彼がわたしに星を買ってきた、と言ってのけたのはあの戦争のわずか二日後だった。
初めて出会ったあの戦場で、彼とわたしは笑いあったあと同時に自分たちの味方からの無線が入った。なんというタイミング!わたしたちは二人で銃をしまいながら、彼は任務完了の報告をわたしは任務失敗の報告をする。背中を合わせながら相手の声を聞いて、わずかに頬が緩んでいたのは同じだった。
けれど、わたしにはそれからの展望がまったくなかった。
例えば、好きあっている男女が思いを通じ合わせた先にある簡単な約束事だ。次に会う約束をしたり、キスしたり、相手をもっと知りたくなったり。カップルとか結婚だとか言う文字が頭に浮かんですら来なかったわたしだから、帰還するときにどうしても何を言ったらいいかわからなかった。彼に何を求めているのかがよくわからなかった。ただ彼を求めていることは明らかだったのだけれど。
そんなわたしの心情を察したのか、ガルルはある星の名前と座標を教えてくれた。そうして二日後にそこで会う約束をくれたのだ。わたしは頷きながら、また彼に会えると言うそれ一点だけに感動して彼がもっと深いところまで考えているなんて想像できなかった。 そう、間違っても星一つ買ってくるなんて。
「そうは言っても、無人の小さな星だろう?」
ガルルは事も無げにそう言ってのける。彼が中尉という称号でいくらもらっているかなんて計り知れないけれど、星を買うなんてわたしには到底無理だった。例え彼の言うように小さくて、水ばかりの大地にたった一つ島が浮かんでいるような星でも。
「金の使い道がなくて困っていたんだ。それに前から欲しかったしね」 「あら、それじゃわたしのために買ってくれたのではないのね?」
水に浮かぶ島に作った小さなわたしたちの隠れ家。木で出来たものがいいと彼がこだわるから少し月日はかかったけれど、ランプに照らされる木目の美しい窓辺はわたしも気に入っていた。持ち物が二人とも少ないから、箪笥は一つでも充分だったし我ながら簡素な部屋だ。彼が女性のほうが家には五月蝿いと思っていたと笑うから、ベッドを特注の大きさに注文してあげたけれどそれ以外何も必要ないと思った。彼と一緒に居られればよかったのだ。
「君のためだよ。星を買ったところで、一緒にいてくれる相手が居なければ仕方がない」
ロッキングチェアに揺られながら、彼はわたしに微笑んだ。わたしは彼に見えるように肩をすくめて、ワインを手渡した。そうして離れる間際に彼の頬に唇を落とす。長く一緒にいるようになってわかったのは、彼が恥ずかしげもなく言ってみせる言葉が多いということだった。一緒に居れば綺麗だと言われ、会いたくて戦争を早く終わらせてしまったよと笑い、久しぶりに会えばバラの花束を抱えているのが常だった。いわゆる口説き文句というやつに慣れていなかったわたしは彼がそれを言う度に冷めた視線を下すだけだったのけれど、一度それで彼が拗ねてしまったことがあるので今は頬にキスすることにしている。 ありがとう、なんて恥ずかしくて言えるはずもない。
「あのね、ガルル。わたしたちの幸運は、戦場で出会ったことだと思うの」
彼に向かい合うように座りながら、わたしは自分の分のグラスを見つめて言った。ワインはひどく冷たくて、グラスも冷やしていたから今の季節にちょうどよかった。ガルルはわたしの表情を見ようと首を傾ける。
「なぜ?」 「だってもし街中で出会ってしまっていたなら、わたしきっと銃なんて見たこともないような淑女を演じたわ。そうして、嘘をついて仕事をして、いつかバレて死ぬほど悔やむのよ」
何度も考えた。もしあの戦場ではなく違う場所で出会ってもわたしたちはこんな風に共にいられただろうか。街中ですれ違ったり、カフェで同席したり、酒場でふと視線があっただけでも、こんな風に穏やかに相手と一緒にいられただろうか。答えは否だ。不器用なわたしはすぐに淑女なんかじゃないとバレるだろうし、なにより戦場で鉢合わせするに決まっている。(民間人を装って急場をしのぐなんて、あんな高揚感の中では無理だ) ガルルはわたしの言葉に少しだけ頷いて、「じゃあ」と続けた。
「じゃあ、私の方が君を愛しているな」 「あら、なぜ?」 「私は戦場で出会いたくなかったよ。戦場で会えば、次に会うのもここだろうと思ったから」
今度はわたしが彼を見る番だった。ワインを舐める彼の表情はよく読み取れないけれど、寂しそうなのはすぐにわかる。共にいた時間で理解できるようになったのは、お互いの意識だとこういうとき感じる。 わたしは口の両端を上げて笑った。
「大丈夫よ」
次に戦場で会うということが、何を示しているのか理解できないわけではない。もちろんそれがどんな状況なんて想像できないけれど、二人きりなんて偶然も奇跡も起きないことは百も承知だ。銃弾飛び交う戦場の、敵も味方も判別つかなくなる混沌としたあの殺戮の中で、もう一度出会うのはひどく恐ろしいことだった。わたしたちはお互いに仕事の話をすることはなかったから、相手がどこで戦っているか知らない。知らないはずだ。知れば、ひどく悲しい気持ちになってしまうから。 わたしは自分のワインを天を仰いで飲み干した。グラスをテーブルに置いて、彼に笑ってみせる。
「わたしはあなたに銃口を向けないわ。だから、わたしが銃を向けたら躊躇わなくていいから殺して頂戴」
勝ち誇った宣言に、彼が不安気な顔をする。こんな顔、部下に見せたことなんてないに違いない。
「矛盾してないか?」 「してないわ。だって、あなたに銃を向けるようなわたしはもうあなたの愛した『わたし』じゃないもの」
もう一度戦場で会うことなんて、承知の上だ。そうなったら彼は全力で状況を回避する道を選ぶだろう。わたしを連れて逃げてくれるかもしれない。この小さな星で一生隠れ暮らすことになるかもしれない。わたしだって全力で彼を殺さない努力をするだろう。でもそれがどんな状況か予想がつかない以上、これが最善の判断だ。
あなたに銃を向けるようなわたしは『わたし』じゃない。
「……
」 「………なに?」
椅子から立ちあがり、ガルルは座ったわたしの顔を覗きこむ。言い出したら聞かないことを承知している彼は、わたしの発言を咎めたり撤回させることをしない。ただ受け止めて自分の中で自分の答えを持つ。彼の答えは教えてくれたりくれなかったりしたがそれで満足していた。 彼の指がわたしの頬を撫でる。唇がわたしの息を止めた。
「愛しているよ」 「………知ってるわ。わたしもよ」
わたしたちは危ない橋の上で、手を取り合って二人でいることを幸せと呼んでいる。
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