夕食は無事にカレーを作ることが出来た。にとって無事というのは焦げたりせずにレシピどおりできることではなく、自分が食べてみてまずいかそうではないかということだ。もちろん食べてくれる人たちの意見は取り入れるし、アレンジも加えるが概ねの作る料理は定評を得ていた。初めは本がなければなに一つ―――それこそ、大さじや小さじという分量の意味さえ―――わからなかったというのに、今ではある程度のメニューは目分量で作れるほどになっている。これも一重に彼女の努力と、家事を押し付けたがるケロロのおかげであると言えた。
珍しくクルルまでも交えて、全員での夕飯のあとではドロロと二人きりになった。洗い物を手伝ってくれていたとき、そっと耳の傍で彼はわたしを誘った。小さな声ははっきりと、外で月を見ようと言った。


「雲ひとつないから、よく月が見えるね」


ドロロに手をひいてもらいながら登った屋根の上で、白い息と一緒に感想を述べた。昼間あれだけ晴れていた空は今も雲の陰さえなく、空は月の独壇場と化している。あれだけ輝かれると眩しいものがあるなぁと、は目を細めた。
ドロロはそんなの隣に座りながら、月を見るでもなくぼうと俯いていた。は冷たくなって握った手のひらをこすりながら、ドロロを伺う。落ち込んでいるのはいつものことだったし、それを咎めるのも呆れるのもはしなくなっていた。


「ねぇ、ドロロ」


別段、落ち込んでいるドロロを見たいわけでもなかったのでは声をかける。はっとして我に返ったドロロがこちらを急いで仰いだ。体制を立て直そうとする彼に向かって、けれどは無常な声が出す。


「わたしが遠くにいくことになったら、ドロロはどうする?」


疑問の文体ではあったけれど、それが今起ころうとしていることなのだと伝える口調だった。先ほどのことが頭から離れず、の成長さえ不安要素となってしまっているドロロはあからさまに顔を歪めた。人生を嘆く青年のような顔だな、とは思う。


「と、遠く、とは?」
「遠くって言ったら、遠く。具体的に言えば日本ではない他の国だね」


それはもっと大雑把な答えになってしまっていたのだけれど、ドロロを呆然とさせるには十分な攻撃だった。は、意味もなく会話を進めたりしない。ドロロが本気にする発言であれば、もっと気を遣って言うはずだ。それを言われたということは、がそういった未来を選ぼうとしているということだ。
日本から、彼女がいなくなるということ。
それはとてつもなく不安な、悲しく空虚な日常と同意義である気がした。


「そこには何を………目的は、あるのでござるか」
「目的?」


鸚鵡返しに聞いたの声が、希望に満ち満ちて輝いて見えた。屋根の上に座っている彼女は月の光を浴びて、きらきらと眩しい。


「まずは学びたいことが沢山ある。歴史を紐解くのは好きだけれど、今は科学にハマっているし、ケロンには及ばないとしても知識を得ておくことは必要だと思うの。ニュースで流れることが地球の現状のすべてじゃないことをわたしは知ってる。だから、わたしはもっと地球が見たいの。ドロロに見せてもらったものと、わたしが見たいものと、それらは全部外にあるの。知識だけを求めるなら、それは日本でもいいかもしれない。情報量ならどことも変わらないかもしれない。けれどね」


息切れするのもかまわずに、は一息にそれだけ述べた。視線はドロロに向けられていたけれど、彼には彼女がもっと先を見ているように思えた。が言うように今から見るべき地球のすべてを、ドロロを通してみているかのようだった。
ふとの瞳が曇る。


「けれど、日本はわたしにとって五月蝿すぎる。ここでのわたしの位置なんて、結局『可哀想な女の子』でしかない」
「そ、んな……拙者たちは」
「わかってる。ドロロや皆がそうじゃないことは知ってる。他人の目を気にすることが、どんなに愚かしいことかも理解してる。でもね、それでなくとも日本は狭いの」


解放される前まで、自分の世界は小さな部屋のみだった。ドロロによって開け放たれた世界はもっと大きな枠組みを持っていて、素敵な友人を連れてきてもくれた。けれど、それさえも慣れてきてしまえばどんどん欲しいものも知りたいものも貪欲に増えてくる。
そうして手を伸ばすたびに自分の経歴が邪魔になってくることがしばしばあった。無条件に被害者というレッテルを貼られ、腫れ物を扱うように接せられる。わたしが気にしなくとも周りが気にしてしまう。それは、きっと友人や親しい人々にも向けられてしまうことだろう。


「誰も気にせずに、思いっきり勉強したいの。ドロロだって、もっと多くのものを見たほうがいいって言ったでしょう」
「…………たしかに」
「多くのものを見て、触れて、それでも帰ってくるのはここだって」


ドロロの隣を指差して、はゆっくりとドロロの顔をのぞく。随分角度を増してしまった彼は、もう影ができるほど傾いてしまっている。彼の頭の中ではもうすでに、と別れて生活する自分の姿を想像しているのだろう。あるいは世界に出たが危険に見舞われ、助けるすべも持たない自分の無力さを早々に悔いているのかもしれない。
何にしてもたくましい妄想力だな。

