わたしの降格処分が決まったのは、敵に捕縛された事件のちょうど三日後だった。
あったようでない傷を抱えつつ向かった上官の部屋で、わたしはそれを言い渡された。広い部屋の綺麗な机の向こう側で顔さえ覚えていない上官はわたしを諭すように話を進めている。君は頑張ったとか、よくやったとか、素晴らしい成績だったとか。わたしの過去となりつつある功績を褒め称え、まるで今にも爆発しそうな火山の前で祈る人々のように殊勝な態度でありきたりな言葉を吐く。けれど実際わたしの頭の中は冴え冴えとしていて、彼をなじる元気も拳を握る怒りの念も湧かなかった。ただ、わかりました、と呟くように零したのを覚えている。
「そんなところで、何をしているんだね?
新兵」
逃げるように退出したあと、わたしはどこへ行くともなく本部の中をでたらめに歩いていた。人に会わないようにと心がけていたこと意外は、もうどうにでもなれという気分だった。誰に会い何かを聞かれても、上手く答えられる気がしない。多分今なら殴られたって痛みを感じないだろう。 そうしていつのまにか訪れた場所で、先ほどのように声をかけられた。下ばかり見ていたわたしは少しばかり視線を上げる。それさえ億劫なのに、と心の中で愚痴った。
「ここいらは関係者以外立ち入りの禁止のはずだが?」 「…………ガルル、中尉」 「おや。名前を覚えていてくれたとは感激だな。だが、とりあえず移動しよう。君が見つかれば少々面倒だ」
力の入らない右腕を引かれる。わたしはそのまま抵抗することもなく、彼に従うことにした。ガルル中尉がここにいてはいけないというのだから、駄目なんだろうとだけ思っていた。
ガルル中尉に引かれる腕は、まったく強くなかった。誰もいない廊下を足早に通り過ぎているはずなのに、わたしは引きずられている感覚に陥ることはない。まるで大きな波にでも揺られている錯覚。眠たくなるような安堵感。やがて彼が一つの扉を開けるまで、わたしは考えることをやめてしまっていた。とたん、強い風と陽光がわたしを襲う。
「屋上だ。ここなら、人はいないし、変に勘ぐられることもないな」 「…………」 「君はそこに座りたまえ。連れまわしてしまったからな」
ガルル中尉はそう言って、自分もわたしの隣に腰を下ろした。わたしは相変わらず働かない頭のまま、コンクリートとフェンスと青空を少しの間眺めていた。鳥がくるくると旋回し、風が音を立てて舞う。雲の流れが速い。光がキラキラとわたしを包んでいた。それを写す瞳だけが、そこで生気を失っている。
どれだけそうしていただろうか。多分、とても長い間そうしていたのだろうと思う。青い空がもう傾き始めていて、風は少し肌寒さを感じた。影が濃く、一瞬前まで見ていたと追っていた方向とは待った別方向に伸び始めていた。ようやく隣に視線を移せば、ガルル中尉がそこにいる。
「おや、もういいのかい?」
まるでまだいいじゃないか、とでも言うような口調だった。その事実に少なからずわたしは驚く。
「ガルル中尉…………帰られなかったんですか」 「女性を一人置き去りにするほど、わたしは腐ってはいないよ」 「ありがとうございます…………。でも、もう大丈夫ですから」
なんと言っていいかわからなくて、わたしは出来るだけ笑顔を作ろうとする。歪んだ顔をしているのだろうと思ったが、それすらもどうでもよかった。口ではありがとうと言っているのにわたしの心は何も有難がってはいない。ガルル中尉はそれを知っているように、いいや、と首を振った。
「それよりも、よく私のことを知っていたね」 「ギロロ伍長の、お兄さん、だから」 「ほお。じゃあ、他の上官の顔は覚えていない?」
言われて静かに頷いた。実際先ほど会ったあの人だって、もう顔さえ思い出せない。わたしの降格を言い渡した、あの上官は、いったいどんな声をしていたのだろう。もうおぼろげな事実に興味などないけれど。
「私も君のことを知っているよ。女性突撃兵は珍しい」 「…………」 「加えて、君はあのギロロと対等に渡り合う。大変、興味深い」
ガルル中尉は何かを思い出したのか、少し口角を上げた。それだけで彼が微笑しているというのはわかりづらかったが、きっと笑っているのだろう。空の青が赤く染まり始めた色合いの中で、この人はひどく綺麗だった。まるでこの世のものではないような。
「もう、ギロロ伍長と戦うことはありませんからご安心を」 「…………ほう?」 「先ほど、部署移動命令が出ました。わたしは明日から本部付きの看護兵です」
出来るだけ無機質に告げたつもりだった。もう涙は流さないつもりだったし何よりもう泣く理由がない。わたしはミスをしたのだし、責めるべきは己以外の何者でもないのだ。例えば、隣に立つこの人に八つ当たりをしたところで状況は変化しない。ただ、また明日が来て日は昇る、それだけ。
