遠い星の合間を縫うように移動する小型艦の中は、オート操縦にしてあるため乗組員の姿はない。ガルルは最小限の明かりをつけて、自分の椅子に近づき音もなく座った。わずかな電子音と共にパソコンを起動する。画面が室内よりも明るく自分の頬を照らす。慣れた手つきで作業すれば、程なくして座った自分よりも頭ひとつ分高い位置にホログラフが現れた。わずかに電子が歪んでから、形を定着しゆっくりと回転する。堂々とゆっくり動く球体に心が和む。
「何を見ていらっしゃるんです?」
数十分、そうしていてだろうか。ついた肘で顎を支えながら、一心にその球体を見ていた。そして先ほどの声。周辺に気を配ることさえも忘れていた。 声をかけたられたことに驚きはしたが慌てることはなかった。振り向かず相手が傍に立つのを確認してから、首だけを斜めに向ける。
「見てのとおり、地球だ。プルル看護長」
訪れた来訪者は、ゆっくりと自転する小さな地球を見て頷いた。 作られた地球は、遥か彼方に存在する星そのままだ。気流によって雲が動き、茶と緑の大地が鳴動し、表面を占領する海面がわずかに色彩を変える。美しい星だった。見ているだけで穏やかな気分になれる。腹の中から出た胎児のような、絶対的な安心感を目にした複雑な、けれど底知れぬ満足間が溢れる。住んだこともないというのに、この郷愁に似た思いはどこから湧き上がるのか。
「………そういえば、ガルル小隊は先日の任務でここに訪れたんでしたね」 「あぁ。任務は失敗だったがな」 「聞いてます。本部は大騒ぎでしたから」
あの実力派で知られるガルル中尉の失態は、瞬く間に本部の隅々まで知れ渡った。確実に勝つための布陣を整え追い詰めておきながら大逆転の末に帰還した彼の胸中こそ誰も知らないのに、噂ばかりが先行しておひれを大きくしていた。プルル看護長も根拠のない下らない話をいくつか聞いたが、下らなすぎて思い出せない。 ガルル中尉は、そうかと言ったきり少しだけ面白そうに笑った。後悔や失敗による損失を気にしない、そんな超然とした微笑に見えた。
「何か………大切なものがあったんですか?」
その微笑があまりにも優しく愛おしそうだから、気づくとそう聞いていた。 まるで宝箱に大切なものをしまう子供のようにも見えた。大きな地球という宝箱に収まった、彼の支えとなっている大切なものはなんだろう。青い地球はゆっくりと、こちらの心さえも巻き込みながら自転する。
「プルル看護長、この星は侵入者に優しすぎるのだよ」
やがてガルルは返事の変わりにそう答えた。相変わらず瞳を緩く細めて、うっすらと微笑んでいる。
「…………確かに、美しい星だと思います」 「それだけじゃない。あそこに降り立ったものだけが、理解できる。あの星はすべてを内包しようとする力がある。頼みもしないのに両手を広げてくる」
だから厄介な星なのだと、少しも嫌っていない口調でくつくつと笑った。 醸し出される柔らかな雰囲気に、この人はこんな風に笑う人だったろうかと考える。常に一歩先を思考し死線をかいくぐり、彼は生き馬の目を抜くように必死で生きてきた。仲間の嫉妬も上層部の期待もどちらも裏切ることのない彼は、そういえば一度も満足に笑ったところを見たことがなかった。地球への任務につく前は。
「だから、そんな優しい星に生まれた彼女に魅かれたのは必然だったんだろう」
独り言のように呟かれた声は、驚くほど優しかった。優しく愛おしそうに、溶ける日差しよりも温かな声。 あぁ、だからなのだと理解する。彼が優しくなったのは、微笑みを取り戻したわけは、この優しい地球で育った誰かのおかげなのだ。
「その方に、会いに行かれなくてもいいんですか?」
あれからガルル中尉が地球に向かったという記録はない。また、記録以外にも抜け出せるような時間は彼に与えられなかった。上層部の期待をまた背負いなおすには大変な労力が必要だ。また仲間内での評価もあげておかなければ、勝利したケロロ小隊の評価も上がらない。任務に次ぐ任務をこなす彼が、偽者の地球を作り出してでも切望する人に会えるはずがない。 ガルルはプルルの問いに、軽く首を振る。
「今は、いい」 「………なぜです?」 「私はやるだけのことはやったつもりだ。これから先は運命に任せるしかない。もし彼女と縁があるのなら、無理やりにでも会う機会があるだろう」
