あと一歩踏み出せば、この世界は終わってしまうだろうか。わたしがなくなった世界は、そこで新しくなるのだろうか。ひとつの要素が消えて、それでも生き続ける世界はどうすれば終わりを迎えるのだろう。誰が消えたら、この世界は音をたてて崩れ落ちるというのだ。
ビル郡がひしめく都会の真ん中で、屋上に立ったわたしは風の強さに顔をしかめた。安全のために設けられた柵はなく、端から下を見下ろす。随分高く、人の影が蟻のようだった。ばたばたと首に巻かれたスカーフがなびく。左手に握ったライフルの重さがわたしに命令ばかりする。連射し過ぎて熱くなった体を持て余しているように、早く使えとわたしを促す。こちらはお前と違って弾切れなんだと思っても、疲れを知らない充填式のレーザーライフルのメーターは半分も使い切っていないのだから笑ってしまう。エネルギーメーターが貫いた人数を表示する仕様じゃなくてよかったと、本気で思った。
「、そこまでだっ!」
五月蝿い風音を撥ね退け、それよりも騒々しい声がわたしに届く。眉をしかめた。ライフルといい、今の声といい、雑音ばかりが耳に入ってくる。うんざりして横目で確認すれば、赤い体が視界を汚した。見たくない色だ。今はとても見たくない。もうその色はたくさんだ。
彼は声と同じように元気よく、とは言えない格好をしていた。切り傷やススだらけの軍服、片手に握られた銃はわたしのものより旧式だった。それでも彼の相棒としては申し分ない。息を切らしてわたしを睨む瞳は、恐ろしく澄んでいてそれだけに驚く。赤い体をしていながら、なんて似つかわしくない心を持った人だろう。
「近寄らないで。アイツラは死んだでしょう?」
左手のライフルを構える。スコープの中央に彼を据えると、四角い枠の中で向き合っているような感覚に陥る。まるでここはわたしたち二人だけの世界だと、そういわれているような。けれど実際は、出てきたのが彼だというだけだ。
「罠は気に入っていただけた?それだけの怪我で済んだのは褒め称えるべきかしら。本当なら足や腕の一本ぐらい、奪えると思ったのだけれど」
「ふざけるな!お前、何をしたかわかってるのか!!」
「わかっているわ。戦争したがりの爺をひとり殺した。それだけ」
定めた狙いを少しだけ下げて、彼の足元を撃った。光が走って、地面が焦げる。
「近寄らないで」
「クソッ!誰に頼まれた?!」
「聞いてどうするの。依頼人を捕まえたって、どうしようもない。ケロロ小隊が動き出したのならわたしは行くわ。二度と会うこともないでしょう」
「!!」
必死さと言うよりは、叱咤されていると感じる呼び方だった。わたしは構わず風の強さに任せて視線をずらした。そういえば、今日は曇っている。道理で薄暗いはずだ。それなのに、この人の赤はどこまでも明るい。
右手で時計を取り出して、時刻を確認した。それだけ済ましてしまうと、彼がなにか言い始める。けれどわたしは聞いていなかった。周囲に気配を感じ取ったからだ。静かなものだったから、ゼロロ兵長だろうと予想をつける。あの青いアサシンは、わたしをどんな思いで見ているだろうか。加えて、通信機器に微弱な妨害電波を確認した。機械はこれだからいけない。曹長の手下に成り下がった無機物を、わたしは耳から取り外す。投げ捨てると、ギロロが話すのをやめた。
「」
「その目、やめてくれない?わたしは好きでこの道を選んだの。軍に捕まれば死刑。逃げても見つかれば死刑。でも、今とても清々しい。いい気分」
「嘘をつけ!!」
「えぇ。嘘ばかりだったでしょう。あなたの前に現れた女はただのスパイで、幹部を殺しに来ただけの暗殺者だった。とても簡単な嘘だったわ。銃の使い方がわからないふりをするのは、とても苦労したけれど」
軍を騙して入隊し、秘書として幹部連中に取り入った。彼を騙したのは、任務中であったから演技を通しただけのことだ。ただこの赤い軍人気質な頑固者を、気に入ってしまったのは誤算であったけれど。
赤いあなたに魅かれたのは、その色がキライだったからだ。
階下から突然、続けざまに爆音が聞こえた。あれは元気な二等兵だろう。
「ねぇ、ギロロ。わたしはこの国でとても偉い人を殺したわ。それなのに、なぜこの世界は壊れないの? あの人は世界にとって重要じゃなかったの? 偉い人なのに。誰かを殺す命令を、なんのためらいもなく下せるような人なのに」
