その少女がうちに来たのは、春だった。
しばらく任務についていた兄貴が帰ってくるというので、その日はケロロたちと遊ぶのも早々に切り上げた。そうして兄の帰りを待ちながら、どんなことを話そうかと座布団の上で考える。この前の体育でかけっこが一番だったことか、それとも算数のテストではじめて満点をとったことか………………久しぶりに帰ってくる兄には聞いてほしいことが沢山あった。
「ただいま帰りました………」 「あっ!にいちゃん!お帰りー!」
考えるのも飽きた頃、ようやくガルルが帰ってきた。急いで玄関に迎えにいくと、そこには懐かしい兄の顔があった。任務で少しやつれたようだが、そんなことは微塵も感じさせない優しい微笑みを浮かべている。紫の肌色に着込まれた軍服が、この前見たときよりも着慣らされていた。
「ギロロか。なんだか、見ないうちに大きくなったな」 「………………にいちゃんは、なんか言うことがジジくさくなった」 「生意気を言うな。あぁ、そうだ。紹介しておこう―――――――――こちらへおいで」
ガルルが一歩身を引くような動作で後ろを促した。何かいるのかと玄関の外を見る。すると、ゆっくりと怯えるように顔だけがこちらに出された。 はっきり言って驚いた。 ガルルが手を引きオレの前に連れ出したのは、ケロン人ではなかったからだ。小さな、まだ子どもだと思われる容姿はすでに大人のガルルよりも大きかったし、肌は白すぎるほど白く、顔はあどけなかった。怯えるような瞳でオレを見た少女は、一瞬目をあわせただけですぐに目を逸らす。
「まぁ、詳しい話は後からするとして、まずは自己紹介だ。この子は
。それでこの赤いのが、私の弟でギロロだ」
一人心得たようにガルルが言うのが、右から入って左から抜けていく。オレは彼女をまっすぐに見ながら、「ギロロ、ごあいさつは?」と促されるまで自分がまったく瞬きをしていなかったことを知った。それから、決まりが悪そうに「………………はじめまして」と言う。けれど少女はわかっているのかいないのか、ギロロに目を向けることをしなかった。
「
はな……………売り飛ばされる寸前だったんだよ」
とりあえず
を寝かしつけたあと、ガルルは居間でギロロと二人対峙しながらそう話し始めた。なんでも、今度の任務は未開の惑星から攫って来た子どもを売りさばいていたグループの摘発だったのだという。ようやく尻尾を掴み現場を押さえたものの、集められた子どもの数が膨大だった。軍で保護しなければいけないがそれも限りがある。よって、保護できない子どもたちは軍部の者に預かってもらうことにしたのだ。そうしてガルルも例外に漏れることなく、この少女を預かってきた。だが、他の子どもよりも
の怯えは酷く、名前を聞きだすのも一苦労だったのだとガルルは笑う。
「
はしばらくうちで預かることになる。とはいっても、私はまた明日から軍に顔をださなければいけないんだが……………。そうだ、ギロロ。母さんは?」 「母さんはまだ任務から戻ってないよ。父さんも、この前出撃したばっかりだし」 「そうか………。母さんを当てにしていたんだがな」
どうしたものか、とガルルが思案に暮れた声を出した。それもそのはず、この家は実質ギロロ一人きりなのだ。幼い子供を二人だけ残していくのは、どうしても気が引けるのだろう。
「なぁ、にいちゃん……………
って、言葉は話せる?」 「ん?あぁ、問題ない。こちらの言語はわかるようにしてある」 「そっか。じゃあ、だいじょうぶだよ。オレが面倒みればいいんだろ?」
ギロロは笑ってそう聞いた。忙しい兄がこれ以上忙しくなるのは嫌だったし、何よりも新しい兄弟が出来たようで嬉しかった。意思疎通に問題がなければ、あとは慣れるのを待つだけだ。しかも保護の期間だけなのだから、そう長くもない。 ガルルは困ったような顔をして、弟を見た。だがギロロは幼いながらも一度言い出したことはやり遂げなければ気がすまない性質だと知っているから、渋々頷くことになる。
「わかった。じゃあ、ギロロに頼むとしよう」 「うん!まかせとけって!」 「あぁ。でも、くれぐれも無茶はしないようにな」
だが、
の世話は考えたほど簡単なものではなかった。 バイヤーの元にいたときの記憶がまだ残っているらしい彼女は、外にあまり出たがらなかった。ギロロが家にいるときも、学校にいるときも四六時中自分にあてがわれた部屋で過ごした。食事はとらず、水しか飲まない。これでは持つはずがないと幼いギロロは案じるのだが、少女はそんなギロロにさえ怯えた瞳で返すだけだった。
