目を開ければ、もうそこに果てのない甘い夢はなかった。
無線機で起こされたわたしは相変わらず崖の上に立っていて、相変わらずライフルを握っていた。ギロロに会ったこともナツミの不安そうな顔も全てが昨日のことのように思い出せるのに、わたしの時間軸はその場所からもう遠くに来てしまっていた。この戦いが始まってもう何日が経過しているのだろう。地球から帰る足で来てしまったから、もうひと月は経ってしまっただろうか。 そうだ。彼に書いた置手紙はもう読まれただろうか。
『バタフリー。12時の方向に敵機です』 「…………しつこい」
覗き込んだスコープの先、曇った空の中で何かが閃く。銀の戦闘機。地上からの攻撃を危惧しているのだろう。不規則な飛び方、雲すれすれを縫うように進むのは空を制しているというのに酷く滑稽だ。躊躇いなく引き金を引けば、雲と煙が一緒になって海に落ちる。
いったい追撃機はいくつ落とした?
いつからわたしはこんなに性能のいいライフルをふるえるようになったのだろう。笑ってしまう。彼を真似しているだけだ。仕草や目元、どこを狙えばいいか、教えてくれたのは彼ではないか。いつのまにか海が赤い。夕暮れのせいだ。きっと。
『バタフリー……』 「なに。また新手?」 『いいえ。先ほどの質問です』
はっきりと、けれど少し恥じらいを込めて聞こえた言葉にわたしは少々驚いた。返事をしてくれるとは思わなかった。赤い海を見ながら、どこかにいる彼女を思った。
「待っている男がいるかって話?」 『そうです。…………バタフリー。私にはそういう男性はいませんでした』 「そう……」
『でも守りたいものなら沢山あった。ですからどうかバタフリー。あなたはそこから逃げてください』
「え?」 『先ほど、通信が入りました。もう持ちません。我々の負けです。ですからどうかあなただけでも―――――――――』
引き金にかけた手がわずかに震えて、止まった。耳の奥で会ったこともないオペレーターの彼女が「ですからどうか」と懇願する声が聞こえる。けれどそこでわたしの思考は一瞬だけ停止していた。負けた。勝つとは思っていなかったけれど、やっと負けたのだ。
「オペレーター」 『はい』 「あなた、そこに一人ね?」
でなければ、戦士に逃げろなんて言える筈もない。
『イエス』 「じゃあ、あなたが逃げなさい。他人よりも自分を優先させることね。わたしはいくらでも生きるための手立てがあるわ。血を吐いてでもこの戦場を抜け出せる。でもあなたにそれは出来ないでしょう、だから」 『いいえ、いいえバタフリー』
会話を遮り、初めて取り乱した彼女の声が無線機の雑音混じりに届いた。泣いているのかもしれない。良く通る声が震えていた。
『私は、私のことはいいのです。けれどあなたは、そんなところに居ていい方ではないんです。誰よりも強く美しかったあなたが、そこで死んでしまってはいけないのです』 「オペレーター…」 『申し訳ありません。黙っていましたが、あなたの背後にある本部は、偽者なのです』
言った後、彼女はもう一度謝った。まるで自分がしたことのように彼女は悔いている。そうではないだろうに。
「…………………………………知っていたわ」
たっぷり間を置いてわたしは答えた。耳の奥で息を飲むような高い音が聞こえる。背後を振り返ればそこには古風な城が建っている。海岸を臨むようにそびえる石造りの城。巧みな工作と情報操作によりアレが今やわたしたちの『本部』だ。真実は空の城だと言うのに。
わたしは言葉を続けることが出来ないオペレーターにもう一度「知っていたわ」と強く言い放った。それから呆けている瞬間に彼女の座標を聞きだす。従順な彼女は素直に座標を答え、わたしはそれを腕の携帯用コンソールに入力した。
「随分物騒なところにいるのね。あなたやっぱり自分の心配をなさいな」 『い、いえ。バタフリー……わたしは』
「まだ何か言うつもり?仕方ないわ。これは上官命令よ。今から三分以内にあなたの元に軽起動メカが向かうわ。それに乗って逃げること」
『え、え?』 「口答えは許さないわ。それに大切なプレゼントを貸してあげるんだから感謝なさい。傷なんてつけたらただじゃおかないんだから。………じゃあね」
自分の言葉が終わるよりも早く、無線機をはずして海に投げ込んだ。耳元で最後に彼女が何か言っていたが、わからない。わからなくてもいい。これから死ににいくのだもの。そんなものは知らない方がいい。
