広がるのは深い深い青に色づけされた世界。わたしはそれを瞳に写しながら、ぼうとする頭の隅でそれが何かを必死に考えていた。数秒後、この大地を埋め尽くす青い液体の名前をようやく理解する。
あぁ、『海』だ。
見たことがないわけではない。 わたしの故郷にだって海はあったし、青かった。おまけに広くて冷たくて、恐ろしい魚ばかりだったから泳いだことはないけれど、見ているだけで優しい平和な気持ちになった。あぁ、だから一瞬これがなんなのかわからなかったに違いない。今の状況は、平和と呼ぶには少々物騒すぎる。
『こちら本部。“バタフリー”応答せよ』
耳元に届いた無機質な女性の声に、無意識に返事をする。戻ってきた返事は、まるでわたしの答えなど待っていなかったように素早かった。わたしは彼女の声をさざ波と一緒に聞きながら、手に持ったライフルを握りなおす。
「任務了解。ポイントに向かう」
そう返事をするのと同時に通信が途切れた。オペレーターという肩書きでしか知らない彼女はきっと自分のことも役職でしか知らないのだろう。そう思うとひどく自分が滑稽なもののように思えた。わたしは彼女の算出したポイントで敵を迎え撃たなくてはならない。それなのに、わたしの命を預ける相手の名前も知らないなんて。 障害物だらけの浜辺を素早く移動しながら自嘲した。子どものころに遊んださらさらの砂浜はここにはない。あるのは撃ち落とされた敵機の残骸と破壊され抉られた大地だけ。移動するのにこんなに容易いところもない。オペレーターの彼女はそれを知っていたのだろうか。だが彼女の名前など、知っていたとしても仕方のないことだとわかっている。オペレーターは毎回変わる。覚えていたらキリがない。
「・・・・・・・言いワケね」
なぜオペレーターが毎回変わらなければいけないのか。その理由を知りたくないだけだ。 影に差し掛かり、上を向く。岩肌が立ちふさがった。ポイントはこの上らしい。しかしあがろうと思った瞬間に、微妙な臭気が鼻をついた。誰かいる。次に風。予想は核心に変わった。
気がつく前に右手の大きすぎるライフルを時空転送していた。まったく、戦場でのクセほど厄介なものはない。そうして握った両手のナイフをくるりと回し、今度こそ地を蹴り瓦礫の上に躍り出た。確認したのは三つの敵影。 待ち伏せか、それともこれは単なる偶然か。
「詮無いことね」
呟く声に反応する者はいなかった。もっとも腰を落として相手の懐にもぐりこみ、ナイフを回転させながらの独り言に返すやつなどいないだろうが。 倒した敵は顔全体を覆うマスクをしていてくれた。助かる。相手の死に顔は見たくない。自分がやったとしても、それだけは慣れない。ナイフを腰に戻してあたりを見回した。海を探せば、せり立った崖に自分がいるのがわかった。これは都合がいい。相手の体を持ち上げて、わたしは三人を崖の上から落としてあげる。
「生き物はすべて海から生まれたのだから・・・」
還るのが、自然の理でしょう。 三つの死体はやがて見えなくなってしまった。そうして、綺麗に片付いた崖の上で、わたしは空を仰ぐ。綺麗だとはお世辞にも言えないどんよりと曇った空は、まるでこの戦争の結末を嘆いているようだった。
『こちら本部。“バ タ・・・フ リー”・・』 「到着したわ。回線がイカれてるの?聞こえづらいわ」
コードネームさえまともに聞き取れない。耳元の無線機にイラつきながら、空を仰いで平地を観察し、障害物を探した。だが妨害電波を流すようなものは見つからない。
『・・フリー・・・“バタフリー”』 「オーケー。さっきより良くなったわ。感度の調子かしら?」 『強力な妨害電波のようです。無線を傍受されている恐れもあります』
初めて、彼女と長い会話をしたように思えた。ポイントの算出とわたしをコードネームで呼ぶ声しか聞いたことがなかったのだからあたりまえだが。
「いいわ。わたしはポイントについたし、傍受されてもどこから来るかわからない攻撃は防げないでしょ。それよりも戦局はどうなっているの。最新情報じゃなくて構わないわ」 『イエス。“バタフリー”それでは二時間前の情報を。こちらの空軍がやられました』 「そう。期待してないわ。自分の羽で飛んでいるわけではないものなんて」 『一時間前にはこちらの陸軍が、優勢であると伝えられています』 「陸軍?暗部は?」 『暗殺部隊“キラー・ビー”は、ただ今交戦中の模様です』