「な、おまえ本当にだいじょうぶか?」
最初は徐々に慣れればいいと思っていたが、さすがに七日目となると焦る。どうにかご飯だけでも食べてもらおうとするが、近寄れば体を震わせるからどうしようもない。 ガルルも心配になり、一度家に帰ってきたが同じことだった。
「あのな、食べないと元気にならないぞ」 「……………」 「毒なんてはいってない。だいじょうぶだ。…………
?」
無理に近づこうとはせずに、少しだけ距離をとって話していた。窓際で膝を抱える
に畳二枚分くらいの余裕を持つ。これが、彼女を怯えさせない唯一の方法だった。 今日もだんまりか………。いつもこうだ。
は頑なに声を出そうとしない。聞いてみたいのに、彼女の口から彼女の名前を。
もう今日は駄目かと諦めかけたであったが、その日は違った。
が、口を開いたのだ。
「……………もち」 「え?!」
思わず大きな声で聞き返した。その拍子にやっぱり
はびくっと体を震わせる。ギロロは「うわごめん!」と、今度は音量を多少下げて謝った。
「なんて言ったんだ?」 「……………」 「ん?」 「………………さ、くらもち………………」 「さくらもち?」
小さな、けれど女の子特有の高い声だった。思った通りの声だ。嬉しくなる。
「さくらもちが食いたいのか?」
ゆっくりと
が頷いた。そうして見上げれば、窓の外には見事な桜並木が広がっていた。
はまたぼうとそれを眺め始める。好きなのか。そう聞きたいが、違った答えが返ってくることはなさそうだったので、変わりに提案をしてみることにした。
「あのな、今さくらもち、ないんだ」 「………………」 「でも、お店に行けばあるとおもう。すぐ近くだし。………………だからさ」 「………………」
「一緒にいこう?」
はっきり言って駄目もとだった。部屋から一歩も外に出たことのない彼女が、素直に頷くとは思わなかった。しかし、その日はやっぱり何か違ったのだ。
「お店………………とおい?」 「え?あ、ぜんぜん!近いよ!」
さくらの道を通ったところにあるんだ!
返事が返されたことに驚いたオレは、裏返った声で答えた。
は今までにないくらいオレの顔を見てから、ゆっくりと頷いた。「いく」小さく、けれど可愛らしい声にオレは一種の感動さえ覚えていた。
「なぁ、
…………だいじょうぶか?」
がはじめて家を出た。しかし彼女はこの七日間水しか口にしていない。ちゃんと歩けるのかが疑問だった。だが予想に反して、彼女はしっかりとした足取りをしていた。 夕暮れ時、人のまばらになった桜並木を二人並んで歩きながら、ギロロは
のことばかり見ていた。転んだりしないか、倒れないか、変な道に行ったりしないか―――――――――。ぼんやりと上を見上げながら歩く
はそんなこと考えてもいないのだろうが。
「さくらもち、二つください」
本当はもっと買ってあげたかったけど、ギロロのお小遣いではそれが精一杯だ。
は興味深そうに、ガラスケースに入っている色とりどりの和菓子を眺めている。それが少しだけ欲しそうに見えてしまうから、やっぱり自分は不甲斐ないなとギロロは思う。 帰り道、数歩前を歩く
はやっぱりぼんやりと桜を見ていた。そんな
から少しだけ視線を逸らして、ギロロはため息を零す。
やっぱり、貯金箱こわしてくればよかったな………………。
「………………どしたの?」
声がすれば、前を歩いていたはずの彼女がすぐ近くに立っていた。驚いて、いや考え事をしてたんだ、と上ずった声をあげる。そうして、その拍子に後ろに倒れてしまった。 倒れるまでは自分の状況がよくわからなかった。倒れたあとは、無性に自分が腹立たしかった。見る見るうちに顔が赤くなる。駄目なヤツだと思われただろうか。 けれど、それに反して
は意外な行動をとってきた。その手を、ギロロに差し出したのだ。
「え……………」 「いたい?たてる?」
たどたどしい言葉だった。けれど
が本当に心配そうな顔をするから、ギロロは彼女の手をとるとすぐに立ち上がった。初めて触れた
の手は、とても小さく柔らかかった。力を込めれば壊れてしまいそうな、さっき買った桜餅よりも柔らかい手。 ぼうとギロロは
を見た。しばらくすると、
が首を傾げる。
「あ、いや………………あ、ありがとう」 「………………かえろ?」 「うん。………………あ、あのな?」
手、つないで帰ろう?
