頑固で融通のきかないギロロがクルルの提案を断って出て行ってから、ラボの中には不機嫌なオーラが充満していた。乱暴に叩かれるキーボードの上では、小さな黄色い指がせわしなく動いている。クルル自身にも言いようのない苛立ちを感じていることがわかっていたが、ギロロがわけのわからないことを自分に求めてくることに対しての怒りのほうが勝っていた。
クルル、お前は何もわかっていない。
だったら、何故オレに聞くんだ。他でやってろよ。
自分の言葉のどれかが――無論、すべてかもしれないが――ギロロの逆鱗に触れたことは認める。だが、せっかく考えてやった提案に何故ケチをつけられなければいけないのだろうか。元々クルルにとっては興味の対象外だった。日向秋の職場でアルバイトをしている平凡な女くらいにしか覚えておらず、名前だってギロロに教わるまで知らなかった。そんな女から連絡を取りたいのだと言われても、こちらとしては対処のしようがないように思えた。しかも他人を通して話を持ちかけるというのがなんとも厭らしい手口のように感じていた。
「わかってねぇのはどっちだよ」
吐き捨てて、クルルは画面を消した。いっきに光を失ったラボの中はうっすらと照明を残すだけでひどく暗くなる。その中で椅子に高々と足を組み直しながら、クルルは虚空を見つめた。
十中八九、ギロロはとメールを始める。
頭の中ですぐに答えが出て、クルルは声も出さずに笑う。始めに断れずクルルの元まで来たのだから、ギロロがの望みを断りきれないのは予想が出来た。加えて、あの想像豊かな歩兵はの恋愛まがいの行動に自分を重ねてしまっている。ばかばかしいことこの上ないが、ギロロが「わかっていない」と叫ぶのは自分自身のことも含まれているのだ。そう思うと更に辟易するとクルルは思う。
ほどなくして、クルルの予想通りギロロはメールをし始めた。断りきれなかったのか、言い出すことが出来なかったのかはわからない。
「こんにちは………あの、クルル、いる?」
数日後、ギロロとの喧嘩じみたやり取りや予想通りの結果を忘れたころに、その女はやってきた。ラボの前にたたずむ姿をカメラに回し、姿が映ったとき一瞬だけ考えて、次に浮かんだのはひどく面倒くさい展開だった。ラボの前、見慣れない来訪者はであり、ここに来るということは自分には計り知れない――まったく理解したいとも思わない――要件であることに間違いない。
それなのにラボの中に招き入れたのは、自分が思う以上にギロロがどんなことをしているのか興味があったからなのかもしれない。少なくとも自分の名義を貸しているのだから。
「えと、久しぶり。クルル」
面と会うのは本当に久しぶりであるのだから、目の前の女がこういうのも無理からぬことだ。クルルはの言葉ひとつひとつから、順当に選択肢を消していく。ギロロのことだから優しくしたに違いない、想像したくもないオレに、この女が共感でも抱いていたりしたら問題だ。あくまでも「嫌われる」ようにと注文をつけたにも関わらず、は怒っているわけでもないようだった。ギロロはどうやら脳みそをフル回転させても、に嫌われることすら満足できないらしい。クルルは内心で激しくため息をつく。
「……要件を聞こうかぁ。オレはあいにく暇じゃあないんでね」
「あ、うん」
ラボに散らばるこまごまとした機械類に目を奪われていたに言ってやれば、はっとしてこちらに向き直る。その瞳に若干の戸惑いがあるのが、すぐに理解できた。けれどが言い出したのは、あまりにも唐突で予想もしない問いだった。
「やっぱり、あなたじゃないのね」
眉を下げて、困ったように悲しそうな顔をしたは、小さいけれどはっきりと通る声で言った。残念だというよりは、簡単な問題の答えあわせをし終えたような悲しみが彼女を包んでいるようにも見えた。それか、もう少し遊びたかったのに遊具を取り上げられて諦める前の子供のような感じに。
クルルはいぶかしむように唇を曲げた。その表情が気に入らない。はすぐにクルルの機嫌を損ねたことをわかったようで、頭を下げる。
「ごめんなさい。不況を買いに来たわけじゃないの」
ただ、とは傾けた頭のまま視線をラボの隅に這わせる。
「ただ、確認しに来たの」
そこでは苦しそうに瞳を細めた。胸の前で右手のこぶしを握って、ゆっくりと上下する呼吸にあわせるようにして、傾けたままだった体をゆっくり起こした。
悲しそうな瞳はまだそのままだった。苦しそうに話すので、どこか病気なのかと思うほど。クルルは言いたいことなど山ほどあったというのに、言葉が詰まって何も言い出せなかった。はもう一度丁寧に謝って、ラボを出て行く。彼女の後姿は影を背負っていた。
「…………さぁ、ここからどんな展開が待っているのかねぇ」
そして現在、彼女の動向を観察していたクルルはドロロの地下庭園で向かい合う二人を監視カメラ越しに見ている。の告白に対するギロロの対処は素早かった。あの堅物の親父にしては褒めてやってもいいほどに、パソコンを開きからのメールを受信し、ためらいもせずに走り出した。あの行動力には舌を巻かざるをえず、飛び込んだ先で自分の犯した罪を粛々と謝った姿は見事でさえあったように思う。
対するは、表情も変えない。驚いた様子も落胆したようすもなく、クルルには計り知れない顔をしていた。だが少なくともはギロロのしたことを知っていたはずだ。
では彼女の行動の意味とは何なのか。
「ちったぁオレ様好みにオモシれぇじゃねぇか」
画面の光の中、不気味に笑いながらクルルは呟く。
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