その人はいつもそこにいて、背景と一緒に綺麗に馴染んでしまうので自分の他は誰もその人がそこにいることを認識できていないように見えました。遊具の少ない公園で夕暮れにたたずむ姿は背筋が伸びていて大変綺麗だったので、それを誰も知らないことはとても残念に思ったことを覚えています。彼女の影だけが、そこに生きている人物がいるのだと知らしめるために時折ふらりと揺れました。
彼女はどこも可笑しい様子はありませんでしたが、ぴんと張り詰めた背筋よりももっと確かな軸を持っているように見えました。例えば散歩に出たとか気まぐれのような、ただの習慣で行っているものではないように感じたのです。その二本の足はこちらに、ある目的のために立っているのだと主張しているようでした。
けれどいくら興味を引かれたといったところで、安易に声をかけられるようなことはできません。何しろこの地球で自分は宇宙人と呼ばれる未確認生命体でしたので、彼女は驚いて逃げてしまうかもしれなかったからです。驚いて逃げられるだけならまだマシなのですが、もし万が一彼女のトラウマになってしまったりしたら謝罪の言葉もありません。ですからあの日、声をかける際にはとても勇気が必要でした。けれどあの雨の中、濡れるのもかまわず立たずむ彼女を見ていられなかったのです。


「あの」


声を出したのと、彼女が自分を見たのはほぼ同時でした。持っていた傘を彼女に差出し、使ってくれと言うまでに数秒の間を空け、差し出している間中全身の血が冷えていくのを感じました。ゆっくりと細胞が呼吸をやめていくような絶望が、ひんやりと広まっていくのです。
目は見られませんでした。その瞳に驚愕以外の畏怖が浮かぶのが怖かったのです。


「蛙さん」


声を聞いたことはなかったので、それが彼女の声だと知るのに阿呆のような時間呆けなければなりませんでした。しかし上を向いて呆ける自分から彼女は傘を持ち上げて、とてもにこやかな笑顔を向けます。その瞳にはただ可笑しそうで、親しみがこもっているようにさえ思えました。


「あなたは、傘はいらないの」
「せ、拙者は、その、カエル、でござるから」


自分で自分を蛙だなんて言う日がくるとは予想外でした。たどたどしくつっかえながら、それだけを話し終えると彼女は傘を開きます。ばさり、と乾いた音がして、真っ赤な傘が灰色の空に咲きました。ぽつんと赤く、この世界に色が戻ってきます。


「蛙さんは、濡れるのが平気?」
「平気というか……乾くよりは随分と楽でござるな」
「そう。わたしは乾いているほうが好きかもしれない」


自分のびしょ濡れの服を見下ろして、彼女は笑います。笑っている顔など初めてみたものですから、自分がどれほど驚いたかは想像に難くありません。小さいけれどはっきりと、笑った彼女は随分若いように思えました。
もっと、もっともっと彼女の声が聞きたいと望みました。


「あの、毎日ここにいるでござろう?」
「えぇ。毎日、いるわね」
「………どうしてでござるか?」


尋ねるのには嫌われる覚悟がいりました。なにせ先ほど知り合ったばかりなのですから、質問は不躾でしたし何よりそのとき彼女は寂しそうに微笑んだのです。今すぐに質問を撤回したくなった自分に、彼女は雨音よりも小さく返事をしました。


「もう戻っては来ない人を待っているの」


その声があまりにもか細く消え入りそうなので、自分は考えるよりも先に手を伸ばしていました。はしっと掴んだ彼女の服は、しっとりと濡れています。捕まえられた彼女は、身を引くこともせずに不思議そうにこちらを見つめていました。しかしそれでも掴んだすそを、離す様なことはしませんでした。
なぜならば、彼女が文字通り雨の日も風の日も、天気や時刻に関係なくその場所で誰かを待っていたことを知っていたからです。


「戻らぬ人を、待つのは不毛でござろう」
「不毛? それは人が勝手に評価しているだけでしょう」
「しかし、戻らぬのであれば………」
「えぇ。戻りはしないと言ったから、きっと戻ってこないと思うわ。わたしが未練がましくこうやって、あの人を待っていても戻っては来ない」
「では尚更、あなたの行為には果てがない」
「果てなんかなくってもかまわない。わたしは、昔のわたしを裏切りたくなんてないの。彼が好きで、もし戻らなくても待っていると誓ったわたしを裏切ってしまったら、また元に戻ってしまう」
「…………昔の自分を、嫌いなのでござるか?」
「嫌いよ。一人ぼっちで愛されることに飢えていた、あんな自分大嫌い。ここで待っていた方が、誰かの思い出にすがっていたほうが、ずっとずっと楽」


