最近越えたい壁ができたんだ、と話していた。
それはとても越えたいのだけれど越えられない壁で、もし越えてしまったらやろうとしていることがあるのだけれどそれはきっと絶対無理なのだ、うん。言っているうちにわけがわからなくなったのだけれど、やっぱり目の前の後輩はわけがわからない、と言った風に首をかしげる。カララはひたすらに「どういうことなん?」と聞いてくる。彼女は自己主張が激しいくせにこう言ったとき抜かりない。どうでもいい問いは流すくせに、重要だと思う事柄は見逃さない。前に聞いたとき、それは女の勘だと答えられた。まだ尻尾も取れていないようなガキにそんなもんあるかよ、と反論したらタルルだって取れたばっかのくせに!と怒られた。ついでに殴られた。当然の報いなので、仕方なく仕返しはしなかった。
「なぁなぁ、タルにぃ」
「なんだよ」
「それって、恋と違うん?」
越えたくて、必死にもがいてそれでしたいことがある。それは彼女の中では告白しかありえないのだろう。というか、ケロロ小隊の面々に次々に惚れるこの幼馴染は少々恋愛ごとに傾倒しすぎていると思う。それしかお前の頭にないのかと叱ってやりたい。けれど見ているのも面白いから放っておいているのでやっぱり反論できない。その矛先が自分にだけは向かないのとわかっているからこそできる高みの見物だった。
「カララ。それって相手を倒したいって欲求にも通じるもんなんすか?」
「え?」
「殴ったり蹴ったり、打ち倒さないと始まらない恋なんて、あるんすか?」
たぶんこれは大人気ない質問だった。カララは素直にオイラの質問の答えに悩んでいる。どうすれば、自分が望むような答えを導き出せるのか真剣に考えている。幼馴染の恋愛体質でも難解らしい思いに、ふとオイラは笑い出したくなった。もしこの感情に愛と名前をつけてしまったらそれこそ可笑しい。愛と暴力は一番かけ離れたところになければならない。現実の世界ではしばしば愛が裏切られるけれど、オイラは違う。これは単純に憧れと憧憬と嫉妬なのだ。
「タルル上等兵、見つけましたよ」
まるで鬼ごっこをしている最中のような台詞が聞こえて、オイラは慌てて顔を上げた。カララの方が現れた彼女に早く反応を返す。「あ、はん」オイラはついさっきまで考えていたことが頭から離れずに「あ、こんちは」と間抜けな声しか出なかった。は看護バックとファイルを片手にオイラとカララが座っていたテーブルについた。もちろん「ここ、いい?」と前置きをしたあとで。
「いい雰囲気のカフェね。軍部の近くにこんなところあったんだ」
周囲を興味深そうに見るは、まるで迷い込んだ少女のようだった。
「そうやでぇ。はん知らなかったん?」
「あんまり。看護班は食事の時間が不規則だから、遠くに出る暇がないのよ」
彼女の言うとおり、ここはカフェのテラスだった。カララと話すつもりで軍の昼食時間に出てきたのだが、がここに来てくれるなんて思ってもみなかった。そうしてカララと楽しげに話すを呆然と見ているしかない自分自身に、少々驚く。こんなに狼狽するとは考えていなかった。
「ねぇ、タルにぃ!!」
「う、わ。なんすか」
「まったく!女性が来たって言うのに、飲み物も買ってこられへんの?そんなやから彼女できないんやで!!」
「なっ!うっさいっすよ!」
「もぉえぇ!アタシが行ってくる!はん、ちょーっと待っててぇな」
が「すぐ帰るからいいのよ」と言うのに、カララは構わず店内に駆けて行く。取り残されたオイラは居づらさを感じながら、を見た。は気分を害したようすもなく、「元気な子ね」と微笑んでいる。女性的だった。誰が見ても彼女は看護兵だ。
「気が効かなくて、すんません」
「いいのよ。わたしも仕事をしにきただけだから、奢られていいわけじゃないし」
「仕事?」
「そう。健康診断。通知書はもちろん、見たのよね?」
にっこり、とが黒いものを滲ませながら聞く。オイラはあきらかにしまった、と言った表情をして固まった。義務付けられた健康診断が面倒くさく、また医務室に行ってどんなことを言えばいいのかわからず今日までずるずると引き延ばしてきてしまったが、が来るとは思わなかった。これならば、誰に当たるかは博打で医務室に向かっていった方がよかったかもしれない。はそのまま説教をするでもなく、溜め息にも似た深呼吸をして、小さくなるオイラを見ながら長い指でテーブルを叩いた。
