おなかの中に赤ちゃんがいるというのは奇妙な感覚で、わたしはそれが発覚した後しばらく何も考えられなかった。人が動いて回るには狭苦しい診療室、小さな丸い椅子に腰掛けて、わたしとガルルは一緒に診察結果を聞いたというのに、どうしてもそのあと彼が何を言ったか思い出せない。なぜならそのあと、ぷっつりとわたしの意識は切れたからだ。
今までどんな戦場に出ても意識を失ったことなどなかったのに、自分の妊娠を知って倒れるなんて、まったく馬鹿げていると思う。


「………」


いつのまにか、わたしはガルルの実家にいた。がらんとした客間に敷かれた一組の布団の上で目覚めたわたしは、それが現なのか夢なのか、しばらく判然としなかった。ガルルの実家だと理解し、そのことにとても安堵した。彼なりの配慮だろう。それか、彼も混乱していたのかもしれない。
古めかしい、それでいてしっかりとした造りの彼の家がわたしは好きだった。畳の匂いや圧倒される柱の立ち居振る舞い、その中に包まれているという感触。太陽の匂いのする布団から半身を起こして、ぼんやりと障子の隙間から庭を見る。四角く切り取られた世界は、夕闇に暮れている。


『おめでとうございます、赤ちゃんですよ』


医者の言葉は、わたしを混乱させるばかりだ。おめでとう。それは一体誰に対して?
わたしの元に生まれる赤ん坊が、どうして「おめでたい」なんて言えるんだろう。わたしが喜ぶのだろうか、それともガルルか、はたまた赤ん坊自身が、生を受けたことを喜んでくれるのだろうか。わたし自身が喜ぶなんてまずありえなかった。だって、そんなのはひどい我侭のように思えた。思い切り傲慢な、裏切りのようにも。
あの懐かしくも遠い声が、赤ん坊だと気づいたのはガルルの母親だった。すぐさまわたし達を呼びつけ病院に向かわせた彼女の行動力は、さすが軍人一家の妻を務めるだけはある。彼女は強く美しく、また辛抱強く正義感の強い人だ。
彼女に会い、女性らしさが何なのかというのを初めて知った。母親というものを教わったのは彼女からだ。そしてそうはなれないと、核心を得たのもまた彼女からだった。


。起きたのか」
「……………」


ぼんやりと焦点の合わない瞳をさまよわせていると、ガルルがふすまを開けた。
わたしは彼になんと声をかけたらいいかわからない。ごめんなさいと言いたかったけれど、どうして謝りたいのか判断しかねた。そしてそれはとても失礼だとも思った。たぶん、わたし以外のすべての人に対して。
ガルルはわたしの布団の脇に座り、じっとわたしを見た。泣き出すのを待っているような、わたしがタイミングを上手くはかれるようにしてくれるような、表情だ。


「ガルル」
「うん?」
「………あかちゃ、んが」


できたの。簡単な言葉すら喉が受け付けなかった。彼がこの状態を嬉しいと思ってくれていなかったらどうするのだろう。わたしはもう一人ではない。おなかに小さな生命を宿らせた、もっと別の生き物になったのだ。
それを彼が気に入ってくれなかったら、以前のわたしの方がよかったと言われたら――愛の誤差が一ミリでもあったのなら――、わたし達はどうするのだろうか。
おろす、という選択肢はなかった。わたしはこれ以上、大切な人を殺せはしない。


「そうだな、赤ん坊だ」


むっつりと、ガルルは頷いた。
確認したいのはそこではなかったのだけれど、わたしは言葉を繋げない。


「君も驚いたろう。俺も、驚いた」
「……………」
「だが、なによりもまず、君に言いたいことがある」


びくり、と体が震えたのと、ガルルがわたしの頭を撫でたのは同時だった。


「ありがとう。君がどう考えようと、俺はとても嬉しいよ」


穏やかで力強い、ガルル特有の愛情を持って、彼はわたしの頭を撫で続ける。あやされているというよりは、角のとがった心を丸めているような作業に、わたしは目から涙が幾粒もこぼれて落ちていく。たぶん取られた角が液状になり、目から溢れて外に出て行ったのだろう。淀んだ心や不安が流れ落ち、わたしはとても安全な場所で息を吸う。
誰よりも何よりも、もちろん自分よりも彼が子供を愛してくれたことが嬉しかった。たぶんもうすでに子供と一緒の生命体になったわたしには、赤ん坊と離れるという選択肢はなかった。それならガルルと離れるしかないのだが、矛盾することに彼の傍以外でわたしの幸せなどありえないのだ。そして同じ運命共同体になった赤ん坊もまた、彼なしでは幸せになどなれない。
腕を伸ばし、もうすっかり馴染んだ彼の体を抱きつく。きつく抱きしめても彼は何も言わずに、ただわたしの頭を撫で続けた。それから耳元でずっと、ありがとう、といい続けてくれた。


彼に受け入れたわたしはとても幸せだった。そして、それは赤ん坊にも言えることであり、だからわたしの赤ん坊は絶対に幸せになるのだろうと思う。
これが予言にごく似ている未来だ。




ガルルの実家で母親になる訓練を受けた。ガルルの母親と父親は、わたしにさまざまな奇妙な赤ん坊の生態について詳しく教えてくれた。ガルルもガルルなりに父親としての勉強をはじめているらしかった。
だんだんと大きくなるおなかを撫でながら、わたしは時折とても切なく悲しく、今までに奪った命に対してひどく申し訳なく思った。けれどそのたびに、もしかしたら自分の子供を生むために生かされてきたのではないのか、とも思うことがあった。責任転嫁などではなく、ごく単純に思いついたこの答えをガルルに話すと、彼は笑った。笑って、「なら、俺達はその子に選ばれたのか。光栄だな」と嬉しそうにおなかに手をあてた。
赤ん坊が生まれたら、まず「ありがとう」と言おうと決めている。私を選んでくれて、ありがとう、と。何度でも、幾度となくわたしは言うだろう。言うたびに笑ったり泣いたりしながら、常に幸福なままで。

























たくさんたくさん、ありがとうを





(08.08.31)