「へぇ、今日は大人しいんだな」


おはようとか、こんにちはとか、そういう挨拶的なものはこの人の頭の中にはないのだろうか。それともその程度の相手だと思われているのか。礼儀を欠いてもいいんだと。
そうだとしたら心外だなぁと思って、は自室の窓を見る。いつのまにか黄色い物体が足をぶらぶらさせながら、窓の桟に腰掛けていた。


「クルル、わたし読書中なんだけれど」
「見りゃあわかる」


それじゃあ、わざとか。
わたしはため息をついて、視線を本に戻した。開いた窓から冷たい空気が入ってきたけれど、これみよがしに閉めてやるのもなんだかしゃくだった。
本は、上巻を読み終えようとするところだった。花屋の少女は順調に働き始め、お客さんの一人に告白までされている。文字の中からでもわかるほど誠実そうな大学生で、主人公は運命の人を思いながらも彼に惹かれていくのだ。彼女の生活も、恋も、まるでうまくいくように見えるのだが、まだ三冊のうちの一冊目だと思うと気が重くなる。すべてが体よく進むわけがないことを、はじめから知っている失望感。


「おもしれぇのかねぇ。そんなの」


わたしの気分を読んでいるのだろうか。クルルが心底つまらなそうに言う。彼は窓の桟に座っているから、クッションに座っているわたしは見上げる格好になる。


「それなりには」
「………オレはこっちのがおもしろいゼェ」
「こっち?」


首を傾げると、彼は身軽に部屋の中に着地する。降りてくるなら窓を閉めてほしい。
わたしの額に、クルルのひんやりと冷たい指先が触れた。


「おまえの考えてることだよ」
「…………なんのことやら」
「クックッ。わかってんだろ?…………お前の奇妙な行動のせいで、日向家ではちょっとした話題になってる。ビルの屋上に木の上、お前は誰にも見つからなかったらどうしたんだよ」


知っていながら見過ごしたあなたに言われたくない。
思ったけれど、それはとても我侭な八つ当たりのような気がした。わたしは確かに一般的な女の子は行く場所としてはふさわしくないものばかりを選んでいる。ビルの屋上は隣のビルから飛び移ったから、もうどうしたって誰かの力を借りられなければ降りることなどできなかったし、松の木だって登ったはいいが降りられなくなることなど知っていた。
知っていた。わかっていた。それでもわたしは実行した。


「…………もっと楽なやり方があるんじゃねぇの?」


クルルは、今度はわたしを見上げて言う。お見通しの声だった。もしかしたら睦実くんが来てくれたのも、ケロロが迎えにきたのもクルルが関わっているのかもしれない。自分が来るのが面倒だから、わたしを助けるための誰かを派遣したのかもしれない。真実は、わからないけれど。
自分の部屋はとても居心地よく整えてあるのでクッションも絨毯も、ふんわりとわたしを優しく包む。クルルの声すら、優しく聞こえるようにしてくれる。


「楽なやり方?」


それなのに、わたしの声はちっとも優しくなかった。


「無理だよ。クルル」


だって、とわたしは自分でもわかるほど不恰好な笑顔を作った。


「わたし、まだ若いの。だからそんな、人生をやり過ごすための楽なやり方なんて知りたくない。ぶつかってもがいてあがいて、そうしなきゃ満足に答えすら出せない」


誰かに迷惑をかけたって、振り返る余裕なんてなかった。賢いやり方ではないのは知っていたけれど、それ以外考えられなかった。そうするしか、答えなんて出ないような気がするんだ。
クルルは信じられないという風に首を振る。


「…………もっとうまく楽しめよ」


最後の忠告だった。わたしは笑えずに、手元の本に視線を移す。ひまわりが表紙の文庫本は、上中下の三巻ある。今日は金曜日だから、明日からたっぷりと時間を割いて本を読める。二日であとの二冊を読んでしまおうと、決めた。








































(09.01.30)