それは投げ出しているようで、切実な訴えに聞こえた。今すぐにでも会いたいけれど、その先を恐れているような。努力ばかりをし続け成功を得られなかったものが、運に身を任せる瞬間にも思えた。 自分らしくないなと、ガルルは思う。 しかし
がギロロを好きなままでは、自分が気持ちを伝えても困らせるだけだ。強烈な劣等感に怯え、自分の心を認めようともしなかった
は、あのときもろいガラス細工のようだった。触れてしまえばさらさらと壊れていく危うさ、けれどそのために全てが美しく愛おしい。叶うのならば、腕に抱きそのまま連れ去ってしまいたかった。それをしなかったのは、してしまえばそこで自分の思いが純粋な愛情の領域を超えることを理解していたから。
「一週間後には会えるかもしれないし、一生会えないかもしれない」
繋ぎとめるための策は使い果たした。ギロロへの思いを、彼女の葛藤を、許しもえずに試すようなことをした自分が手に入れるものはきっと少ない。それでも賭けてみたいから、運命なんていい加減な偶然を待っている。
「ガルル中尉………」 「わかってる。女々しいんだ。私は」 「いいえ。いいえ、そんなことは」 「私はな、プルル看護長」
擁護される資格はない。優しい看護長に慰めてもらいたいわけではない。 罪を認め、その上で手に入れたいもののためにあがき続ける自分はひどく貪欲だ。
「諦めたわけではない。次に会う機会が訪れたなら、決して逃がしはしないと決めている。…………だからこれは、私の我侭なんだ」
絶対に、今度こそは誰に遠慮することもなく彼女を手に入れる。優しく待つだけの自分を脱ぎ捨て、彼女の手を握ってそのまま走り出したい。
地球をもう一度見せると約束しただろう?
そんな口実でつれだすのも悪くないな。 ガルルが笑うと、困ったようにプルルも苦笑する。そのとき、電話がなった。プルルが慌てて回線を繋いで応対する。こんな時間に誰だと思う。しかし宇宙空間にいる自分たちとケロン星の時間は違っているので、仕方がないかというため息も同時に漏れた。 二言三言、プルル看護長が言葉を交わす。定時の連絡ではなかったから、急な任務の要請でもあったのだろうか。しかし不意にプルルが勢いよく頭を下げて、「し、失礼しました!」と謝った。相手に見えるはずもないのに頭を下げるなど、冷静な彼女らしくない。まじまじと見つめれば、眉をあげたままの彼女が振り向き「今、ご本人と代わります」と私に回線を繋いだ。 それを取る前に、誰かと視線で問えば「お父様です」と意外な人物の名前。
「代わりました。………あぁ、今は任務中ですが……………はぁ?……………………えぇ。はい……………あぁ、有休はたまってるが……………わかった」
回線を切って、様子を伺っていた看護長が首をかしげる。私は笑おうか迷って、参ったと肩をすくめた。
「親父から厄介な仕事を引き受けた。ギロロのやつが探していたものが見つかったから、届けてこいということだ」 「おつかい、ですか?中尉に」 「そう。いつまでたっても餓鬼扱いだな」
親父の偉そうな声と有無を言わさない言葉の圧力は、電話越しにも健在であることが伺えた。しかし当に成人になった自分に言いつける仕事が弟へのお使いである点は、彼が自分たちをまだ子供だと思いこんでいるところだと思う。けれど、なんと可笑しなことだろう。
「ガルル中尉?」
笑いがこみ上げて、耐え切れなくなる。可笑しくて、胸のあたりに優しく温かい空気でいっぱいにされたような幸福な気持ちが充満している。
「私はどうやら、運命とやらに選ばれたようだ」
ギロロの元へ向かうということは、すなわち地球にもう一度降り立つことができるということ。きっかけがギロロというのは少々皮肉だが、これも何かの縁だ。彼女に会える自分への口実になるのならば、今はそれでいい。 見上げた先、ホログラフの地球が光を放っている。見つめて思いを馳せ、今度こそ必ず君に思いを告げようと心に誓った。
(それにしても炭水化物系植物、というのはまた珍しいものを頼んだものだな)
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