くだものナイフでりんごの皮をむきながら、ふとは顔をあげる。なぜかはわからないが、誰かに呼ばれた気がしたのだ。小さくか細く、それでも確かに自分を呼ぶ声がしたののに、傍には誰もいなかった。家は広く、けれど玄関の声が聞き取れないこともないのでそこからかとも考えたが、どうにもそうではないらしかった。
声は、ここ最近聞こえるようになった。不思議で、でも懐かしい気持ちになる音の集合体。
けれど耳をすませてしまうと、途端に声は止んでもうそれきりになってしまうのだ。
もう一度、首を傾げる。幻聴だと思えなかった。むしろ、とても喜ばしいことであるような胸の高鳴りさえ感じる。戦っているときとは違う、どきどき。


?」


ぼうと宙を見つめていると、よく知った声がを現実に引き戻した。
はそちらを振り向いて、感じるままににっこりと笑う。彼を見つけると自分の顔は知らずに笑顔を作ってしまうので、何も考える必要はなかった。


「ガルル」
「どうしたんだ? なにか考えこんでいたようだが」


いいえ、とは首を振った。その間に、止まっていた腕を再び動かしてりんごの皮をむく。しゅるしゅる、とも、しゃりしゃり、ともつかない音がかすかに流れる。
台所は綺麗に整っていて、はそこで座って作業するのが好きだった。広く作ってといったら、ダイニングと繋がったそこは本当に大きく間取りを取られていたので驚いた。わかっているつもりなのだが、ガルルに頼むとお願いは三倍増しになって叶えられる。けれど三割減にモノを頼むというのも、なんとも難しいのだ。
大人数で食事の用意を楽しめそうな広いキッチンで、ガルルはため息をつく。


「あまり考え込まないでくれ。次は何が起きるか、俺は毎度怯えているんだ」
「怯えている? あなたが」
「そうだ。………もちろん俺が怯える相手なんて、宇宙中で君だけだが」


ガルルは笑って、に近づいて自分も椅子に座る。の愛する金色の瞳が、彼女の手元を映し出した。皮をむかれたりんごは、まな板の上で薄く刻まれていく。
は自分も手元を見ながら、ガルルの視線がいつも自分を幸福にしてしまうのはなぜなのか、と考えた。見つめられると、愛されていると実感する。


「わたしはあなたの目に、そんなに危なっかしく映っているの?」
「いいや。その逆だ。君はしっかりしているから、考えて行動するだろう。けれどその考えを、どうか俺にも教えてくれ」
「あら、わたしは嘘をついたことはないわ」
「だが、核心でもない」


ガルルはあっという間にを追い詰める。話している内に、ガルルが本気で自分に頼み込んでいるのがわかった。そしてそれが何を指しているのかも。
だからはやっぱり幸福になってしまう。どうしてこんなにも愛してくれる人が傍にいてくれるんだろうと半ば疑問に思うほどに。


「ごめんなさい。あなたに黙って、彼女を助けに行ったことは謝るわ」
「………」
「でも、本当に大丈夫だったのよ。彼女は強かったし、わたしだって無理はしなかったもの」


彼女というのは、いつか自分を殺しにきた女性だ。強かったけれど、彼女は迷っていたので隙も多かったから太刀打ちできた。ついでに忘れ物を取りにもどった(偶然にも!)ガルルが応戦してくれたおかげでは死ぬこともなく、ここでりんごをきざんでいる。
暗殺者であった彼女は、怪我を負ったままドロロの元に行ったらしい。ドロロはガルルの弟が属する小隊のアサシンで、彼女とも浅からぬ縁があるらしかった。
刻み終わったりんごを鍋に入れて、は肩をすくめる。ガルルは答えない。


「だって、彼女、少し似ていたの。わたしに」


鍋にシナモンと砂糖とレモン汁を加えて、火にかける。弱火にして、透明な蓋をした。


「状況から、逃げ出したいってもがいてた。それには誰かの助けが必要だって思ったの。だからわたしは、ドロロ君の大切な人を殺すように依頼したやつらに報復する彼女を、助けようと思った」


報復から何かが生まれるわけでは決してないけれど、彼女が状況を脱するためにはそれが必要だった。だからは彼女の加勢におもむいて、その通り実行したのだ。誰にも相談せずに、昔の武器をそっと持ち出して出て行った。出張中だったガルルがそれを知ったのは、家にもどってメッセージを見たときだった。そしてその数秒後に彼女は何食わぬ顔で帰ってきた。
ガルルはようやくため息をついて、何かしらを諦めた。は背中を向けたままだけれど、そうだとわかる。諦めたのは、がそういったことをもうしないと約束することだと思った。