「看護兵に?それはまた珍しい。普通は更迭か訓練所へ戻されるだろう」 「体のいい厄介払いでしょう。わたしは看護兵の資格も持っておりますので」 「だが素晴らしい才能だ。君の突撃兵としての戦果は賞賛に値する。…………ふむ。しかし、おかしいな」
ガルル中尉は、たっぷり間をあけて、ことさらゆっくりと言った。
「ケロロ隊長は、なぜ君の突撃兵入りをひどく反対していたのだろう」
足元がざわり、と波打った気がした。けれど実際わたしの周りにそんな気配はまったくなく、隣に座るガルル中尉も考えるそぶりは見せるけれど平静のままだった。その空間でわたしだけが置き去りにされて息がつけなくなる。一気に脳に空気を吹き込まれ、無理やりに頭を働かせろと命令されたような。
「嘘、です。そうじゃなきゃ、それは何かの間違いです」 「…………なぜ?」 「だってケロロさんはわたしが突撃兵になった次の日に、迎えにきてくれました。うちの小隊に入ってほしいって、笑顔で」
突撃兵への申請をして結果を待ち、許可された次の日にケロロはやってきた。わざわざわたしの自宅を訪れて、インターホンを鳴らし、姿を確認したわたしは酷く驚いて急いでドアを開けた。そうして何のことはないアパートの前で佇むケロロさんは、笑顔で「迎えにきたであります」と告げたのだ。そうして左手を差し出しながら、「我輩の小隊に入ってほしいであります」と当然のように言われ、わたしは呆然としながら頷いたのだ。あまりのことに、声が出なかった。 なぜとかどうしてとか彼は聞かなかった。突撃兵になったことを責めなかった。笑顔で迎え入れてくれたのだ。 ガルル中尉は、首を振らない。
「だが事実だ。ケロロ隊長は君が突撃兵入りを志願したときから反対していた」 「…………なぜ」 「理由はわからない。一般論だけが彼の意見とは考えられないからな。そして、どうしても君を突撃兵にするなら自分のところの小隊に入れると豪語した」 「…………」 「君の希望もケロロ小隊だったからね。議会はあっさりとそれを認めた」
ガルル中尉は、何を言っているんだろう。 彼はわたしにわかりやすいように話してくれているはずなのに、わたしはまったく理解できずに混乱していた。ケロロさんはわたしに突撃兵になってほしくなかった?でもだったらなぜ小隊に入れてくれたのだろう。わたしの力不足を知っていたのだろうか。ギロロ伍長やゼロロ兵長やクルル曹長がいればカバーできると踏んだのだろか。わたしは最初から、彼のお荷物でしかなかったということなのだろうか。 考えると怖かった。いつもいつも戦績を褒めてくれた彼が何を考えていたのか、突然わからなくなってしまった。まるで底のない穴の中に落とされたようだ。
「…………
?」 「は、い…………」 「あまり混乱するな。君が焦るほど事態は悪くはない。例えばそうだな…………彼が議会に発言したうちで、一番ケロロ隊長の本心が現れていたと思うものを教えてあげよう」
ぎゅうと体を縮めるわたしの緊張をほぐすように、ガルル中尉の手が頭を撫でた。数度撫でた手はわたしの頬に落ちて、瞳を自分に据えさせる。まっすぐに見つめれば、ガルル中尉の中のわたしと目が会った。
「“
が突撃兵になれば、彼女を愛した男が悲しむことになるから”」 「…………え?」 「あまりにも抽象的で軍属らしくない発言に、議長は大変お怒りだったよ」
静かに、この人は雰囲気を和らげて笑う。一ミリの狂いもなく、一グラムの誤差もなくわたしに伝えられた言葉はそれだけストンと心の中に納まった。添えられた右手から暖かさが、ようやく意識の時差を越えてやってくる。その日初めて目が覚めたような、流れるままに見ていた映像の中に突然参加させられたような奇妙な現実感がわたしに降りてきた。
「君は、充分頑張ったよ」 「…………わたし」 「でも、君を大切に思う人は気がきじゃなかっただろう。それを、考えてあげなさい」
「まったく…………生きた心地がしなかったでありますよ」 フラッシュバックするのは、何よりもあの光景。
「……っ?」
ガルル中尉の話が終わるより早く、バリバリバリっと言う音がわたしたちの下から急浮上してきた。吃驚して視線を向ければフェンスから高々と舞い上がる機体が一つ。緑にコーティングされたアレの、持ち主をわたしは知っている。
「ケロロさん!」 『あーあーあー。マイクテスト中―マイクテスト中―。
発見セリ。ガルル中尉殿、とりあえずその手を離すであります』
機体から、電子音交じりのケロロの声が聞こえて
は途端に走り出した。 残されたガルルは指摘された自分の腕と走り去る
を交互に見ながら、肩をすくめる。こんなところで軍用機を乗り回すとは、あとで上が黙ってはいないだろう。しかしケロロ隊長のことだから、煙にまいてしまうことは目に見えているのだが。
ただ今は、何も言わない。
あんまりにも、彼女が嬉しそうだから。
(06.11.16)
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