なんとなく離しがたくなってしまった手だった。断られることを覚悟したが、けれど
は嫌がったりしなかった。小さく頷いて、自分の横に並んで歩き始めた。 そのときのことは、もう言葉では表しづらい。ただ大切な宝物の鍵をようやく手に入れたような、塔のお姫様を救い出したような、ずっと育てていた花が咲いたような、そんな嬉しさでオレは包まれていた。
「
は、さくらもち好きなのか?」 「うん。………………さくらも、すき」 「そっか。さくらが好きなのか。オレもさくらは好きだぞ」 「………………がるる、も?」 「にいちゃん?そうだなーどうかなー、でもきっと、たぶん好きだ」
家に帰るのがもったいなくて、でも遠出は出来ないから桜の下で並んで座った。そうして手を握りながら、二人で桜餅を食べた。ひらひらと舞う花びらが、綺麗だ。
「
ってさ、兄弟とかいるのか?」 「兄弟………………?」 「んー、オレとガルルみたいなさ」
その質問をしたとき、
は少しだけ困った表情をした。
「たぶん……………いない」 「そうか。………………それじゃ、うちに来ればいいよ」 「え……?」 「父さんや母さんはいっつも任務でいないけど、オレとガルルがいるしさ。
は、うちの子になったらいいよ」
なんて子どもじみた提案だったのだろう。けれどそのときはそれが実現すれば本当にいいと心から願ったのだ。
はオレの顔をしばらく見た後に、ゆっくりと頷いた。確かめるようにもう一度頷いて、そうして初めて見る顔でこちらを見た。
「うん………。そうなったら、いいな」
それは不器用だけれど彼女がした始めての笑顔だった。白い肌に少しだけ赤みが差す。その顔は今まで見たどんな笑顔よりも綺麗だった。ギロロはそんな表情がこの世にあるのだと初めて知った。泣きそうな、それでも嬉しいと笑う少女。
「じゃ、じゃあオレがおにいちゃんだぞ!」 「おにいちゃん………………?」 「そうだ。だから、オレのことは“にいちゃん”て言わなきゃだめなんだぞ」
本当はそんな必要はなかった。けれど、呼んで欲しかった。 それから
は家に帰るまで、なんだか考え込んでいるふうだった。なにか一生懸命、作り出すように必死な顔だった。家についてからも
はオレの隣に黙って一緒にいた。黙っているのは気になるけれど、それも昨日までは考えられなかったことだから大変な進歩だ。 ガルルにお願いしてみよう。
をうちの子にしてほしいって。
りりりーん!
「あ。電話だ」
待ってて、と
に言い残してギロロは受話器をとった。
「もしもし」 『ギロロか?!』
ガルルだった。しかしその様子が尋常ではない。息はあがっていたし、走りながらかけているようで雑音が激しい。
『今までどこに行ってたんだ?!何度もかけたんだぞ!』 「え、ちょっと…………」 『
はっ?!
はそこにいるのか?!』
兄の言葉に、急いで
を探した。すぐ隣にいたのだ。いなくなるわけがない。そう思えば、やっぱり
はすぐ近くにいた。
は不思議そうな顔をして、ギロロの隣に寄り添う。ギロロは無意識のうちに、
の手を握り締めていた。
『ギロロ?!』 「え、あ、だいじょうぶ。
は、いるよ」 『そうか。………………まだ、大丈夫か』
まだ?