空の城を守っていると思い出すのは彼に出会ったあの戦争だった。まるであのときの再現だ。わたしはおエラ方の逃げる時間を稼ぐためにこの場所にいる。いつのまにか上りつめてしまった組織最強の座にいるわたしが守るからこそ、空の城に真実味が出るのだ。 スケープゴートなんて、くだらな過ぎて涙も出ない。 腕の重みが、金色に光ってまぶしい。
いっそミサイルでも撃ってくれればいいのに。
それか核兵器。わたしが絶望して反撃する気にもならないくらい、圧倒的な力で押しつぶして欲しかった。そうすればあっけなく死んでしまえるのに。 空気が震える。今度こそ新手だった。スコープを覗き込み、はるか遠くにいる敵影を探した。スコープの感度をあげる。ぐんと近くなり敵の機体がわたしの目にあらわになる。本当ならここでエンジン部分を見つけ出し狙いを定めるはずなのに、どうしたことかわたしの瞳はその機体に彫られた文字に釘づけになった。
まさかそんなありえないだってでもあれは、あぁ、どうして。
背後で足音。ホトンド反射で銃を向けた。
「ガルル」
これ以上ないくらい驚いているのに、わたしの声には懐かしさばかりが溢れていた。 あぁ、こんなところまであの戦争の再現なんて。 敵はケロンと手を結んだのだ。
「戦っているのは君だけだ。投降したまえ」
随分久しぶりに聞く彼の声はやっぱり不思議だった。こちらの心臓さえ落ち着かせてくれる。いつのまにか彼の目をまっすぐ見られるようになる。
「構えなさい。書いたはずよ。手紙を読まなかったの?」 「読んだよ。……“さよなら”しか書かれていなかったがね」 「それじゃわかっているでしょう。わたし、変わったの。だから、早く銃を構えなさいよ」
そうして早く、わたしを殺して。
「違う。君は変わってない。……………その証拠に、君はそうやって私にした約束を頑なに守っているじゃないか」
『あなたに銃口を向けるようなわたしはもうあなたの愛した“わたし”じゃないから、躊躇わないで殺してね』
銃口を向けた先で目が合う。冷たい鉄の塊を突きつけているはずなのに、彼は指先さえも動かさずわたしに微笑んでいる。わたしが引き金を引いてしまえば、彼は一瞬でこの世からいなくなるのに、彼はそんな現実をまるで感じていないようだった。そうだ。この人といるといつも現実感がまるでない。夢のようで幻のようで蜃気楼のようで、掴みどころもないくせに酷く酷く甘いまどろみに落ちるように幸せなのだ。
銃が指から滑り落ちる。彼の手がそっとわたしに触れた。
手を取られればもう逆らえないことなんて、会った瞬間から承知していたことなのに。 せっかく別れを決意した今、それをする彼が少しだけ卑怯に見えた。
君の組織を束ねていた奴らは、すべて捕まったよ。 嘘。 嘘じゃない。………私たちが戦うべき相手はもういない。 いや。 いや?なぜ。 馬鹿みたい。わたし、あんなに苦労して、考えて。 人生なんて総じてそんなものさ。さぁ行こう。君を紹介しなくては。 紹介?………誰に? まずは私の小隊に。そして両親、もちろんギロロにも。 …………。 約束しよう。君を笑顔で迎えてくれる。全員がだ。 ………。 その腕輪にも、彫ろう。私たちの名前を。 夢、みたい。
銃撃が夢にヒビを入れたのは、その瞬間だった。発砲音。誰に向けて?
「
!!!」
衝撃の重さに倒れこむ。ガルルがすかさずわたしを狙った敵に発砲した。馬鹿な人だ。それはあなたにとっては味方でしょう。自分の顛末に笑ってしまいたくなるのを抑える。 結局そんなものなのだ。わたしに幸せなど訪れない。
瞳を閉じてもし生まれ変わったら、今度こそあなたと幸せになれるかしら?
「
!」 「………」 「
!傷もないのに、死ぬな!」
え?
ガルルの言葉に勢いよく目を開けた。傷がない?そういえば痛みもない。でも、確かにわたしは撃たれた感触があったのに。パニック状態になるわたしに、ガルルはゆっくりと腕を持ち上げた。その先にあるのは金の腕輪。彼と対になるわたしのそれに、少しばかりの傷がついていた。
「ねぇガルル。聞いていいかしら……」 「なんだい」 「この腕輪、何で出来てるの………?」
「もちろん君と私の間を誰にも邪魔されないように、この世でもっとも固い金属だ」
銃撃を跳ね返す腕輪なんて聞いたことがない!
「呆れたわ………」
腕に走るわずかな痺れに頬を緩めて、わたしはガルルに抱きついた。立てないと言えば、彼はじゃあ少し眠ればいいと笑った。抱き上げて連れて行けなんて無茶は言えないけれど、この腕の中でわたしはこれ以上のない安心を感じていた。
目をつむる。目が覚めたら甘い夢の続きを見るのだ。
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