をする。それと同時に安堵した。装置を付けているからと言って、完璧に姿を消しているわけではないのだ。


「あなたは勝手に吹っ飛んだ。そうでしょ?」彼女はさも見ていました、と言わんばかりだ。
「う、嘘だ」
「嘘じゃない。だって、そう考えなければ不自然じゃない」


淡々と、感情を込めずには言う。常日頃から感情の豊かなほうではないが、今は闇を纏っているせいで余計に人というよりは人形のようだった。街灯を背にしたは、わけがわからなくなっている少年にかまわず、傍にあったバットを拾い上げた。少年が、しりもちを付きながら「返せよ!」と叫ぶ。


「誰かを殴ったのね」


非難しているのか、軽蔑しているのか。どちらとも取れる声では言う。少年が押し黙って、それからまた何か吼えた。言い訳だった。それと、若者特有の決まり文句をいくつか。わけのわからない言葉もあったけれど、知らなくてもいい言葉だと予想がつく。
そして最後に、「てめぇには関係ねぇ!」と少年にしてはドスの聞いた声で告げた。けれど彼はしりもちをついたままであったので、その効果は半減してしまっている。


「それで、殴ったのは両親?それとも老人?」


は、見ていたわけでもないのに断定した。それから、まるでこちらに説明するように「少年に殴られてくれる人類なんて、両親か老人くらいよ」と付け足した。彼女の声は平らかで、それは夜の闇に溶け込んでいく。少年は少しだけ驚いたように息を呑んだ。それだけでの言葉は的を得ているのだとわかる。けれど、往生際悪く少年は視線を逸らし吼えた。


「てめぇには関係ねぇだろ!」
「つい五分ほどまではね。でも、あなたはさっきわたしに会った。会ったからには関係は出来てしまう。真夜中に出会った少年が、血の付いたバットを持っていたのなら、話を聞こうとするぐらい当然でしょう」


それが果たしてどれくらい「当然」のことなのか、と長く付き合うようになってもわからない。けれど明らかに少年は狼狽していた。ぎゅっとこぶしを握り、どん、とコンクリートの道を叩いた。どんどんどん!まるで静粛を求める裁判官のように、彼はコンクリートを叩く。


「あんなやつら!死んじまえばいいんだ!」
「そう、両親なの」ニュアンスで、は理解したようだった。
「そうだ!オレが殴った。あいつらがオレに買ったバットで殴ってやったんだ!」


少年は、その瞬間だけ何かを成し遂げたような誇らしげな顔をしていた。は無表情だ。殴ったことを聞いたときのような、あからさまな非難の色は浮かべていなかった。ただ、愉快とは感じていないはずだ。
は、右手に握ったバットをゆっくりと持ち上げた。びくりと、殴られる錯覚した少年が怯える。けれど、はそんなこと気にせず話し始めた。「わたしも」声にすら、感情は籠もっていない。


「わたしも、親を殴ったことがある」


はじめて聞く告白だった。は、自分の生い立ちや境遇をあまり話したがらない。とても笑って話せるような代物じゃなかったし、もちろん聞いていて愉快なものでもない。だから、誰もその話には触れなかった。直りきらない古傷のかさぶたを無理にはがすことをしないように、そっと、いつか癒えるのを待っていた。
少年が、仲間を見つけたような、聖者が罪を犯したところを目撃したような、曖昧な笑いを浮かべた。ほうらお前だって汚いじゃないか。そう、言っているような笑い方だった。


「けど、とても後悔した。生まれてきたことすら、嫌になった」


そこで、彼女の表情がわずかに歪んだ。少年にしっかりと視線を据えているのに、もっと遠くを見ているような、昔の自分を憎んでいるような顔だ。けれど少年は、自分に対するものだと感じたようだ。眉を上げ、瞳に敵意をむき出しにする。


「お前に何がわかるんだよ!」
「わからない」
「だったら、口だしするんじゃねぇよ!」
「わたしは、不幸自慢をする気はないのよ」


のこれまでの経緯を少年に語ったのなら、彼が何も言えなくなることは明白だった。彼は外出すら自由にできるように見えたし、金属バットも買ってもらえている。それは外で遊ぶことを許可されていたということだ。には、そんな自由さえも奪われていた時期が存在する。それを言ってやりたかったが、の態度が言外に口出しするなと警告しているようにも思えた。


