日曜日の朝、わたしは固い床の上で目を覚ました。いや、起こされたといった方が正しい。本を読んでいたので壁に寄りかかるようにして眠っていたのだが、揺れる頭を正面から殴られた。鮮やかな痛み。殴られるなんて行為は、さすがにもう親にさえされたことさえなかったので驚いた。目を開くけれど何にも認識できず、座っているわたしの目の前にたつ赤い二頭身の物体だけが寝起きの眼には辛かった。
わたしはふらふらと頭を振り、それでも覚醒しきらずふやけた瞳を何度も閉じかける。どうでもいいやと意識を手放そうとした瞬間に、今度はおでこに強烈な一発をくらった。ぱぁん!ハリセンのような平べったい紙製のものが、わたしの頭上から落ちてきておでこを見事に強打する。溜まらずばっちり目を開けたわたしが見たのは、二足歩行する赤いダルマ。
「あ、赤ダルマ?」
「誰が赤ダルマだ!!いい加減に起きろ!!」
頭から湯気を出して怒鳴りつけられる。起き抜けにその叫びはやはりきつい。目にも耳にも優しくない男だ、と思った。
わたしは、けれど座り込んだままでギロロを見た。先ほど頭とおでこを強打したものはやっぱりハリセンだ。右手に構え、左手は苛々と腰に当てられている。彼の額にはいくつもの青筋がたっているので、すごく怒っているのがわかった。目つきも、目の色も、全部いつもの彼とは違っている。日向家の庭にいるときのような、穏やかさなどどこにもなかった。
「……………いいか。俺の質問に簡潔に答えろ。こっちは貴様を探し回って疲れてるんだ」
「………はぁい」
探し回って疲れているんだ。
それはどれくらいだろう。家に戻らなかった土曜日の夜、もう彼はわたしを探すために奔走してくれたのだろうか。それとも夜中、両親が友人にでも電話を駆け回って夏美ちゃんの家にも連絡をとったのだろうか。
何を聞かれるんだろうと嬉しくなった。場違いに興奮して、クイズを出される前の緊張感を味わう。わたしは待っていたのだ。
「お前は、どうしてこんなところにいるんだ」
期待した質問と一言も違わず、ギロロは聞いてくれる。わたしは更に嬉しくなった。
「本を、読んでいたの」
「本?」
「そう。三冊でひとつのストーリーになっててね。一晩かけてやっと読み終えたのよ」
「本なんて、家で読めばいいだろう………!」
「ダメなの。どこか集中できる場所で読みたくて」
家じゃほら、お母さんとかお父さんとか、朝ごはんとか昼ごはんとか夕ごはんとか、お風呂とかはみがきとかケータイとか、こまごまとした日常生活に終われちゃうでしょ。そういうの全部抜きにしたかったの。小説の世界だけに浸りたかったの。
いっぺんに言うと、ギロロは心底呆れた顔をした。彼には夜通しで本を読みふけることも、生活を投げ打ってでも陶酔しなければいけない理由もわからないのだろう。
わたしだって、わからない。
ただ小説と言うのが上手い具合に暇をつぶさせてくれそうだと思って、それならばいっそ小説だけを読んですごしたかっただけだ。本が純粋に好きなわけではない。
「だからと言って……こんな場所でそんな格好でいるのは風邪を引くだけだろう」
「あ、ギロロ賢い。いやぁ、寒くってさぁ」
「五月蝿い!貴様は大馬鹿だ!!」
彼らしくない怒鳴り声が、両耳から入って脳を震わせた。わたしは善良な子供だったので怒られることも慣れておらず、きょとんとして彼を見る。何を怒っているのだろうか、そんな目で。
不況の煽りを食らって倒産した会社の廃ビルに、わたしは一人で座り込んで本を読んでいた。窓ガラズがところどころ割れていたので、夜のうちは木枯らしが吹き込んできて寒くて仕方なかった。家から持ってきていた電池入りのスタンドだけはほんのりと暖かかったが、それも手元だけだ。小説を読み進めるうちに体は本当に冷たくなっていったし、足先はどんどん感触をなくしていった。そしてやっと三冊目を読み終わって、わたしは寒さにも慣れた体が睡眠を要求していたのも手伝って、それに意識を預けた。それだけ。彼にとっては、それだけのことを怒っている。わたしにとっては、違うけれど。
「………ごめんね。みんな心配してるよね」
とりあえず謝るのがセオリーだし義務だとわかっていた。そして、わたしが書いたシナリオでも、謝ることで収拾はつくことになっている。空の上から描く、わたし専用のタイプライターはどうだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、いきなりギロロがわたしを睨んだ。きつく力を入れられた目が、少しだけ怖かった。
「そんな気もないのに謝るな。余計、頭にくる」
「え?」
「それくらい、わかると言ってるんだ。それとも何か。貴様にとっては謝ればそれで済むというほどの存在なのか。昨日の朝から探し回っている俺たちは、とりあえず謝っておけば許すと?」
彼の短く赤い腕が、わたしの顔の横を猛スピードで通過して壁にめり込む。わたしは反射的に体をびくりと震わせた。座りこんで麻痺しているはずの体が面白いくらい飛び跳ねる。
昨日の朝から?
嘘だ、と頭の中で誰かが言う。わたしは早朝に出かけたけれど、ちゃんとお母さんにはどこに行くかを告げたし、かばんを背負った女の子なんてざらにいる。家出中なんて誰にも公言していない。でも、彼はわたしよりもっと嘘をつくような人ではなかった。
「ふざけるな。……………もう一度だけ、聞いてやる」
今までにないほど、わたしとギロロの距離は近かった。けれど今までに交わしたどんな言葉よりも、ひどく重くて苦しくて悲しかった。彼は怒っているのだと、本当の意味で理解する。
彼の唇がゆっくりと動き出す。牙のような八重歯が、動きに合わせてちらりと見えた。
「お前は、どうしてこんなところにいるんだ」
予想していた問いのはずなのに、意味も答えもわたしの用意していたものと比べ物にならないほど現実味を帯びていた。指先が、寒さのせいではないのに震えている。
怖いのだろうか。ギロロが、目の前にいる異性人が、恐ろしいのだろうか。それとも、今更自分のしてしまった罪を悔いているのだろうか。みんなに心配をかけて自分のしたいことをしたいようにした、自分自身を責めているのだろうか。
違う。
わたしは間違っては居ない。だってなぜなら、望んだとおりにことが運んでいるからだ。
まだ震える腕を動かして、わたしはぎこちなくギロロの顔を両手で包む。ギロロは怒った顔のままだ。それでもかまわず、わたしは彼に口付けた。一瞬だけの、触れてすぐに離したけれどそれはちゃんとキスだった。
顔を離して彼を見ると、怒りよりは困惑が彼の表情を満たしている。わたしはそこでようやく笑った。その顔が、見たかった。
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