秘書としての短い間に知ったのは、下らない自己保身と金と権力だけを持て余した腐りかけた肉の塊が、世界を牛耳ってしまっているということ。馬鹿みたいだ。思って、彼に弱々しく微笑んでやる。この世界は汚くて、惨めで、滅茶苦茶だけれど彼はとても綺麗だ。
ただ天秤にかけて、あなたを取れなかったのはわたしが汚れていたからだと思う。
「、俺は…………っ!」
「もういい。知らなければ納得できない貴方のための説明はおしまい。二分もすればあなたの隊長から、わたしへの攻撃を命じられるわ。今しないのは、とても残酷だと思ってくれているからよ。わたしはあなたのことが好きだった。あなたもわたしが好きだった。それだけで嬉しい。淋しい。関係をもてなかったのは、あなたに迷惑をかけたくなかったの。最後に弱音を吐くようでごめんなさい」
彼に出会ってこれまでに、わたしは一度たりとも好きだと言った事はない。彼もわたしに思いを告げるようなことをしなかった。それでも理解してしまったのは、真摯なまなざしを受け入れてしまったわたしの態度が露骨だったからだ。彼の赤い体だけが、わたしの血なまぐさい過去も現在も明るく照らし出してくれた。手を伸ばせばすがってしまえば、彼はわたしを許すだろう。これは予想じゃない。必ず起きる出来事だ。ただわたしはその未来を選ばなかった。
「」
ギロロがようやく、わたしに銃を構えた。銃口を向けられたのは初めてではない。けれどギロロに向けられるのは初めてだった。恐怖よりも、悲しさがわたしの表情を歪ませる。
「こちらに戻れ」
「死ね、と言われるほうがマシだわ」
「お前のことはオレが守る。だから、ここに残れ!」
「イヤよ。何もかも背負ってしまおうなんて、簡単に決めないで」
「…………オレはお前を撃ちたくない!」
「それでこそギロロ。命令がきたら、ちゃんと撃てるよ」
場に似合わない笑顔を、わたしはギロロに向ける。彼は撃ちたくない、といった。綺麗な彼に似合いの誠実な言葉だ。撃ちたくない。それは彼の気持ちだ。出来ない、わけではない。彼に撃たれるのなら本望だ。もう、つらい思いをせずに済む。わたしが死んでも世界は終わらないだろう。もちろんわたしが殺した人々が、生き返るということもない。
けれど現実はそう上手くいってくれないのが常だった。突然、ビルの合間から何かが飛び出してくる。わたしは瞬きの間にそれが味方の機体だとわかって、心底がっかりした。
「さよなら、ギロロ。わたしにも味方はいたみたい」
仲間だとは言わない。思ったことなどない。
機体から垂れたロープに反射的に捕まると、ぎしりと腕が鳴った。ギロロが唖然とわたしを見ている。彼の赤い体が、わたしの視界に最後まで残っていた。
「!」彼の声だけが淀んだ心に綺麗ににじむ。
やがてビルの合間に隠れた機体は、ぐんぐんと上手く障害物を避けていく。ロープをのぼることもできたけれど、わたしはそれをせずに待つことにした。彼がわたしを殺せなかったツケは、誰かが払わなければいけない。ギロロに殺して欲しいなんて贅沢は、この際言わないことにした。
風が一段と強くなり、片手で握ったロープに力を込める。さえぎられていた光が、わたしを包んだ。同時に馴染んだ悪寒が背筋を這い上がる。狙われていると知ったのは、スコープを通してさえも溢れる殺気のせいだ。
あぁ、この人に殺してもらえるのなら。
それは、ギロロに殺してもらうよりも贅沢でわたしの罪を贖うには足りている。わたしは知らずに微笑んでいた。苦しみの先にある解き放たれた瞬間を思って、笑った。
けれどそれは一瞬で掻き消えた。姿は確認できない。でも知っている感触だ。必ずあたると本能が告げていた。それをした人に、心当たりさえあるのに。もうわたしを狙った人の気配さえ感じられない。わたしだけが、取り残されて生きている。
見放されたのだと理解した。
「殺しても、もらえないってことなの」
涙が溢れて、頬を伝って遥か彼方の大地に染みる。
ギロロを愛する彼の兄は、わたしを殺さなかった。罪を背負っていきろと無言で言われた。それが優しさでないことが、彼を愛したわたしにはわかる。
「…………オレはお前を撃ちたくない!」
わたしがいなくなっても、世界は変わらない。けれどギロロが消えてしまえば、わたしの世界は壊れてしまうだろう。
ガラガラと、崩壊の足音はもう背後まで迫ってきていた。
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