「知ってる? 子供って、三歳までに親に生んでくれた恩を返してるんだって」
「は?」話題が突然変わって、少年も僕もついていけない。
「子供はね、三歳までに産んでくれた親に対して精一杯感謝しているの」


本で読んだのだけれど、とはまつげを伏せる。


「でも三歳のときなんて、あなた記憶がある?はっきりと、親に感謝した記憶。わたしはない」の声は、彼の返事を待っていなかった。
「だからね三歳までっていうのは、子供が全力で親を頼っていたときのことだと思う。全幅の信頼、絶対的安心、甘えてすがって、子供は親がいなければ生きていけないことを全身でアピールする。親は、それに答える」


は、かつんと金属バットを地面に立てた。それから要領を得ない少年に、ゆっくりと吹き込むように続けた。


「親も子供も、お互いに理想的なのは三歳までってこと。だから、現実と理想の間で不満ばかりが溜まっていく。あなたみたいに爆発させる人だっている。でもね、一度爆発させたって、あなたの人生きっと不満ばかりよ。不満を不満としか捉えられないなら」


億劫そうに、は金属バットを持ち上げる。へたり込んだままの少年を指すように、まっすぐ構えた。は殴るつもりかもしれない、と考えた。は制裁を加えるのかもしれない。殴られた両親の変わりに、どこかで痛みをこらえる可哀想な人間のために、その金属バットを振り下ろすのかもしれない。少年の顔が、恐怖に引きつった。


「…………………恐い、でしょう?」


声は低く、冷たく凍ってた。街灯を背にしているせいで、見下ろす表情は声よりもずっと冷たい。少年は声が出ない。が片手で握っていたバットに、もう片方を添えた。そのまま力のかぎり振り上げる。少年が、ひっと声をあげて両腕で顔をガードした。けれど、いっこうに金属バットの衝撃はおとずれない。おずおずと顔を出してきた少年が見たのは、はじめと同じように無表情なだった。かつん。はバットを投げ捨てた。無機質な高い音が、静かな住宅街に響く。


「あなたが今からすることは」


は、まばたきをひとつ、した。


「救急車を呼ぶために電話をする。ケータイからかけると県の救急センターにつながるから、ちゃんとした住所を言わなければいけない。それからは、あなたの判断よ」


の声は、命令でもないのに頷かせる力があった。少年はわけがわからないまま、こくんと頷く。頷いていることも、彼はちゃんとわかっていないのかもしれない。
は「そう」と小さく呟いて、くるりときびすを返した。それからすぐ横の路地に曲がっていってしまう。僕はあまりにも彼女があっさりと帰ってしまうものだから、あっけに取られて固まってしまっていた。正気を取り戻し、後を追う。は僕を待つことなどせずに、さっさと道を歩いていた。薄暗いというのに、足取りはしっかりとしている。


「よかったのでござるか?」意味もなく、そう聞いた。
「何が?」案の定、はそう聞き返す。
「あの少年を、あのままにしておいて」


仕方がないので、そう呟く。は立ち止まって、塀の上にいるこちらを見上げた。


「彼は電話をするわ。住所くらい言えるでしょう」
「その確証は………」
「ない。けど彼は実行する。それに、彼の親は死んでないでしょう?」


確かめるように、は首を傾げた。わかりきったことを聞くときの問いを、はしない。こちらが問うときにだけ彼女は確認した。わからないことならば、すぐに尋ねる素直さをは持っている。
あの金属バットの血と痛み具合からすれば、両親の怪我はよくて昏倒程度だろう。意識を失ったことと額でも切って血が出たのを見て、彼は飛び出してきたに違いない。暗殺者の自分には、武器の破壊具合で相手がおった傷の程度くらいは読み取ることが出来た。けれど、はそんなことわからないはずだ。
疑問に思って尋ねると、さも当然のことを言うように、答えは返ってくる。


「もし相手が殺人犯なら、ドロロはわたしの言うことなんて聞かずに助け出すか、相手を倒してしまってるでしょ」


言葉の響きに少しだけうぬぼれて、僕は曖昧に笑った。


































(08.01.06)