「……確かに、彼女には助けが必要だったかもしれない」
「そうでしょう」
「だが、それが君である必要はないだろう」


もっともな言い分だった。事実、助けにいったとき彼女の方も目をまん丸くして驚いてた。どうして助けになんて来たのと聞かれて、「だってあなたには助けが必要だったじゃない」と言えば、彼女は本当に信じられないといった表情をしたのだ。
ありえない。そう呟いた彼女はどこか嬉しそうだったと、は勝手に思っている。


「ガルルは行くべきじゃなかったでしょう。ドロロ君に仕事をしてほしかったのは誰かなんて、あなたが知らないわけがない」
「………それは」
「だけど、わたしはそうじゃない。わたしはあなたの妻だけれどあなたは軍の秘密を話すような真似はしないから、わたしは何も知らない幸福な妻で、だから彼女を助けにいくことだって出来るのよ」


そうでしょう、とは首を傾げる。ドロロにも同情するけれど、自分の夫にも同情したくなる。こんな我侭な妻をもったことに対して。
ことことと、煮立ってきた鍋から甘くいい香りがする。りんごの香り。


「………わかった」


鍋を睨むこと数分。ガルルはようやく本当に観念した。
彼の「わかった」が聞こえた瞬間に、は振り向く。満面の笑みで。
ガルルはそんなに苦笑する。


「わかった、が、頼むから今度はあんなメッセージを残さないでくれないか」
「……もっと具体的にしろってこと?」
「そうだ。………いくら俺でも、『少し体を動かしてきます』なんて言われてもぴんと来ない」


は笑って、「そうするわ」と請け負った。なるべくならそんなことなければいいと思うのだが、の生きてきた道を考えればそれは仕方のないことだろう。彼女がこの家で白いエプロンを着てりんごを煮ている時間を、本当に幸福だと感じてくれていることも知っている。その幸せをどうにか守ろうとしてくれているのも。
だからガルルは、いつも諦めるしかなくなるのだ。


「ごめんなさい、ガルル」
「……………いや、もういい。君が無事でいてくれれば、それで」
「わたしも同じことを思ってる。ガルルが無事でいてくれれば、どこにいたって幸せだわ」


笑って、彼の頬に唇をつける。ガルルの腕がのびて頬をすべり、彼の唇はのおでこにぴったりと馴染む。二人は笑いあって、どちらともなく抱きしめあった。
耳元でくすくすと、笑い声が重なる。
しばらくお互いの体温をゆっくりと感じていたが、ふと気づいたようにが顔をあげた。


「………あ、そういえば約束の時間は大丈夫?」
「ん? あぁ。君の準備さえ整えば、俺はいつでもいい」
「そう、じゃあ、これを作ってしまったら行きましょう。遅れたら申し訳ないわ」
「急がなくていい。時間には余裕があるから………しかし、何を作ってるんだ?」


急いで体を離してしまった彼女を名残惜しそうに見つめ、ガルルは問う。は鍋の火を止めて、具合を見てからふふっと笑った。


「アップルパイ、っていうらしいの」
「あっぷるぱい?」
「そう。ナツミに教えてもらったから、お養父さまに持っていこうと思って」


あとはパイシートに並べて、焼くだけなのよ。
は手際よく準備を進めていく。今日はガルルの父親の家に呼ばれることになっていた。それはつい先日、が電話口であの「声」について――懐かしく、嬉しさを誘うあの声について――ガルルの母親に話したのがきっかけだった。心配されたわけではなかったが、詳しく話が聞きたいらしい。
ガルルにはまだ話していないから、実家に呼ばれたわけを彼は知らない。面倒なのでご両親がそろっているときに話してしまおうと決めている。少し意地悪かな、とも思うが、いつも同じでは毎日がつまらないのだ。


「あ」
「なんだ?」


ガルルが問いかけるが、は「ううん、なんでもない」と答えた。
また聞こえたのだ。どこかから、問いかけるように自分を呼ぶ声。けれど不思議なことにガルルには聞こえていないらしかった。
本当に不思議ね。は考えて、この話をするときガルルが驚くのを期待して微笑んだ。






























空気に混じる、愛のカケラ



(08.08.31)