「えぇ、わかった。じゃあ、頑張ってね」


看護兵の集まる医務室の奥、連絡機関として活用される事務室でプルル看護長が電話を切ったのは、昼も三時を回ったところだった。電話の相手は要件だけ告げると電話を切った。受話器を眺めながらその相手のことを思っていると、不意に後ろから話しかけられる。


「…………さん、でしょう?彼女なんだって?」


婦長だった。年を重ねた風貌は少しだけキツク、けれど看護兵からは慕われている。彼女の指導は感情に左右されることもなければ、隊員に優劣をつけることもなかった。


はトロロ新兵の採血を済ませたら看護バッグを時空転送してそのまま帰宅するそうです」
「そう。あの人たちの面倒ばかり任せてしまって、は苦労しているんでしょうね」


ため息の中に、今まで彼らのせいで少しばかり心に傷を負った看護兵を気遣う声が混じる。ゾルル兵長は元より、トロロもタルルも悪い子達ではないのだがアクが強い。加えてガルル中尉は人気があるが、その分人員配置に心を配らなければならない立場にある婦長にとっては悩みの種なのだろう。だが担当をに替えてから、回転率はすこぶるいい。余計な話はせずゾルル兵長を探し出し、タルル上等兵の性格を把握し、トロロ新兵を理解し、ガルル中尉に媚びることをしない。は看護兵に足りないものを持たなかった。色々と持ちすぎている過去はあるが、それも長所だとあたしは思っている。
婦長にのことを告げたあと、休憩室に入ればそこにいた二人と目が合った。彼女たちはどうやらあたしの話を聞いていたらしく「、戻らないんだってね」と口を開いた。


「えぇ」
「あの小隊の面倒見切れるのは凄いけど、噂になってるわよねぇ」
「そうそう。ケロロ小隊の次は、ガルル小隊かって」


くすくす、と隠しもせずに笑う彼女たちの表情は醜い。嫌味をあてつけられる相手が戻らないとわかった途端にこれでは、彼女たちに品格を求めるのはいささか大変そうだった。適当に相槌を打つつもりだったが、なんだか気分が変わった。その噂とやらはどこから来たものか知ってみたかった。


「へぇ。そんな噂始めて聞いたわ」
「プルルは出てることが多いからね。ガルル小隊は目立つから、この手の噂なら沢山あるわ」
「ケロロ小隊も、何かとやらかす小隊だったから、そこにいたは噂の的なのよ」
「そうなの」
「そうよ〜。ギロロ伍長やドロロ兵長はウブだって言うし、あのクルル曹長だってラボの暗証番号をにだけは教えていたって話じゃない。手玉に取られてたんじゃないかって、噂よ」


噂、というところに彼女は力を込めた。まるで自分とは関係ないように。


「ガルル小隊の噂は?」
「ガルル中尉がを誘うところを見たって子がいるのよ。はすげなく断ったらしいけどね。それにゾルル兵長を探し当てられるのだって、本当は二人で落ち合う場所を決めているんだって話よ。あの捻くれたトロロ新兵だっての注文なら受け付けるのはシバかれたからだ、なんていう人もいるわ。タルル上等兵とは突撃兵同士、話が合うんじゃないかしら」


二人の会話は淀んでいるのに、スラスラと口ばかりすべる。あたしは笑いながらも、彼女たちの頬に平手を食らわしてやりたかった。そんな噂ばかりを並べ立て、彼女を侮辱することが許せなった。しかし、はそんなことを望まない。いつか反論すべきだと助言したとき、は無感動に首を振った。
「そんなこと、どうでもいいわ」
彼女の話からすると、それは仕方のないことらしかった。は愛想笑いが出来ない。看護兵になり、少しずつそれも覚えるようになったが、突撃兵のときは小隊のメンバー以外と親しく話したことがないのだと言う。女性の突撃兵だということで注目を浴びていたのは事実だ。それについてギロロがいつか喧嘩騒ぎを起こしたことがあったこともある。が侮辱されたのが原因だったらしいが、そのときはギロロ伍長に礼を言うのでもなく、開口一番に怒鳴った。結局、いつものように二人は喧嘩を初め、メンバーが止めに入ったのだが、はそのときのようなことは起こってほしくないのだと語った。愛想がないのは愛想を振りまかなければ保てないものなど必要ないからで、もちろんそれは看護兵となってからでも変わらない。言いたい人には言わせておけばいいのよ、と笑ったは、愛想ではなく心からの笑顔を見せてくれた。


