月曜日、学校帰りに小さな本屋に寄って文庫本を買った。どこにでもある恋愛小説で、本の表紙が気に入ったので選んだ。恋愛小説だとわかったのは、辛うじて帯にそう書いてあったからだ。『今年いちばん泣ける恋』などとうそぶいた文句は気に入らなかったが、そんなものは電車の中の中吊りにも溢れているので目をつぶった。
表紙は青い空に映えるひまわりが印刷されていた。透けるような青に黄色のコントラストが綺麗で、その小説は上中下と3巻でひとつの区切りになっていたのだけれど、買ってしまった。活字が苦手で夏休みの宿題も読書感想文だけを最後に残してしまう自分にとって、これは快挙であったが、それを誰かに言うつもりはなかった。
レジの人に「カバーはおかけしますか」と問われ、そう聞くうちにもすでにカバーをかけようとしているアルバイト店員の手を止めて、「結構です」と急いで答えた。こんな綺麗なものを、どうしてざらばんしのような手触りの、つまらないデザインが描かれた紙で巻きなおさなければいけないのだろうか。いつも疑問に思うことだ。エコにもならないし。


「こんにちは、ちゃん」


買ったばかりの本を読み始めて数ページ目で誰かに声をかけられた。声は知っていたものだからすぐにわかったのだけれど、わたしの頭の中では主人公が学校に行くところで運命的な出会いをするというベタな展開の真っ最中だったので、反応が少し遅れた。
座ってひざを立て、その上で本を開いたままの格好でわたしは顔をあげる。


「あぁ、睦実くん」


上を向くと、銀色だか白だかわからない髪をきらきらと反射させた造作の綺麗な少年がわたしを覗き込んでいた。睦実くんは立っていたから、座っているわたしは首を曲げなければ彼の顔を見ることはできない。睦実くんはにっこりと微笑んで、「何してるの」と尋ねた。


「本を読んでるの」


自分の姿を形容してみれば誰から見てもそうであるので、たぶん睦実くんへの答えにはなっていないと思う。しかもなんだか声までも無愛想に聞こえてしまったので、「正確には小説を」と付け足した。けれど予想外に空々しく響いてしまって、いいわけのように聞き取れてしまう。
睦実くんは「そっか」と笑った。優しい人だ。隣に座ってもいいかと聞かれたので、頷いた。


「どんな本?」
「まだ読み始めたばかり。だけど多分、恋愛モノだと思うよ」


帯を見せてあげればよかったのだけれど、気に入らないものをいつまでも付けておくのは嫌だったのでコンビニのゴミ箱に捨ててきた。コンビニのゴミ箱も不思議だと思う。あんな目立つ場所に、しかも屋外にゴミ箱があるという事実がおかしい。雨で濡れるゴミ箱を見ると、眉を潜めてしまう。不快感ではなく、奇妙な感じがするからだ。これはここに置くべきじゃないと、そう直感で思う。


「恋愛小説? へぇ。よく読むの?」
「ううん、今回は特別なの。ほら見て」


そう言って表紙を睦実君に見せた。自分が書いたものでもないくせに胸を張って、「綺麗でしょう」と満足げに言う。睦実くんは優しかったのでそんなこと突っ込まずに、また綺麗に笑う。


「うん、ひまわりの花弁が一枚一枚はっきりとしていて綺麗だね」
「でしょう。表紙に一目惚れして買ってきたの」
「それで読書中だったんだ。あ、ごめん。オレ邪魔かな」


ごくさりげない調子で睦実くんは謝ってくれる。だからわたしも優しく首を振ることが出来た。会話のいちいちに彼の配慮が含まれているのを感じて、とても嬉しいのだけれど申し訳なくなる。彼はわたしと一緒に会話がしたいわけではないのだ。


「睦実くんは学校の帰り?」
「うん、今からラジオの収録なんだ。ここは近道で」
「そっか」


会話の糸口を見失って、わたしは黙る。もっと聞くことはあるし、会話など作ればいくらだってあるのだが、今はこれ以上なにも話すことはできないと思った。自分から喋りはじめれば睦実くんの返事には、わたしの望まないものが入っているはずなのだ。もう見つかってしまっているのだから後悔するのは遅い。彼が隣に座っていいか聞いたときに拒否していればよかったのかもしれない。
予想通り、睦実くんはわたしの表情を見て少し困ったあとでこの日いちばんの柔らかな口調で言った。


「よかったらラジオの見学でもしていく?ここで本を読むのは危ないし」


最初の誘いはたてまえで、彼の言いたいことはつまりここからわたしを助け出すことだった。彼の目に自分がどう映っているのか考えて、わたしは不安になる。哀れまれるのも、精神を疑われるのも嫌だった。
平気だと言えたならよかったのだけれど、言っても納得してもらえなかっただろう。


ちゃん?」


睦実くんの声は少し高い。わたしは開いたまま持っていた本を閉じる。


「ラジオの見学、したいな」


意識して笑うと睦実くんは少しだけ困った顔をした。
わたしが率先してラジオの見学に行きたいわけではないことを知っていてくれている。それでもこんなふうに救い出してくれる彼はとても親切で我慢強い。
わたしは本をしまってそっと気を配りながら立ち上がった。睦実くんも立ち上がって、いささか強引に右手を繋がれる。


「にしても、どうやって登ったか聞いてもいいかな」


繋いだ右手を引かれれば、わたしは安全な地面の上に立つ。振り返り自分が先ほどまで座っていた場所を見る。なんのことはない屋上だが、てすりもなければ柵もない。屋上へのぼる階段さえない剥き出しのコンクリートの上で女の子が読書をしていれば、誰でも不思議に思うだろう。わたしは向かい側の、少し高いビルを指差した。


「あっちから、飛び移ったの」
「………あぶないよ」
「あはは。ごめん」


謝ったけれど、本当に悪いと思っていればやらないはずだろうと思ったし、彼の注意が一般的過ぎたので反抗できないだけだった。
わたしは睦実くんのラジオ放送を見学させてもらわずに帰ることにした。屋上から彼愛用のペンのおかげで無事に本物の地面に着地したあとで睦実に告げると少しだけ不安な顔をしたので、ちゃんと家まで帰ると約束した。きびすを返してさっさと去っていくわたしの背中に、彼の声がかかる。


「今日は、夏美ちゃんちに行かないの?」


その質問に、ためらうことなくわたしは答える。


「行かない」


振り返って笑顔を作ったつもりだったけれど、上手く作れてはいないと思った。
文庫本3冊分の重さを増したかばんは、少し重い。






























(09.01.30)