『ギロロ。よく聞きなさい。大変なことがわかったんだ。私もすぐ帰るから、
のことをちゃんと見ていてくれ』 「え、うん……………」
そう言うとすぐに電話は切られた。あの兄が動揺しているなんて、初めてではなかっただろうか。ひどく胸騒ぎがして、ギロロは受話器を握り締めたまま、
を見つめた。
はやっぱりきょとんとした目で、ギロロを見る。
「どうしたの?」 「いや、なんでもないんだ。
は、どこも痛いトコとかないよな?」 「ないよ?」 「そっか。…………それならいいんだ」
手を握り締めて、ギロロは自分を落ち着けようと深呼吸する。何が起きるかわからないけれど、今
を守れるのは自分だけなのだ。その自分がオロオロしていてどうする。 けれど、尽きない不安に心臓は鼓動を早くしていく。恐怖に打ちのめされそうになる。
「………………おにいちゃん」 「え…………?」
握った手が、相手から強められた。
はまっすぐにオレを見ている。
「おにいちゃん、いたいとこあるの?」 「……………
………………」 「わたしはね、ないよ。こわいところから、たすけてもらったから。おにいちゃんとおにいちゃんのおにいちゃんに」
は、笑う。違うと言いたかった。わけがわからないけれど、危ないのは
なのだ。 しかし
は笑ってオレの手を握る。安心させるように、オレの手を精一杯の力で握った。
「ありがとう。おにいちゃん」 「え…………」 「あのね、さくらもち、とってもおいしかったよ」
その笑顔が、まさに合図だったのかもしれない。 一瞬、眩しい光がオレと
を包み込んだ。眩しい、見えない、けれど
の手は自分の手と一緒にある。大丈夫。自分に言い聞かせる。あぁ、玄関の開く、音。
「
!!」
ガルルの、声。だいじょうぶだよ。
はここにいる。 なのに、目を開けた先、
はもう
ではなかった。肩口から頭から、つま先から腕の先から、まるで空気に吸い込まれるように姿を消していく。驚きで声が出ない。
は笑いながら、消えていく自分自身にまったく頓着せずにオレに言った。
「ありがとう」
それが、最後だった。まばたきの間に、もう
は溶けるように消えていた。 ガルルが急いでこちらに向かってくる。けれど自分の手は見つめながら、ギロロはショックで凍り付いていた。
「にいちゃ……………」 「………………遅かったか。ギロロ」
大丈夫か。 声がかけられても、まだどこか現実ではない気がした。今まで繋いでいたんだ。手を繋いで、温かくて、柔らかくて、笑っていたのだ。
「一緒にいたんだ……………」 「……………ギロロ?」 「さくらもち、食べて、うまいって」
桜の木の下、手をつないで二人で食べた。甘いものは少し苦手だったけれど。
「ありがとうって、おにいちゃんて、言ったんだ……………!」
今日、はじめてだったのだ。笑いかけてくれたのも、一緒に出かけたのも、声を交わしたことでさえ。今日から、はじめることだったのだ。もっともっと、おにいちゃんと、笑いかけてもらえるはずだったのだ。
なのに、今この手は何も掴んでいやしない。
「ギロロ、
は…………」
オレはガルルが何か言うよりも早く、泣いた。聞きたくなかった。聞いてしまえば、今までの全てがなかったことにされるようで今は聞きたくなかった。ただ、泣いていたかった。子どもながらにもう手に入れられないものだとわかっていたのだろう。泣いて泣いて泣いて、涙でこれが夢だと思ってしまいたかった。
はもう、帰ってこないのだ。
オレが落ち着いた頃、ガルルに頼んで話してもらった。聞きたくないなら無理はするなと言われたけれど、逃げてばかりはいられない。
「
は、花から作られたそうだ………」 「花?」 「そう、正確には桜…………ただ、七日だけしか生きられない。そういうふうに作られた子だったんだ」
誰が作ったかは、聞かなかった。知ってどうこうするのは、今のオレには出来なかったし、それはガルルの仕事だった。
ただ泣いた頭で理解できたことが一つだけある。
オレのたった一人の妹は桜の精だったのだ。
白く可愛らしい、さくらもちが好きな、たった一人の妹だったのだ。
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