「それはデマね」


しばらく『噂』とやらを堪能した後で、あたしはテーブルを立った。二人が注目する。「どうして?」と無知な声を恥ずかしげもなく披露する彼女たちに軍の看護兵は似合わない。


には、もう決まった人がいるからよ」


にっこりと笑ってあたしが言うと、二人が話に食いついてくる。それは誰?どこの人?階級は?それとも外部の人?鬱陶しい質問に、あたしはとぼけた。


「噂じゃないもの。簡単には教えられないわ」


そう言って、あたしは休憩室を出る。二人は惜しいような声を出しながらも追っては来なかった。今からのお相手について、また楽しい噂話でも始めるのではないだろうか。明日からは質問攻めにあうことだろうが、それについては謝ろうと思う。でも、これであんな噂の的になることはなければいいと思った。

がケロロ隊長に将来を約束されたことは、彼女の口から聞いた。お酒を飲みすぎた夜で、二人で一つのベッドに横になりながら、大切そうに話してくれた。がいつも首からぶら下げている指輪の意味を教えてもらったのもそのときだ。は嬉しそうに緑の指輪を左の薬指に嵌めた。あたしは驚きながらも浮かれた調子は変わらずに、お祝いの言葉を贈った。ガルル小隊もそのことを知っていると言った彼女は、やっぱりお酒は駄目ね、と笑っていた。


「プルル看護兵」


回診にでも行こうか、と思ったところで声をかけられた。あの婦長だった。


「はい。なんでしょうか」
「悪いけれど、先ほどの話を聞きました」


婦長は悪びれずにあたしに告げる。先ほどの話。には決めた人がいるという、あの話?
婦長は真面目な顔で、あたしを見た。


「それは、ケロロ軍曹のことではありませんね?」


まるでそうではないことを祈っているような言い方だった。あたしは婦長がそれを確認する意図を測りかね、「ケロロ軍曹ではいけないんですか?」と問い返した。上司にこんな態度をとったのは初めてだった。しかしそれを咎めることもなく、婦長は肩を落とす。


「そうなのですか。彼なのですか。…………だとしたら、私は酷なことをしました」


懺悔できるものなら、したい。こんなに小さくなる婦長を見るのは初めてだった。あたしは自分が悪いことをしたような気持ちになり、どうしようかと戸惑う。ケロロ君ではいけないわけがわからない。婦長は首を振ったあとで、いつものように厳しい視線を取り戻した。


「ガルル中尉に連絡を。は戻らないかもしれません」
「あの、それは…………なぜですか?」


婦長が行動を取るのを制して聞く。に何があるというのか。彼女は、今日は戻らないと告げたではないか。しかし婦長の言う「戻らない」は「もうここには」という響きが含まれていた。もうここには戻らない。その響きに隠された真実は?


「プルル看護長。私は…………」


婦長の告白を聞いたあたしは、そのとき本当に悲しかった。
がどんな立場にいるかがわかったこともそうだけれど、先ほどの電話で少しもそれに気づけなかった自分自身が許せなかった。
はきっと、自分の持てる力の全てを使って嘘をついた。
あたしを騙すために、彼女の全神経を使って嘘をついたのだ。
自分は大丈夫だと、言い聞かせるようにして。
あぁ、だって、あなたの心が揺れないわけがない。
愛想笑いが嫌いなあなたが笑って電話を切ったのは、最後だったからだとしたら悲しすぎる。




。今、あなたはどこにいるの?















(07.08.27)