「わたし、実はお昼まだなのよね」
「え?」
「タルルを探していたらお昼になってしまったの。随分、探したのよ?」
「え、えーと」
「だから、あのプロシュートとチェダーチーズのベーグルサンドで許してあげようかなって思うんだけど、どう?」
店内の外にかけられた看板の新商品を指差して、が笑った。オイラはその笑顔ととを交互に見比べて思い切り首を縦に振る。もちろんだ。そんなことで許してもらえるのならいくらだってそうする。急いで立ち上がって店内に向かうとちょうどカララが注文しているところだった。「あの表に出ているベーグルサンド一つ!」カララと店員が驚いたようにこちらを向いた。けれどそんなことお構いなしに俺は晴れ晴れとした気持ちで叫んでいた。曖昧な気持ちの中でも会うと嬉しいものだな、と再確認してしまって笑うしかなかった。
それからとカララと三人で話をした。やはり地球に行ったときの話をは聞きたがり、便乗したカララも話をねだるからオイラは自分が活躍したところを長く、やられたところは短く話した。けれどタママ師匠の話となるとはもっと話を聞きたがるから、新しい力を手に入れて自分が歯牙にもかけられなかった話もしなければならず、やっぱりオイラは情けなくなった。そういえばはタママ師匠に会った事がないのだと言う。看護兵になりたてで移動の忙しい時期にケロロ小隊は地球に行ってしまったから会う暇がなかったのだと笑って聞かされたときを思い出した。そういえば、初めてであったときもタママ師匠の話をした。はタママ師匠を知っている人を探していたのだ。
「じゃあ、やっぱりタルル上等兵にとって、タママ二等兵は師匠のままなのね」
ベーグルを頬張りながら、は静かに言った。状況を確認するように特別の感情など混ぜずには呟き、オイラは頷く。は師匠のことをどう思っていたのだろうか。自分の代わりに入った新しい突撃兵。しかも彼女の羨む特殊技能を持っていたのだから、少しは嫉妬をしたのだろうか。
「よかったじゃない。やっぱりタルル上等兵は、タママ二等兵のことを楽しそうに話している方が似合ってるわ」
「そ、そうっすか?」
「そうやでぇ!師匠を越えるのはまだまだ先ってことや!!」
「うっさいぞ。カララ!」
「へーん!タルにぃの修行不足―」
はオイラたちのやり取りに微笑んでいた。まるで母親のように穏やかな笑みだ。
少しのことではびくとしない海原のような悠然とした態度の彼女の前にいると、自分がひどく幼く見えることがある。それでも年の差は片手で数えられるのだと頭で考えると、ひどくその差は大きいような気がした。自分は精神が幼いのかと打ちのめされる。
「わたしの仕事をしていいかしら、タルル上等兵」
食事をし終わったが言う。オイラは彼女が採血のことを言っているのだということを理解するのに時間がかかり、やっと「あ、はい」と返事をする。テーブルの上を片付けようとしたをカララが笑って制し、自分が運ぶから仕事をしてと告げた。カララは中々気がきくのかもしれない。は遠慮したがカララは強引にトレイをもって店内に入っていく。は「やっぱり元気な子ね。それに優しい」と付け加え、さっさと片付いたテーブルの上に注射器を取り出しオイラの腕をとった。
「…………さん」
「ん?なに?痛い?」
「痛くは、ないっすけど…………。会ってみたかったすか?」
血を抜かれる。自分の血が小さな透明な容器に溜まっていく。
「タママ二等兵に?それは会いたかったわ。可愛いのに強いんでしょう。誰でも会いたくなるわ」
「じゃあ、闘ってみたいっすか?」
本当に聞きたかったのはこれだった。会いたくないわけがなく、闘いたくないわけがない。
それがオイラの出した答えだったけれど、本人に聞かなければこればかりはわからない。は注射針を抜いてすばやくガーゼを押し当てると、そうね、と小さく呟いた。
「そうね。昔だったら闘ってみたかったかもしれない」