は肩をすくめた。


「ドロロ、落ち着いて」
「は、あ………殿」

「これで証明されたね。ドロロよりもわたしの方が危機感を持って生活をしていたって」


ドロロの両肩を揺さぶって、はドロロに顔を近づけた。


「あのね、わたしが外国に行くことなんかより、ドロロが星に戻ってしまう確率の方がずっと高いってわかってる? 帰還命令だっていつでるかわからない。たとえば、それに反抗して戦ったって幸せな未来なんて訪れない。ケロンていう大きな力が加われば、こんな生活すぐに崩壊しちゃうの」
「……………」
「それでも選び取れる未来を狭めたりなんて、わたしはしたくない。ねぇ、ドロロ」


の瞳はとても美しかった。触れる吐息さえ、彼女の必死さを伝えるように冷たく心を貫いていく。


「あなたはわたしと一緒の未来を見てくれた。でもそれは、離れることに怯えて暮らすものじゃないでしょう」


隣をわたしのために開けてくれたとき、本当に嬉しかった。自分が望む場所が、安心できる場所が、はじめて地球上に用意されたように思えた。


「わたしは嫌だもの。ドロロとの未来に少しの不安要素だって入れたくない。けれどそのための力が、わたしにはあまりに乏しいから」


多くのものを学びたかったのは、自分が少しでも賢くなって地球を守れる力が欲しかったからだ。ドロロのように戦う力はなくても、自分には自分にしか出来ないことがある。それにはもっと多くの知識と見識と、理論を裏付けられるだけの経験が欲しかったのだ。
わたしに用意された場所が、不変のものだなんて甘く考えていたわけではない。彼を信用していなかったわけではなく、彼を信用した結果導き出された未来だ。
ドロロは鼻先がかすってしまうほど近くにいるの瞳を見た。力に溢れた光のある目だ。鉄格子の嵌められた部屋で、空ばかりを見ていた少女はもうどこにもいない。


「拙者は………少々楽観主義だったのでござろうか」


を助け出したことで、世界に溶け込んでいくことで、満足しきっていた。その先に待つ結末に目を向けようともしないで、世界を促したのは自分であるというのに。
は首を振る。


「違うよ。いつもは慎重すぎるほど考えているじゃない。ただ、わたしがあなたよりリアリストなだけ」


現実に潜む闇に慣れすぎたせいで、まずは疑うことしか頭になかった。幸せの中にはいつも不安が紛れ込んでいるものだ。それを見つけ出してわざわざ苦悩するなんて、自分だけの方がいい。
だって本当は、ドロロから離れることが怖いのはわたしの方だ。もう夜中散歩していてバットを持った少年に出くわしても守ってもらえない。ばかばかしくも楽しい会議も参加できない。空を見上げて泣きたくなるのは、あなたのためではなく自分のためになってしまうことだろう。
は、まだ困った顔をするドロロの首に腕を回した。その額にそっと近づいて、触れるだけのキスを落とす。


「そういうドロロだから好きなんだもの。変わらないでいいから、ケロロを助けてケロンのご機嫌でもとっておいてよ」


それでわたしがあなたを支えられるくらい大人になるまで、きっとこの星にいて。
言葉にできないほど甘い意味は口に出さなかった。ドロロは相変わらず少しだけ落ち込んで、けれど希望の光も表情に少しだけにじませて笑う。複雑な、彼にしか出来ないような笑顔だ。


「…………承知した。殿にはギロロ殿の言うとおり、一本とられたというしかないでござるな」
「へぇ、そんなこと言ってたんだ」
「もちろん感謝も述べていたでござるよ。そして拙者からも、礼を申し上げる」


最後の言葉と一緒に、の額に熱が落ちる。彼が自分と同じようにしたのだとわかって、気恥ずかしいが嬉しかった。


「拙者を想ってくれる殿との未来を、誰にも邪魔されるわけにはいかないでござる。しばしの別れは言葉に出来ぬほど寂しいが………」


両手で顔を包まれて、額にあった熱が鼻筋を通って唇に添えられた。啄ばむような口付けのあとで、ドロロは綺麗に笑う。


「拙者、どのような術を用いようとも必ず殿を迎えにあがるでござる」


は確かにリアリストだったけれど、ドロロの途方もない約束事が好きだった。初めは言葉になんてされなかったけれど、突然檻を壊して手を差し伸べてくれたときに。二度目は日向家に迎え入れ、を受け入れて未来を想像してくれたときに。そして今、彼は具体的に何をすべきかを考えようとしてくれている。
本当にこんな人を手に入れてもいいのだろうかと、躊躇してしまうほど幸せだった。幸福に包まれて窒息してしまうそうだ。胸がつまって、息をするのが本当につらい。
それが一瞬の油断だった。ドロロの笑顔につられて微笑むの耳元に、そっと彼の唇が近づいた。


「今日は素晴らしい日でござる。なにせ」


聞いたこともないような低音の声に慣れる間もなく、ドロロはさらに続ける。


「初めて殿から『好きだ』と言ってもらえた日でござるからな」


は急いでドロロから体を離して耳を押さえ、音が聞こえるほど五月蝿くなった心臓を押さえるために左胸も引っつかんだ。そういえば自分は彼と出会ってから、その手のワードは照れるからという理由で避けてばかりいたのにうっかり口にしてしまうなんて何てことだろう。それほどまでに頭の中が幸せでボケすぎて、上手く回らなかったのだろうか。
はドロロを睨んだけれど、耳まで赤くした彼女に迫力はなかった。


「一本取られたのはこっちだ…………!」


迫力どころか張りさえなくして泣いているような声を出すを、ドロロは自分の腕を伸ばして抱きしめる。






































(08.01.06)