相変わらず無機質な声が、あたりに響いた。わたしは彼女と話をしながら、もう一度時空転送したビームライフルを、今度は地に組み立てた。重いのだ。持って連射など出来ない。 戦局は圧倒的不利のように思われた。初めから期待などしていなかったが、これほど絶望的だと涙も出てこない。
「ねぇ。一つ聞いてもいいかしら」 『イエス、“バタフリー”』 「あなた、男を愛したことがある?」
スコープを覗き込み、はるか上空の雲を見つめながら聞いた。厚い雲はいっぺんの光さえ通さない。肌寒いのは、きっと広がる荒野に死体ばかりが折り重なっているからだ。海に血の色が浮かんでいないのがせめてもの救いだろう。
『質問の意図がわかりません』 「あら、じゃあどう言えばいいのかしら。・・・・待っている男がいるとか」 『“バタフリー”・・・・私語は』
彼女の言葉が終わらないうちに、わたしはスコープから目を離さずに太ももから小銃を取り出し後ろに向け続けざまに撃った。ダダダ、と小気味いい音と共に倒れる音が重なる。振り向くことはしない。何が起きたのかは気配でわかる。
「戦闘中の私語は厳禁。それくらいわかってるわ。でも、こんなところで一人でいると気が狂いそうになるのよ」 『“バタフリー”・・・・あなたがですか?』
まるで笑うように相手の声が跳ねるから、こちらまで面白くなる。ビームライフルは構えたまま、今度は目を離し腰に巻いた手榴弾を二つ取り出す。歯で線を抜き、両手に持ち直し、スラリと立ち上がって、笑った。
「あなた、わたしを知ってるの?」
わたしはあなたの名前さえ知らないのに。 手に持った手榴弾を崖下に向かって優雅に投げる。お手玉を転がすように、サービスエースを狙う前のように。音にするならぽーんと、弧を描く。
『我が組織で知らないものはいませんよ。ミス“バタフリー”』
投げて十秒。その感覚は体内時計に刻まれた、消えない傷のようなもの。
『通称“無音の黒蝶”あなたの勘の鋭さと攻撃には、誰も近寄れない』
下で爆音が轟いた。叫喚の声が、切れ切れに聞こえる。散り際くらい綺麗にできないものだろうか。ビームライフルの元に戻る。 スコープを覗く。あぁ、やっとわたしの獲物たちが現れた。
「オペレーター。それは違うわ」 『は』 「わたしは戦場に逃げてきたのよ。弱い弱い蝶のように」
敵機を狙う。上空に見えるあれは空母だ。恐ろしく大きな腹を雲間にちらつかせながら、周りに小バエをはべらせ、戦況を覆すほどの飛ぶ悪魔たちを内に潜めて、ゆっくりと泳ぐさまはこの景色に似合わないほど緩慢だった。
この情景は、まるで彼に初めてあったときのようだ。 違うのは、立場と情景と心情。
手始めに、子バエを三機落とした。そして空母が気付く前に、あの分厚い壁の数センチの隙間にビームライフルをぶち込んだ。燃料タンクの真上、あの空飛ぶ鯨の構造は三十分前に理解したんだ。間違えるはずはない、あそこに撃てば、あのデカブツは呻く間もなく沈むはず。
「わたしには愛する男がいたの。でも、もう昔の話ね」
腹の底から響くような、爆音が海を震わせた。腹に火がついたデカブツは、悲鳴をあげる鯨のように一直線に海面に突っ込んだ。子バエが巻き込まれ、慌てて逃げだしたものの先に待つのは冷酷無比なビームライフルの狙い撃ち。
「全機撃破を確認。・・・・少し寝るわ」
喋りすぎたと舌打ちする。愛しているなんてことはもう誰にも話すまいと思っていたのに、戦場への興奮が舌を滑りやすくしているらしい。 無線機をこちらから落として、目を閉じて額を抑えた。横になりたい。
愛する人と別れてきてしまったのだから、ここに戻るしかないと思ったのだ。戦場と化しているこの海はわたしたちが生まれてきた場所でもあるのに、鮮血で染めてしまうなんて、わたしは罰せられるのだろうか。 もっとも彼のもとから逃げた時点で、わたしは罰せられるべきだったのだろうけど。
寝転ぶ瞬間に打ち落とした。あれはどこの追撃機だろう?
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