「じゃあ」
「でも、今はどうでもいいわ。わたしは看護兵で、彼は突撃兵だもの。活躍する分野が違うのに、競い合う意味もないでしょう」
声のどこにも、意地を張っているような気配はなかった。たぶんはもう決別してしまっているのだろうと一つの答えが浮かぶ。は看護兵になったその日から、もう突撃兵だったころに得たものを捨てたのだ。戦歴も実力も、それが看護兵に必要ではないのならばいらないと判断できるくらい大人になっていたのだ。それは望んだ返答とは程遠く、オイラは絶望的な顔をしていたのだと思う。がどうしたの?と首をかしげている。
もしここであなたと闘いと言ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
「なんでもないっす」
「そう?…………それにね、わたしはもうブランクが長すぎるもの。きっと勝てないわ」
「…………そんなこと、ないっすよ」
「あるわよ。タルル上等兵にだって、適わないと思うわ」
言われた言葉に、オイラはをマジマジと見つめた。の強さは知っていた。記録でしか残されていない戦歴にも目を通した。闘っている映像は見事としか言えず、ビームも光線も出せない少女の闘い振りには魅せられるものがあった。だからかもしれないし、自分に宿っている戦闘性のせいかもしれないけれど、どうしても彼女に勝たなければ先に進めないような気がした。人の戦いぶりを見て圧倒され、しかも見惚れたのなんて初めてだったから、それを乗り越えるためにすべきことが何なのかわからなかった。
それなのにあっさりと負けを宣言されてしまえば、更に考えがごちゃごちゃになる。
「じゃ、行こうかな。タルル上等兵、ゾルル兵長の居場所に心あたりはない?」
「いや、ないっす…………」
「あの人だけは電話も通知も関係ないから困っちゃう。地道に探すしかないわね。しかもトロロ新兵もいないのよ。Cケロロ隊長を引っ張ってどこかに行ったってことだけわかってるんだけど、情報が少なすぎるわ」
はもう他のことで頭がいっぱいのようだった。カララが戻ってきて、は立ち上がる。もう行くと告げるとカララが少々ごねたが、仕事だと断るとようやく納得して頷いた。は看護バックを持ち上げ、ファイルも持ち上げようとして、そこで気付いたように声をあげる。
「いけない。これはガルル中尉に渡すものだったわ。タルル上等兵、ごめんなさい。これ渡しておいてもらえる?」
「あ、いいっすよ」
「よかった。急ぐものじゃないから、仕事終わりにでも持って行って。お願いね?」
あと、ご馳走様。
は捨て台詞にそう言い残すと颯爽と身を翻す。さっぱりとした態度に手元のファイルを持ち上げながら、ため息をつきたくなった。
「ねぇ、タルにぃ」
「…………なんすか」
「さっきの質問の答えやけど」
を見送りカララは椅子に座りなおすと、頬杖をつきながらオイラを見上げた。
「やっぱり、タルにぃのそれは恋や」
「…………」
「でも殴るとか倒すのはタルにぃの身勝手な結論やな。はんは、そんなもん望んでへんよ。普通の女の子や」
身勝手なのはどっちだ、と声をあげそうになった。が別の人を好きなことは、カララだって知っているはずだ。胸に光る四つの指輪の意味を、知らないわけじゃないだろう。そう言うと、「だから?」とカララは至極真面目に聞いてきた。
「だから?それがなに?」
「なにって…………」
「どんだけ好きおうてても、所詮は遠距離恋愛やで?思いの移り変わりなんて誰にも咎められへん。要は、それだけ気持ちを動かせるような行動を取るか取らないか、やろ」
当たり前のことのように恋愛を語るカララに、呆れた。まるで三流ドラマだ。カララの中でオイラはきっと、人妻に恋をする間抜けな間男の役割でも割り振られているのだろう。情けなくて肩から力が抜けた。お前のように簡単に思いを向けてくれるのならば苦労はしないのだ。それをカララはわかっていない。
「カララの頭にはそれしかないんすか」
今度こそ、この恋愛ボケした幼馴染にオイラは呟いた。
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