彼女の声はどんどん逼迫していくので、雨の中で悲痛さを増していきました。細い体でしたから、随分頼りなげには見えていたのですが、彼女の告白のせいで生々しい傷が彼女を覆っているのがわかりました。


「わたしだって、理解してるの」


ふと、緊張した頬を少しだけ緩めて彼女は微笑みました。


「これがもう、愛情なんかじゃないってことくらい。彼ではなく、思い出と一緒に取り残されているだけだってことくらい、ちゃんと知ってる。でもね、知っていても心は動いてくれないの。正しいことを、ちゃんとできるわけじゃ」


ないの、と言おうとしたは、けれどその言葉が自分と一緒に浮いたことに驚いてそのまま声にならずに終わりました。息を呑むような悲鳴のあとに、彼女は自分が突然地面と引き剥がされたわけを知りました。手裏剣型の円盤らしき物体の上に、いつのまにか乗せられているのです。
目の前に悠と構えるのは、青い色をした蛙でした。


「少々手荒な真似でござったな。怪我は?」
「………ど、して」
「浮いているわけはなら装置の説明で済むが、しかし貴方の聞きたいことは違うのでござろうな」


くすくすと、自分の笑い声が聞こえました。ぽかんとする彼女は、哀れ囚われた鳥のごとく無力です。


「離れられぬと申されるなら、引き剥がすまで。貴方は攫われて仕方なくこの場所を離れ、拙者が望むので渋々戻らない誰かを忘れたと、そう言い聞かせていただきたい」


すらすらと屁理屈を並べる口を、彼女はじっと凝視しておりました。まるで初めてみるものに興味を示す子供のように、それは熱心に。


「ここに戻る必要はない。………宇宙人に捕まったのだから、運が悪かったと諦めて欲しいでござるよ」


小型円盤は会話の間にすいすいと空を泳いで公園から遠ざかります。けれど彼女は一度振り返っただけで、戻ろうともがくことはしませんでした。涙の一粒さえも零さずに、その背中はやはりぴんと立てたままで。


「名前」
「ん?」
「蛙さんのお名前は?」


円盤は高く空に舞い上がり、地図の上から町を望むようになりました。彼女は怯えるふうもなく、少々驚きと期待に満ちた瞳をこちらに向けています。囚えていたものはまだ彼女を離してはいませんでしたが、もちろん断ち切ることはできないと知っていました。いつまでも生きている限り、記憶と共に古びて綻びはするけれどなくなったりはしないものなのです。
自分は彼女の瞳をしっかりと見据え、手を伸ばしました。


「ドロロ、でござる」
「ドロロ。わたしは



噛み締めるように呟くと、彼女が返事をしました。伸ばした手を掴むと、しっかりと握り返しました。
やがてうっすらと地球の描く曲線まで見える場所まで昇ってくると円盤は上昇を停止しました。もう、雨は降っていません。はしげしげと地上を見下ろし、ドロロはそんな彼女を見ています。


「ここから落ちたら」
「間違いなく命などないでござろう。しかし、そんなことは拙者がさせない」


続きの言葉を制して否定すると、は驚きと呆れの混じったような表情で笑いました。


「ドロロは、本当に変わってるわね」
「そうでござろうか」
「そうよ。変わっていて、物好きよ」


そしてゆっくりと地球全体、その奥を眺めるように目を細めて彼女は言いました。


「でも、嫌いじゃないわ」


その声が柔らかく鼓膜に響いたので、ドロロはいくらか安堵して笑いました。あの公園はすでに見えなくなっていましたが、彼女の目には未だに見えているのかも知れず、また自分も雨の中にたたずむ姿は忘れられないだろうとは思っていましたが、今はそれで充分でした。
は下を向いたまま、ドロロは彼女を見つめながら、ただ丸い地球の端っこでたった二人一緒にいました。たった二人、けれどもう一人ではないことをお互いに理解しながら。





























忘れさせてあげるから、






忘れてくれると約束して






(08.10.12)