小説はその世界に入ってしまえば意外と苦にならないものだなと思ったのは、ひまわりの表紙が印象的な文庫本のちょうど半分を読みきったころだった。主人公は運命的な出会いをした男性を探すのだが、さまざまな苦難にあってだんだんと恋にかまけていられなくなる。けれど辛いときや苦しいときに考えるのは、二言三言しか言葉を交わさなかったあの男性であって、思い出せば恋しくなるのだけれど明日もがんばろうと元気になっていくのだった。
あしながおじさんみたいな小説だな、とは思う。この男性は彼女を現金で援助しているわけではないが、生きる手助けをしているという点では同じだと思えた。探したって見つからないのに、必ず存在していてここぞというときには助けてくれるスーパーマン。
けれど、彼がすごいのではない。この主人公が単純で一途過ぎるのだ。こうと決めたら他が見えなくなるタイプなのかもしれない。
「殿、みっけ」
主人公が花屋でバイトし始めたところで、軽い声がした。けれどわたしは無視をして、彼の声が聞こえなかったふりをする。せっかく読み進めたというのにここで横槍を入れられたくなかったし、なにより相手が相手だったので無視をしてもかまわなかった。
「え?我輩もしかして無視されてるんでありますか? おーいっ殿!」
主人公のバイトは最初こそうまくいかなかったけれど、順調に作業を覚えていく姿はとても親しみやすかった。バラの棘で出来た傷が化膿して、病院にいくまで悪化させるのは少し馬鹿だとは思ったけれど。
「ちょっとー、せっかく見つけたのにその態度はないっしょー? 本なんて読んでないで我輩のお話聞こうよー」
主人公がバイトをし始めて三ヶ月、ようやく結婚式のブーケを任せられることになった。花嫁があれこれと注文をつけるのを献身的に受け止めながら、試作品を次々に作っていく。その間にも泣きたくなると、あの男性のことを考えて自分を奮い立たせて頑張る主人公は、けなげと言うよりはたくましすぎる気がした。
「あーもぅ!強硬手段であります!!」
「あ!」
ばっと文庫本を取り上げられて、目の前に並んでいた活字の群れは緑の蛙へと変貌した。あからさまにむっとした顔をケロロに向けたが、彼も相応に苛々していたので効果はない。むしろ彼は自分が悪いことをしたなどと考えていなかったので、わたしの表情にさらにお怒りのようだった。
「我輩の声聞こえてたっしょ? 殿」
「…………」
「はいはい。黙るのなしだから。これだから最近の若者って嫌だよねー」
おじさんのように肩を竦めて、わざとらしくケロロはため息をつく。
わたしは観念して、彼に謝った。無視をしたのは悪かったと思った。ただ昨日の経験も含めて話しはじめたり許したりしたら、そこでゲームオーバーな気がしたのだ。
「ごめん、ケロロ。無視はちょっとやりすぎた」
「わかればよろしい。だけど殿・・・・・・・・こんなところで本読んでて、よく落ちなかったでありますなぁ」
わたしの座った場所、ぶらぶらさせた足は地面と数十メートル離れている。ケロロは彼専用のソーサーに乗っているので危なくないが、わたしのいる場所は普通に考えれば危険だと言えるだろう。
「木登りは得意なの。すごいでしょう」
「すごいっつーか。呆れるっつーか………。現代の若者は松の木なんて登らないでありましょう」
「さっきは最近の若者って言ってたのにー」
あっさり意見を翻すケロロにふくれて見せる。ケロロはどこかの疲れた親父みたいに頭をぼりぼりかいたあとで、文庫本をわたしに返した。
幹が太くて登りやすかった松の木は、町を少し離れているところにある。
「それしまって。とりあえず我輩のソーサーに乗ってほしいであります」
「まだもうちょっと読みたいのに………」
「もう日が落ちるし、危ないっしょ。家まで送るから、大人しく部屋で読むのでありますよ」
「……………」
「殿。返事は?」
はぁい。若者らしく間延びした声で答えて、わたしはかばんに文庫本をしまった。強制終了はこれで二度目だ。一度目は月曜日に睦実くんから、そして今日。
ケロロの後ろ、ソーサーにのって彼の腹に手を回す。わたしが酔わないようにゆっくり運転するケロロ越しにオレンジに染まり始めた空が見えた。
「昨日、夏美殿に誘われたでありましょう?」
前を向きながらケロロが問う。彼が言っているのは、夏美ちゃんに具合を聞かれた昨日出来事だろうと考える。彼女は心配そうにわたしの教室に来て、明日は遊びにきてねと伝えたのだ。別にわたしが行かなくても、日向家には何の問題もないように思われるのだが、彼女の表情があんまりにも曇っていたのでその場では行くと答えてしまった。
約束は、水曜。今日だった。
「行けなくなったって、メールはいれたよ?」
「それは夏美殿から聞いているでありますよ」
「じゃあ、なぜ探しに来たの」
連絡もせず約束を破棄することなどしてはいなかったし、嘘だってついていない。読んでしまいたい本があるからと言うのは立派な理由だと思えたし、彼女をそれほど傷つけるものだとも思えなかった。
ケロロの帽子がぱたぱた揺れて視界をふさぐ。
「むしのしらせ、でありますかなぁ」
「それ、冬樹くんの受け売りでしょ」
「あは。バレた?」
声は軽くて、どうでもいい会話をしているようにも聞こえた。実際にはちっともどうでもよくなかったのに。
「我輩の勝手な心配でありますよ。殿が松の木の上で、本読んでるんじゃないかなーって」
「その割には驚いてたくせに」
「いや、実際に見てみると女の子がひとりで松の木の枝に乗っかる絵はシュールすぎて、我輩耐え切れなかったのでありますよ」
先ほどまで無視されて怒っていたはずなのに、今はもうケロロの機嫌はすっかりいいようだった。自分を探してくれるなんて、本当ならば泣いて喜びたいほど嬉しいことなのかもしれない。探して欲しいと望んでいるのなら、なおさらそうだろう。
でも、わたしの目的はもっと別のところにある。
「ケロロ」
「なんでありますか?」
「……………ごめんね」
まわした腕に力を込めて、呟く。ケロロはまた明るい会話をしてくれたけれど、わたしは聞いていなかった。少しだけ絶望していたし、そんな自分に落ち込んでいた。
待っていたのはあなたではないなんて、優しい彼には伝えられない。そんなことを考えてしまっている自分がすごく淀んでいるように思えて、明るい夕日を見ていられなかった。
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