物語の話をしよう。
花屋の少女は、運命の人との再会を果たしていつも以上にすべてに努力した。どんな花でもいいところを見つけて熱心に説明し、誰の目にも留まらない小さな花を愛し、小さな男の子の花束でも一生懸命作った。彼女がひとつひとつを成功させるたびに、運命の人はいちいち喜んでくれる。共感してくれる。褒めてくれる。見返りがしっかりと返ってくるのがわかる喜びが、わたしにはわからない。経験をしたことがないからだ。
幸せなときは短いと言うけれど、わたしにはその「短い幸せ」のくだりがものすごく長くてつまらなかった。好きな人がいるパワーは恐ろしいものがあるのだと感心したくらいで、それが現実にあるものだとは思わなかった。だから、彼女の運命の人に婚約者がいたとことがわかっても、その現実はわたしが考える残酷な日常に酷似していたので、そちらのほうが馴染みやすくわかりやすかった。
人の不幸は蜜の味?
違うね。だって、恋なんてそんなものじゃないか。
「…………………な、にをして」
歯の隙間から、うめくようにギロロの声がした。彼はわたしの頭の横にこぶしを立てたままだったので、先ほどと距離は変わらない。飛びのかれると思っていたから、彼がまだ近くにいるというのは嬉しかった。
「ねぇ、ギロロ。馬鹿な花屋の少女の話をしようか」
「は?」
「馬鹿な花屋の少女はね、大好きな彼に愛する人がいたってことを知ってとても落ち込むの。泣いて泣いて泣きぬいて、けれど彼の前では笑ってて」
「お、前………なにを」
「そうして我慢しているうちに、彼からトドメをもらうのよ。『どうか、僕の結婚式のブーケを作ってくれないか』」
優しさだけが詰まった袋で出来た男は、あまりにも残酷な言葉を吐いた。少女の気持ちを踏みにじったことなど彼は知らない。自分も少女を応援するその他大勢と一緒だと勘違いしている。自分を目で追う人の存在など、誰かを見つめすぎていて気づかなかったのだ。
少女は頷く。喜んで、作らせていただきます。
「わたしは嫌だった。誰かを愛することは、その誰かを受け入れて許すことだって言うけれど、そんなの違うよ。自分のすべてをかけて、その人の幸せを願うことでもない。きれいごとなんていらないんだ。だって、ありえないでしょう。誰だって自分が幸せになれないなんて思いたくないのに!」
座ったまま、腕を床に叩きつける。
幸せになりたいのは誰だって同じのはずなのに、自分の幸せを優先させてしまうのは何故だろう。他よりも価値があるものだと思ってしまうのはなぜなのだろう。頭ではすべての価値は平等だと信じているのに、いつのまにか手が出てしまう。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。けれどギロロを睨んだまま、わたしはまばたきすら拒んだ。
「好きよ、ギロロ。もう、わかってしまっているだろうけど」
思い出すのは、柔らかな日向家の庭。わたしと話していたギロロが突然立ち上がり、わたしの横を急いで通り過ぎる。途端、明るい声。わたしは頭の片隅が暗く沈むのを感じる。首をひねり、腰を浮かして後ろを振り返る。夏美ちゃんとギロロがいる。あぁ、そんな嬉しそうな顔をして。
そのとき右腕が動いたのは、なぜだったのかわからない。無意識のうちに右腕が浮いていた。そして届くわけでもないのにまっすぐ、ギロロの元に伸ばされた。
届くわけなんて、ないのに。
『…………ちゃん?』
はっきりと覚えている。夏美ちゃんの困惑した声。八の字になった眉の角度も、傾げられた表情も、着ていた服の色や影の具合まで全部記憶している。
それがほしいの、なんて言えなかった。
わたしは曖昧に笑って、なんでもないと答える。本当に、彼女にとってはなんでもないことだ。
次の日からわたしは日向家に遊びにいくことをしなくなった。その日まで毎日通っていていたから皆の目には不思議に映ったことだろう。不自然に奇妙に、ただならぬことだと。皆がそう思ってくれたのなら、わたしにも少しは罪があるのかもしれない。けれど、欲しかったものがあったのだ。どうしても、欲しかった。
「追ってきて欲しかったの」
目頭は熱くなる一方で、涙をこらえるので精一杯だった。ギロロはわたしの声を聞いてくれている。
「わたしだけのために、わたしのことだけを考えて、ギロロの全力をかけて」
他の誰でもない、あなただけが。
入り口のない屋上や、人気のない森の木の上、それに廃ビル。わたしだけを探してくれなければ、見つけられない場所に身を潜めたのはそのせいだ。
「一瞬でよかった。わたし、全部手に入れたいって思うほど子供じゃない。それが無理だってことも知ってる」
叶わない願いだって、理解している。でもだからって、諦める理由になんてならないでしょう?
だから一度だけでいい。本当に一瞬だけでいいから、わたしを見て欲しかった。それを罪だなんて思わないし、罪悪感だって感じない。後悔なんて、するわけがない。
「だから………ありがとう」
ずっと探し回ってくれた、あなたがいてくれたからこんなに嬉しい。
優しいだけの男なんて、なんの価値もない。でもそれと同じように優しいだけの女にも価値なんてないんだ。花屋の少女は大好きな彼のためにブーケを作った。それとは別に、彼に大きな花束を贈った。ひまわりばかりが沢山の、大きな花束。
ひまわりは太陽に恋をしているというおとぎ話がある。見ているだけのひまわりは、まさに彼女そのものだった。そんな彼女に同情も共感も、してやらない。
「…………」
わたしは確実に一歩を踏み出した。根っこのついたひまわりには出来ない芸当を、やり通して見せた。太陽がいくら遠くても、わたしが動けば近づくし、努力をすればどんなにちっぽけな存在だって気づいてくれるかもしれないんだ。
「…………もっとうまく楽しめよ」
ごめん、クルル。わたしにはやっぱりこんなふうにしか、前に進めそうにない。
ギロロは視線を落としたわたしを覗き込む。頬に、熱いものが流れた。
「泣くな」
「…………泣いてなんか、ない」
「嘘をつけ。泣いている」
「泣いてないったら!」
「……………頑固だな。じゃあ、仕方ない」
赤い指先が、わたしの頬を不器用に撫でた。流れた涙のあとをなぞって、ゆっくりと慎重に動く。
「持ち主がわからん涙なら、俺が預かっておいてやる。………だから、気の済むまで泣いておけ」
そんな愛しい声で、あんまりにも優しいことを言うギロロはずるい。だからこんなにも涙は溢れてて止まらずに、誰のために泣いているのかさえもわからなくなってしまった。
わたしのために、ギロロのために、心配してくれたみんなのために。けれどやっぱり誰のために泣いているのかわからなくなってしまっていて、涙は決壊した川を思わせるほど流れ続ける。わたしの中にとどまって腐ってただれてしまっていた汚い気持ちも全部、流れ出してしまえばいいと思った。
新しい自分ではなくて、もっと強い自分になりたかった。たとえば空に浮かぶ太陽さえも、手に入れてしまえるくらいに。
「ありがとう」
わたしはかすれる声で、しゃくりあげながら言う。ギロロは答えない。ただそこにいる。抱きしめるわけでもなく、手を握るわけでもなく、あやしてくれるわけでもないけれど、そこにいてくれる。それがこんなにも嬉しいことだなんて、思えるわたしをわたしは誇りに思った。
ずっとなんて願わない。もうこれっきりでいい。
だから、この瞬間だけは。
今だけはわたしだけのギロロでいてください。
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